遊牧民は番犬を飼っている。
旅のしおりに基本的な挨拶などのモンゴル語が乗っているけど。そこには「犬を遠ざけてください」というのも載っていた。
遊牧民の家に遊びに行った時に使うそうだ。
僕がこのゲルに着いた時にも、
犬が出迎えてくれて。
近づいてきたので、撫でようとしたら
「ダメダメー!噛まれるよ!!」
みたいなことを言われた。
だって、近づいてきたんやん!!
と思いながらも、噛まれたら嫌だから
そのままにしていた。
ツアーの最中。犬は僕に近づいても来なかったし。
一度こっちから近づこうとしたら、、、、
「おまえ、静かにしてるからって、何近づいて来てんねん!それ以上来んなよ、ボケカス!」と。
ガルル顔になった。
「これ以上はだめなのね、、、、」と。ビビってここからは近づかなかった。
ここには子犬もいて。こっちは、人間が好き。
「遊んで!遊んで!」と近づいてくる。
あの親犬だって、子犬のころは、しっぽを全力で降って、近づいてきたはずだ。
でも、遊んでいたら危険を察知する能力が低下してしまうので、番犬にならないから。
番犬としての訓練をしたんだと思う。(ほんとに訓練するかは、知らない)
ツアーのみんなが帰ってから、僕たちの関係に変化が起きた。
親犬が近づいてきたのだ。モンゴルの犬は胴が太くがっしりしている。ラグビー選手みたいな身体付きだ。僕に足に頭からタックルするように、コツンコツンと頭をぶつけてくる。
そして、前足をそろえて、グーーッと伸びをする。
これは「退屈だよ、遊んで!!」のポーズだ。「早く散歩行こうよ!!」と僕が飼ってた犬も同じポーズをしていたから、きっとそうだ。
「おまえ、仲良くしたいの?」撫でようとすると、
「噛むからダメだよ!」と、遊牧民に言われた。
「こいつ、よくわからんけど、ずっといるから、もう大丈夫やな」
と親犬も思ったのだろうか。人間が多い緊張感が無くなったのだろうか。
わからないが、そのまま昨日は馬に乗り、1日を終えた。
そして今朝。というか、さっき。
目覚めて外に出た。
雲の切れ間から、少しだけ見える朝日を見ていた。
犬の親子も近くで寝ていたから「おいで」と言ったら、子犬が寄ってきた。
子犬はすぐに親犬の元にもどり
「ねぇねぇ、遊んでよ!」とタックルをかましていた。
ぼくが、ゲルに戻ろうとすると、親子がじゃれ合いながら、着いてきた。
僕が立ち止まると、ふたりも立ち止まり、3人でぼーっとしていた。
おまえ、ガルルじゃない顔、あるんじゃん。
最後は遊牧民の、おじさんに見つかり笑
「ダメだよ。噛まれるよ!」と追い払われてしまった。
もしかしたら「ダメダメ、甘やかさないで!」と言っているのかも、しれない。
5分もないけれど、幸せな時間だった。
ガルル顔で「近づくな、ボケカス!」と言っていた親犬がこんなに安心しているなんて!!
社会の中にいると、役割としての「顔」を求められる。
「笑顔」や、こういう顔しておけばうまくいくんだろ?という顔。
だんだんと、ほんとうの顔を人に見せるのが怖くなる。嫌われるんじゃないか?うまくいかないんじゃないか。
気づくと、自分が、どんな顔か、忘れてしまう。
ほんとに笑いたいのか。求められてるから笑っているのか。やりすごすために笑うのか。
どんな時に笑っていたのかすら忘れてしまう。
ほんとうの顔を見せるよりも怖いこと。
それはほんとうの顔を忘れてしまうこと。
親犬も遊牧民が来た瞬間、反射的にスイッチが入り一瞬だけガルル顔になった。
どれだけ自分が、ほんとうの顔でいたくても、それができない無意識のスイッチが、自分が置かれている社会には無数にある。
それは、人間だけではない。犬にも馬にもある。だから、スイッチが入ること自体は自然のこと。
声、音、匂い、それは、勝手にやってくる。もどりたくない場所にフラッシュバックしてしまう。
社会の中に無数にある無意識のスイッチに、反応しなくなる強さを学びに来たのかもしれない。
「あいつといれば、ほんとう自分でいられるんだけどな」ではなく。
いつでも、誰とでも。ほんとうの顔で過ごせるようになるために。