ぼくらのありのまま記

ぼくらは
こんな大人になりました。

モンゴル コンチェルト 第1楽章 〜気づき〜第2小節

2017-08-22 20:05:32 | 東京日記

遊牧民は番犬を飼っている。
旅のしおりに基本的な挨拶などのモンゴル語が乗っているけど。そこには「犬を遠ざけてください」というのも載っていた。

遊牧民の家に遊びに行った時に使うそうだ。



僕がこのゲルに着いた時にも、
犬が出迎えてくれて。
近づいてきたので、撫でようとしたら
「ダメダメー!噛まれるよ!!」
みたいなことを言われた。

だって、近づいてきたんやん!!
と思いながらも、噛まれたら嫌だから
そのままにしていた。




ツアーの最中。犬は僕に近づいても来なかったし。


一度こっちから近づこうとしたら、、、、




「おまえ、静かにしてるからって、何近づいて来てんねん!それ以上来んなよ、ボケカス!」と。
ガルル顔になった。
「これ以上はだめなのね、、、、」と。ビビってここからは近づかなかった。




ここには子犬もいて。こっちは、人間が好き。

「遊んで!遊んで!」と近づいてくる。


あの親犬だって、子犬のころは、しっぽを全力で降って、近づいてきたはずだ。
でも、遊んでいたら危険を察知する能力が低下してしまうので、番犬にならないから。

番犬としての訓練をしたんだと思う。(ほんとに訓練するかは、知らない)



ツアーのみんなが帰ってから、僕たちの関係に変化が起きた。



親犬が近づいてきたのだ。モンゴルの犬は胴が太くがっしりしている。ラグビー選手みたいな身体付きだ。僕に足に頭からタックルするように、コツンコツンと頭をぶつけてくる。

そして、前足をそろえて、グーーッと伸びをする。



これは「退屈だよ、遊んで!!」のポーズだ。「早く散歩行こうよ!!」と僕が飼ってた犬も同じポーズをしていたから、きっとそうだ。


「おまえ、仲良くしたいの?」撫でようとすると、
「噛むからダメだよ!」と、遊牧民に言われた。


「こいつ、よくわからんけど、ずっといるから、もう大丈夫やな」
と親犬も思ったのだろうか。人間が多い緊張感が無くなったのだろうか。


わからないが、そのまま昨日は馬に乗り、1日を終えた。

そして今朝。というか、さっき。
目覚めて外に出た。


雲の切れ間から、少しだけ見える朝日を見ていた。

犬の親子も近くで寝ていたから「おいで」と言ったら、子犬が寄ってきた。

子犬はすぐに親犬の元にもどり
「ねぇねぇ、遊んでよ!」とタックルをかましていた。


ぼくが、ゲルに戻ろうとすると、親子がじゃれ合いながら、着いてきた。




僕が立ち止まると、ふたりも立ち止まり、3人でぼーっとしていた。







おまえ、ガルルじゃない顔、あるんじゃん。



最後は遊牧民の、おじさんに見つかり笑

「ダメだよ。噛まれるよ!」と追い払われてしまった。

もしかしたら「ダメダメ、甘やかさないで!」と言っているのかも、しれない。



5分もないけれど、幸せな時間だった。


ガルル顔で「近づくな、ボケカス!」と言っていた親犬がこんなに安心しているなんて!!


社会の中にいると、役割としての「顔」を求められる。
「笑顔」や、こういう顔しておけばうまくいくんだろ?という顔。



だんだんと、ほんとうの顔を人に見せるのが怖くなる。嫌われるんじゃないか?うまくいかないんじゃないか。
気づくと、自分が、どんな顔か、忘れてしまう。

ほんとに笑いたいのか。求められてるから笑っているのか。やりすごすために笑うのか。

どんな時に笑っていたのかすら忘れてしまう。


ほんとうの顔を見せるよりも怖いこと。
それはほんとうの顔を忘れてしまうこと。




親犬も遊牧民が来た瞬間、反射的にスイッチが入り一瞬だけガルル顔になった。






どれだけ自分が、ほんとうの顔でいたくても、それができない無意識のスイッチが、自分が置かれている社会には無数にある。

それは、人間だけではない。犬にも馬にもある。だから、スイッチが入ること自体は自然のこと。


声、音、匂い、それは、勝手にやってくる。もどりたくない場所にフラッシュバックしてしまう。
社会の中に無数にある無意識のスイッチに、反応しなくなる強さを学びに来たのかもしれない。



「あいつといれば、ほんとう自分でいられるんだけどな」ではなく。
いつでも、誰とでも。ほんとうの顔で過ごせるようになるために。




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