ぼくらのありのまま記

ぼくらは
こんな大人になりました。

「ダンバダルジャーで聞いたこと。」モンゴル慰霊碑訪問記、その2

2017-08-31 21:46:30 | 東京日記



・これから、過去の話がでてくる。それは、ここに住んで慰霊碑を管理している方が参拝に来た当事者やその家族から、

そして、彼の亡くなったお兄さんが聞いた話をまとめて教えてくれたもの。

箇条書きで書きました。



・モンゴル語だったけれど、通訳の仕事をしている友だちにその場で通訳してもらった。



・数字などは、北大HP内の論文と照らし合わせました。当時の情景や描写は、口頭伝承で伝わって来たことだと思って読んでください。

・ここは2001年にできた。


・戦後亡くなった方の慰霊碑にしては、最近だなと思った。聞くと、1993年までは社会主義だったので、来たくてもこれなかった。


・民主化ののち、94年から遺骨、遺品収集が開始、99年に完了。

(トゥブシンさんが話していたのは、これのことだったのかぁ。小泉さんが写っていました。)


(掘り起こした遺骨を、改めて火葬する様子)
・それから、慰霊碑の計画、建設をモンゴル政府と話し合いを進め、ようやく2001年に完成した。


・ここに慰霊されているのは1945〜47年の2年間で亡くなった方々の魂。



・戦時中に亡くなった方のものではない。

・戦後、60万人いたと言われるシベリアにいた捕虜のうち、12000人がモンゴルに来た。


(わかりずらいですが、当時ここにいた方の遺品から出てきたスケッチ。)

・派遣された理由は、社会主義国家のなかで、インフラ整備が著しく進んでいなかったので、整備のための労働力として来たと考えられている。



・10月にロシアを出発し、モンゴルに着いたのが2月。真冬は-40度にもなる世界を歩いて来た。

・それは、当時16歳だったタムラさんは着いた時に、モンゴル人が迎え入れてくれて、つくってくれた、羊肉のスープが、あたたかくてあたたかくて、しあわせだったそうだ。




・はじめは洞窟みたいなところで暮らしていたが、モンゴル人がゲルを作ってくれた。

・僕は着いてすぐに「あ、この丸い建物の感じと屋根が空いている感じは、ゲルだ」と思った。



・そうしたら、本当にゲルのオマージュだった。ゲルでの生活が快適だったから、つくってくれたモンゴル人への敬意を表してこの形にしたそうだ。



・5〜6月は太陽の位置が丁度この上を通り、その光が地面に差し込むと「日の丸」のようになる。
・ゆえ、政治家など、オフィシャルな参拝はその時期が多い。



・遺族会の方など、季節ごとにいらっしゃっている。


・12000人の日本人は名簿で把握できる能力により、全国に移動した。そのため、モンゴル国内に16箇所の日本人墓地があった。




(現在は、このダンバダルジャーに16箇所の土を一緒に置いてある)

・12000人の名簿をしっかりつくってくれていた。そして、慰霊碑ができてからは、その名簿を遺族が読めるようにと、日本語に翻訳したものも作成してくれている。




・参拝に帰ってくる日本人たちはモンゴルに対しては「負」の感情はない。それよりも、あたたかいスープを出してくれたり、政府にばれないように。

キャンプ地にこっそりとヨーグルトを固めたようなお菓子の袋を放り投げてくれたりしてくれたことの方が記憶に残っている。



・強制労働ではあったが「同じ人間」として、扱ってくれたという感謝の気持ちが強い。

・ここでの強制労働を強いたのはモンゴルが決めたことではないし、モンゴル人が捕虜とし捕まえたわけではない。他の国では、墓も名簿の無いまま、捕虜の生存確認もままならなかったことを考えると、モンゴルの対応は、よいものだった。


・参拝に来られた方も、国や人に対しては負の気持ちできているわけではない。仲間たちや、家族にあうように、ここに来ているそうだ。



・これは47年、日本に帰国する際に、日本人が建てたもの。日本語は禁止だったため、文字も文法も見よう見まねのまま、この記念碑を建てて帰った。モンゴル語のようだけど今は通じないそうだ。

・47年に帰国する時、生存確認が取れない行方不明者が6人いた。そのうち4人は日本人ということを、隠して。モンゴル人のコミュニティで暮らし、結婚もしていたことが、後から判明した。



・彼らは、日本人だと悟られないように、はじめはことばを話せない人を装って、遊牧民の生活に溶け込み、働き、そして、結婚もした。

・信頼関係ができるなかで、徐々に遊牧民に、出生を明かす。

・それでも、彼らは、受け入れてくれた。

・いよいよ、パスポート、戸籍作りをしなくてはいけない時になっても、遊牧民の家族がモンゴルの名前をくれて、書類を作ってくれた。

・その4人は、民主化された時、日本の家族に連絡をとり、日本にも帰国したが、死ぬまで「モンゴル人」として一生を過ごした。そのお孫さんたちと、日本人家族とは今でも交流がかるそうです。




