迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

黎明繊指。

2024-02-17 20:05:00 | 浮世見聞記




長野縣千曲市の長野縣立歴史館にて、「和田 英~糸づくりに懸けた明治の女性~」展を觀る。



明治六年(1837年)、その前年に操業したばかりの武州富岡製糸場へ傳習工女として入り、一年三ヶ月にわたって糸繰りの技術を學んで故郷の信州松代へ戻ったのち、明治八年八月に當地で創業した民營の製糸場六工社(ろっこうしゃ)で技術教師になるなど、明治初期のニッポン近代化に貢献した武家出身の女性、和田英(わだ えい)の軌跡を、遺された自筆文書などから偲ぶ。


(和田英 ※フラッシュ無しで展示室内撮影可)

昨秋に富岡製糸場、昨年末には信州岡谷へ製糸業の面影を訪ねた際にこの企画展を知り、これもぜひ觀ておきたいと願ひ、今日に叶ふ。

ほかの十五人のうら若き同郷の女性たちと共に、數へ十七歳(十五歳)で傳習工女となった和田英の富岡製糸場における日々は、


(後列右から二人目が和田英 ※同)

彼女が明治四十年(1907年)より病床の母を慰めるためにしたためた「富岡日記」に詳細にまとめられ、明治黎明期の富岡製糸場の様子を知る貴重な文献資料となってゐる。



今回はその自筆原本も公開され、富岡製糸場を訪ねるに當り予習のため入手した文庫版「富岡日記」と、



文章を照らし合はせることの出来たのがいちばんの収穫。

明治七年七月、英がいよいよ富岡製糸場をあとにする時、それまで親しくしてゐた工女の一人が駆け寄って英の髪に白桃の小枝を挿すと、道中で暑氣に當らぬまじないと告げて、袖で顔を覆って後も振り返らず自室へ駆け込んだと云ふ件りは、何度讀んでも胸にくる私の好きな場面だ。

その後、明治十三年(1880年)に結婚したのを機に製糸業界を引退した英は、堅實に家庭を支へる人生を歩むが、その時代の私信には息子の成績不振や交際費が嵩んで困るなど、現代の主婦と變はらぬ問題に頭を抱へる生の姿が窺へて興味深い。

晩年は孫にも恵まれた英が、鉱山開發中の栃木縣日光市足尾で七十二年の生涯を閉じた昭和四年(1929年)は、


(※中央が晩年の和田英)

折からの不況で、ニッポンの製糸業界がいよいよ斜陽化していった頃でもある。


となりの展示室では、輸出絹糸に添付されたラベルが公開され、一画では富岡製糸場が世界遺産に登録されて三周年の際に制作された和田英の自傳映画のPR映像が流れてゐる。



私は、展示されたラベルに刷られた數多の製糸會社のほとんどが消滅してゐる事實より、近代ニッポン黎明期の“勢
ひ”と“挫折”を併せ見る。


もちろんそれは、和田英の與り知らぬことだ。










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