東京都千代田區九段の昭和館の特別企画展「慰問 銃後からのおくりもの」を觀る。
遥か遠い地の戰闘最前線に立つ兵士たちへ、“銃後”の國民たちが手紙を添えて送った品々──“慰問品”は明治三十七年(1904年)の日露戰争より始まり、それが日用品や嗜好品を励ましの手紙と共に手にした兵士たちにどれだけ癒しをもたらしたかは、届いた慰問袋を手にした彼らが見せる満面の笑顔を撮った冩真が、よく物語ってゐる。
慣れぬ異郷の地と、故郷日本とを結んでゐたのが“慰問文”と云ふ手紙であり、肉親からもあれば、不特定宛に送られたものもあり、子どもが一生懸命に書いた文面のほか、兵士と顔も知らぬ女性との、お互ひに気遣ふやり取りがしたためられた文面からは、なにか“特別な想ひ”が秘められてゐたやうに感じられるものもあり、胸が詰まりさうになる。
(※慰問用に製作されたと思はれる絵葉書集 述者藏)
藝能人たちは慰問一座を結成して現地へ渡るが、それが兵士たち同様に命懸けであったことは、漫才師の女性が銃撃により亡くなった事實がはっきり示しており、この特別企画展中でもっとも忘れてはならぬと印象に殘る。
(※案内チラシより)
外國と戰火を交へることがかうした厳しい現實を生み出す、そのきっかけをつくった當時の為政者は、昭和十二年(1937年)十月に發表した『國民精神総動員に際し國民諸君に望む』と題した典型的なプロパガンダ文書に、大日本帝國が實はいかなる國情にあるかを、うっかり洩らしてゐる。
勝手に敵國と決め付けた支那の國策を長々と貶して反支思想を擦り込ませた上で、
「國民精神総動員とは、“大和魂”の総動員なり」
それは、
「困苦缺乏に堪える心身の鍛錬」
にあり、と宣ふ。
つまり、物資不足を“大和魂”でガマンしろと、はしなくもすでに在庫が怪しくなることを洩らしてゐるのだ。
“腹が減っては戰さは出来ぬ”──
この精神の行方は?
事實、敗色覆ふべくもない昭和十九年(1944年)になると、海軍が「輸送力優先のため」慰問袋の辞退を申し入れてゐる。
初めから負けと決まってゐたこの愚戰のために、さうと知ることなく遠い異郷へ駆り出され、遠い故郷からのささやかな贈り物に心の渇を潤してゐた庶民の兵士たち──
いつでも犠牲は、私たちのやうな立場なのだ。
もう一つ、2階ひろばの「写真家たちがみつめた戦前・戦中」展も觀る。
名取洋之助など當時一流の冩真家たちがフィルムに記録した昭和より、キナ臭い世相を四十點に特集したもの。
愚戰へと突きむ異常世界と見るのはその後の歴史を知ってゐる者の目にて、當時の庶民にはそれが平時(いつも)の日々。
知らずにゐることの幸せと恐ろしさは常に表裏一体であることを、四十點の白黒冩真は何よりも色鮮やかに語りかけてゐる。