・1966年、民主化しない時期にはじめて日本人が戻ってこれた。その記念碑がこれ。



・モンゴルに安らかに眠ってください。諸士よ、日本は見事に復興しました。
なぜその時期にこれたかは、不明。負けてから20年が経ち、日本は復興したことを伝えに来た




・戦時中、この場所で過ごしていた方も訪れてはいたが、徐々に他界していった。去年は93年から毎年来ていたひとが、唯一ひとりだけ来ていた。


「それでも、来年は来られないかもしれないなぁ、、、」と話していたのが、現実となり今年はいらっしゃらなかった。


以上が、ダンバダルジャーで暮らし、慰霊碑の管理をされている方から聞いたお話です。



何枚か当時のスケッチを見ました。とても上手なスケッチでした。絵が上手い人も料理が好きな人も、色んな人がいたんだなと、その体温を少しだけ感じられた気がします。


ありがとうございました。



安らかにお眠りください。

「僕の祖父は、満州で肩を撃ち抜かれた。 」モンゴル慰霊碑訪問記、その1。

2017-08-31 10:44:18 | 東京日記

僕の祖父は、満州で肩を撃ち抜かれた。

それが戦争について、僕が知っている唯一の物語だ。

悲しかったのか、怖かったのか。寒かったのか、暑かったのか。「肩を銃で撃ち抜かれた」それ以外の気持ちや、風景は何も知らないし、もう聞く事はできない。



第二次世界大戦について他には何も知らないし、参拝も黙祷もした事がない。
そんな僕が、モンゴルで死んだ日本人の慰霊碑に行ってきた。




「たらさん モンゴル行くなら 日本人墓地 行った方がいいね」



7月に木更津のカフェで出会った、トゥブシンさんが教えてくれた。

「戦争の後 モンゴルで死んだ日本人の お墓があるんだよ。小泉さんが遺骨を日本に持ち帰ったんだ。日本は歴史で習わないか?」

「多分習ってない。聞いてないだけかも。」

「私 歴史好きだよ。日本人なら日本人墓地は行った方がいいね。」


3週間モンゴルで過ごす事が決まった僕は、情報収集と、語学の勉強のために、モンゴル人や関係者を紹介してもらった。

トゥブシンさんもそのひとり。
大学卒業後、日本の日本語学校に行き、今は日本で、建築関係の会社に勤めている。
日本で働きたいモンゴル人と、人手が欲しい建設業界へのマッチングみたいな仕事らしい。

「気仙沼、先週も行ってきましたよー!シャークミュージアムでお寿司食べたね」

3年過ごした気仙沼にも、復興の仕事で沢山のモンゴル人が来ていることを知った。



「この番号に電話してね!前橋ののりこといえばわかるから!」


トゥブシンさんの名刺の写メ(モンゴル語で名前も読めず)をくれたのも、気仙沼で知り合った人だった。

「すみません、のりこさんの友だちなんですけど、、、」

「なに?あの群馬の?」

「僕モンゴル行くんだけど、と言ったらこの番号を教えてもらいました」

と名前もわからない人に電話して、お茶して、次はモンゴル料理を食べる約束した。



勉強したかった語学は全く教えてくれなかったけれど、逆に日本の歴史を教えてくれた。そして、日本人墓地にはどうにかして行こうと思った。





僕が第二次世界大戦に対して、いちばん近い接点は4人の祖父母だった。


高校生の時まで、4人とも生きていたけれど(今は祖母がひとりだけ)、ほとんど戦争の話は聞いた事がない。

父方の祖父母は下丸子で個人経営の不動産屋を営み、成功して、小さな4階建の家を建てた。

「今井の孫は成功するから大丈夫だ。」祖父はタバコを喫みながら、食後には大量の薬を飲みながら、いつもその話をしていた。
祖母は穏やかに笑ってお茶を入れてくれていた。


戦争についての話は聞いた事もないし、特別参拝に行っているわけでもなかった。



母方の祖父母は、西日暮里にいた。祖父は浅草の鞄職人で、気弱で無口だが、酒飲みで、酔うと気が大きくなり、帰り道にホームレスを家に連れて来て飲み食いさせては、家族に迷惑がられていたらしい。

僕が知っている頃の祖父は、仕事は引退して、毎朝4時に起き浅草寺まで散歩をし、朝食にグレープフルーツを食べ、夜はキリンの大瓶を1本飲む、規則正しい生活をしていた。タバコは確かハイライトを吸っていた。


普段は無口で、酒を飲むと饒舌になる祖父は山形出身だった。それって東北気質だったのかな。と気仙沼で思い出したりもした。




戦時中、祖父は満州にいた。

「肩を銃で撃ち抜かれたんだ。」

祖父が戦争の話をしたのは、それだけだった。

怖がらせないようにか、思い出したくないのか、もともと無口だからか。
わからないけれど。悲しいとか、恨むとか、そういう感情は感じなかった。
子どもを面白がらせるというわけでもなく、それでも明るく話してくれた。




「今、モンゴルにいるんだよねー。」と話すくらいの軽さで「ただ、そういう事があったんだよね」と話していた。

ただそれは、僕が祖父の揺れる感情に気がつけなかっただけかもしれない。(大人はいつでも何があっても動じないし、強いものだと思っていたから)。


祖母は戦時中、日赤の看護師だった。結構仕事はできたらしいが、詳しい事はなにも知らない。
僕が知っている祖母は毎日毎日テレビで流れる株価のチェックをして、株主優待券を楽しみにして。ラジオドラマを聴きながら、セーターを編んでいる生活をしていた。

4人とも戦争を経験して来たけれど、「それ、終わったことだから」と、それぞれの人生を生きていたように思う。




ウランバートル郊外スフバートル地区ダンバダルジャーにて。

慰霊碑の横で暮らし管理をしているモンゴル人の家族に出会った。



日本人かと思った顔だちの彼が、彼のお兄さんや、戦後ここで過ごした日本人参拝者から聞いた話を僕に教えてくれた。







ダンバダルジャーで聞いた、モンゴルで過ごした日本人の話は、僕の祖父母が多くを語らず「過去」に置いてきた、物語の一編につながっている。

それは「同じ時代に同じ国で産まれた」というだけのつながりかもしれないし。

「僕の祖父は、満州で肩を撃ち抜かれた。」まさにその日、同じ場所にいた友人、ということかもしれないし。

その前に日本で出会っていた、ということかもしれない。




そんな「祖父の友人だったかもしれない人たちの物語」を僕は、モンゴルで聞いたのだった。




つづく。