迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

あやしなる双貌。

2024-08-03 20:35:00 | 浮世見聞記
昼前より川崎へ出かけ、川崎浮世繪ギャラリーにて「斎藤文夫コレクション 名品展」を覗く。



浮世繪と云ふ版画はだいたい図式が類型化してゐるのため、私のやうな素人目には延々と同じ品を見せられてゐるやうで、それが江戸時代約260年間のうちのどのあたりの物なのか、どうも時代が見えてこない憾みがある。

これが多色刷りでなかったら、おそらくここまで珍重されなかったであらうことは、“ジャポニズム”のきっかけがよく物語ってゐるのではないか。

そんな定型化した江戸版画に明治の西洋文明が描き込まれるやうになると、


(三代目歌川廣重「六郷川蒸氣車往返之全図」 ※案内チラシより)

やうやくニッポンも時代が動き始めたのだナ、と感じるのである。


昼からは稲毛神社祭禮の奉納神樂を觀やうとしたが、ちゃうど幕間中で時間が合はず、炎天下で數十分も待ってゐられないので、神社に参拝だけして今回はそのまま出、



神輿の數々だけを見物して夏祭りの雰囲氣を聞く。


昼過ぎからは川崎能樂堂の川崎市定期能公演にて、喜多流「鵺」を觀る。



近衞天皇を夜な夜な苦しめる“鵺”を、源頼政が猪早太を家来に従へて見事退治する武勇譚で、前場では頼政側から、後場では亡靈となった“鵺”の側からと二度語られるが、いづれも“鵺”の口から語られるところに、敗者の惨めさを際立たせる効果を狙ったやうに思ゆ。



前シテの掛ける面(おもて)は“妖士(あやかし)”。

それまで陰鬱にショボクレた亡靈の表情が、源頼政を謠ふ件りになった途端、キリッとした武将の表情に變化して、ああ能面には確かに魂がある、と得難き瞬間を目撃す。



狂言は大藏流山本家の「佛師」。

お堂に納める佛像をつくってもらわうと都に上った田舎男を、“すっぱ(サギ師)”が騙して自身が佛像に成りすますも失敗するドタバタ劇、そもそも“すっぱ”は騙さうとしてゐるより、からかってゐるだけのやうにも映るが、最後の件りで數々の奇怪(?)な形を見せる偽佛ぶりに、私ならばこれは斬新でござる、と買ひ求めるなァと思って笑ふ。








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