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戦争の誤謬 4: 古代ギリシャの戦争

2012年09月26日 | 連載完 戦争の誤謬


< パルテノン神殿 >

前回までは、日本と東アジアの戦争、端緒となった日清戦争を見ました。

ここで民主主義発祥の地、古代ギリシャがどのように戦争大国になっていくかを眺めます。

あたかも麻薬に毒されやがて滅び行く社会が浮かび上がってきます。

両者を比較することで戦争の仕組みが見えるかもしれません。




都市国家アテネに代表される古代ギリシャ文明は紀元前8世紀に姿を現し、勢力を急拡大させた。それを粉砕せんと侵攻して来たペルシャの大軍をギリシャ連合軍は前6世紀に破り、その後、芸術、科学、思想の花を咲かせ繁栄を極めた。しかし長くは続かなかった。やがて前4世紀アレクサンドロス、次いでローマの軍門に下り、歴史から姿を消すことになった。

ローマや中世以降の西欧から羨望の眼差しで見られたギリシャ民族、数千あると言われた都市国家群の滅亡の原因はどこにあるのだろうか。

皆さんが古代ギリシャで思い描くのは、アテネの民主制と白亜のパルテノン神殿ではないでしょうか。

アテネの繁栄と文明は交易とそこから生まれた進取の気質によると言えるかもしれない。さらにその民主制が強い軍隊を生み、規模の増大を促進し、やがて地中海の覇者となり、多くの富みを得て巨大神殿の建築を可能にした。



< 密集方陣隊形 Wikipedia >

古代ギリシャでは不思議な戦闘隊形が常用されていた、それは重装歩兵による密集方陣隊形です。

この密集方陣は、歩兵が左手に大盾、右手に槍を持ち、通常横に8人並び、後ろに10列以上続いた。平地で、戦闘開始の合図と共に両軍が早足で進み、正面衝突し、押し合いながら、槍で突き戦闘を行った。これには兵士間の高い信頼がなければ不可能であった。

初期の頃は、相手が総崩れや敗走すると追撃することはなく、投石などの飛び道具の使用は恥ずべきものとして使用されなかった。彼らは自らの土地を守る農民であり市民であった。

やがてアテネが頭角を現して来た。アテネは良港を持ち、圧倒的な数の三段櫂船を有する海軍大国を目指した。折しもペルシャ戦役において、最大の功績をあげたことにより同盟の金庫番となり、盟主となった。

覇者維持の軍備増強のために、初期には櫂船の漕ぎ手は奴隷であったが、市民資格と俸給を餌に大量募集するようになった。すると民主制アテネに予期せぬ事態が進行した。戦争開始は市民の民会で決議されているが、戦争を望む声が増大していくのだった。理由は二つ、戦勝することによる敗戦国からの賠償金・徴税・略奪と、兵士への俸給だった。当時、ギリシャ周辺海域には常時、パトロールと称して数万の海兵が櫂船を走らせていた。



< 三段櫂船 Wikipedia >

ここで二つの大きな社会変化が生まれていた。戦争こそが最大の経済的利益源とみなされた。古来ヘレネスと自称しギリシャ民族を誇っていたが、内実は毎年何処かで民族同士が戦争を繰り返し、数十年続く戦争も多々あった。アテネとスパルタの対立のように。

こうなると昔の戦闘における信義は守られなくなり、海上封鎖による籠城市民の餓死、守備兵を火焔放射器で焼殺し、老若男女民間人の殺戮・処刑はありふれたものになっていた。同盟の徴税に反対するだけで、侵略され首謀者処刑、富裕階層の追放、大部分の土地はアテネの貧民の手に渡るようになった。

あれほど先見性に富んでいたアテネ民主制も形こそ残っていたが、内紛と専横、スパルタとの綱引きで政治は劣化していくばかりであった。

スパルタは少数の市民のみが戦争をしたので男子の人口は減るばかりであった。アテネは無謀なシチリア遠征を決行し、数万の兵士と数百の櫂船を失った。こうして互いに争い、消耗していったのです。北方の辺境国マケドニアが立ち上がった時には、ヘレネスとして団結することも、武力も意欲もなかったのです。


これを衆愚政治の末路と呼ぶことも出来るが、本質は戦争の甘い罠に一旦嵌ると抜け出すことが出来ない典型だと言うことです。つまり専制であっても民主制であっても、戦争の誘惑はどちらにも存在するのです。

今一つ言えることは、高々百年あまりの間に、ソクラテスが誇った市民の重装歩兵は残虐きわまりない殺戮者に成り下がったということです。











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