父島には戦争の跡地を巡る
戦跡ツアーなるものがあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/c7/8678f2f91f935bc66d2c586eb49bdb90.jpg)
同じ小笠原諸島にある
硫黄島は第二次世界対戦のとき、
戦場となった島で、3日間で
約2万人の犠牲者がでた戦地です。
父島は硫黄島から300キロしか
離れておらず、地上戦を想定した
作りになっています。
現在も建物や、砲台、軍の備品などが
山の中に当時のまま保存されているので、
貴重な資料となっています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/47/9167d3899a7662ecfe8567d9946ee379.jpg)
硫黄島での決戦で大きな傷を負ったため、
また、武器や、食料も全く足りなかったため。
父島、母島では地上戦に及ばなかったそうです。
降伏後、米軍に武器を渡す際、
「こんな少ないはずないだろう、
速く、隠している武器をだせ!!」と
疑われたほど、少ない武器で戦おうとしていたそうです。
この話しも今回の戦跡ツアーで
教えてもらった事です。
板長こと池田さんと、
小笠原の戦争跡地を
巡るツアーに参加してきました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/b5/89ddb4327d4c9f659d33d80f63a2a9f0.jpg)
池田さんは小笠原諸島、日本返還後
父島や硫黄島の遺骨収集や、戦争跡地の
記録カメラマンとして島にやってきました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/5d/92e8786429be39031bae98124a7f5898.jpg)
この森のなかの道無き道を、
40年以上、何百回と山に入り、
「ここに道があるなら、
近くに発電所、炊事場があるはずだ。」
と推測し、今まで、土に埋もれていた
居住跡や、様々な遺品を見つけてきました。
見つけた建物がどのように、
どの部隊が使っていたのか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/d3/8a9ca54cadf7b682159f152c507ee0ce.jpg)
(ここは、部隊の居住跡。ガイドがないと、道との区別もつきませんでした。)
正確な情報を知るために、
東京の史料図書館にも何十回と通いつめて、
文献を読み、当時、父島で戦っていた方にも
何度も会いにいったそうです。
島に帰って来たらまた、山に入り
半年かけて、土に埋もれた防空壕をきれいにしたりと
地道な作業を繰り返し、父島の戦跡を蘇らせてきました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/1f/8baa54f34cf2229b6d78a6e6a55cd525.jpg)
12年前、もう歳もくってきたし、
実家の福島に帰ろうと思っていたところ。
「池田さんがいなくなったら、
見守ってくれる人がいなくなる」
「推薦状も書くから、どうか島に居て欲しい」
遺族の方や、戦争経験者の方々に沢山の言葉を頂いて
父島に残る決心をしました。
そして、ここで、戦った人たちの
歴史をちゃんと伝えたいという気持ちで、
戦跡ツアーガイドを始めることにしたそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/25/1cb275a140731b6d79604af061431fc9.jpg)
お墓に献花をするように、山に入り、
掃除をして、「忘れられないように」
島育ちの僕らや、観光客にも優しく、教えてくれています。
僕は、板長の事は全然知らなかったのですが、
今も島で暮らす、小学校の担任の先生に
「私がお金だしてもいいから行って来なさい!!」
と勧められたので、今回参加することとなりました。
次回は印象に残った場所を紹介したいと思います。
戦跡ツアーなるものがあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/c7/8678f2f91f935bc66d2c586eb49bdb90.jpg)
同じ小笠原諸島にある
硫黄島は第二次世界対戦のとき、
戦場となった島で、3日間で
約2万人の犠牲者がでた戦地です。
父島は硫黄島から300キロしか
離れておらず、地上戦を想定した
作りになっています。
現在も建物や、砲台、軍の備品などが
山の中に当時のまま保存されているので、
貴重な資料となっています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/47/9167d3899a7662ecfe8567d9946ee379.jpg)
硫黄島での決戦で大きな傷を負ったため、
また、武器や、食料も全く足りなかったため。
父島、母島では地上戦に及ばなかったそうです。
降伏後、米軍に武器を渡す際、
「こんな少ないはずないだろう、
速く、隠している武器をだせ!!」と
疑われたほど、少ない武器で戦おうとしていたそうです。
この話しも今回の戦跡ツアーで
教えてもらった事です。
板長こと池田さんと、
小笠原の戦争跡地を
巡るツアーに参加してきました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/b5/89ddb4327d4c9f659d33d80f63a2a9f0.jpg)
池田さんは小笠原諸島、日本返還後
父島や硫黄島の遺骨収集や、戦争跡地の
記録カメラマンとして島にやってきました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/5d/92e8786429be39031bae98124a7f5898.jpg)
この森のなかの道無き道を、
40年以上、何百回と山に入り、
「ここに道があるなら、
近くに発電所、炊事場があるはずだ。」
と推測し、今まで、土に埋もれていた
居住跡や、様々な遺品を見つけてきました。
見つけた建物がどのように、
どの部隊が使っていたのか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/d3/8a9ca54cadf7b682159f152c507ee0ce.jpg)
(ここは、部隊の居住跡。ガイドがないと、道との区別もつきませんでした。)
正確な情報を知るために、
東京の史料図書館にも何十回と通いつめて、
文献を読み、当時、父島で戦っていた方にも
何度も会いにいったそうです。
島に帰って来たらまた、山に入り
半年かけて、土に埋もれた防空壕をきれいにしたりと
地道な作業を繰り返し、父島の戦跡を蘇らせてきました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/1f/8baa54f34cf2229b6d78a6e6a55cd525.jpg)
12年前、もう歳もくってきたし、
実家の福島に帰ろうと思っていたところ。
「池田さんがいなくなったら、
見守ってくれる人がいなくなる」
「推薦状も書くから、どうか島に居て欲しい」
遺族の方や、戦争経験者の方々に沢山の言葉を頂いて
父島に残る決心をしました。
そして、ここで、戦った人たちの
歴史をちゃんと伝えたいという気持ちで、
戦跡ツアーガイドを始めることにしたそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/25/1cb275a140731b6d79604af061431fc9.jpg)
お墓に献花をするように、山に入り、
掃除をして、「忘れられないように」
島育ちの僕らや、観光客にも優しく、教えてくれています。
僕は、板長の事は全然知らなかったのですが、
今も島で暮らす、小学校の担任の先生に
「私がお金だしてもいいから行って来なさい!!」
と勧められたので、今回参加することとなりました。
次回は印象に残った場所を紹介したいと思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/30/c7ba338362df0b99c1f2ff2d2659637b.jpg)