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戦争の誤謬 17 : 残虐行為2

2012年10月16日 | 連載完 戦争の誤謬
< インパール作戦 >

前回は主にベトナムにおける米兵の残虐行為を見ました。

それは敵であり異なる民族に対する虐待や殺戮でした。

今回は、軍隊内部で何が進行し、残虐行為が起こる状況を見ます。

そこはやがて人間性が微塵も無い闇が覆い尽くします。



日本軍は無謀な作戦を数多く行ったが、44年のインパール作戦はその代表格です。極論すれば一人の司令官の名誉欲が三個師団の将兵を病死・餓死によって自滅させた。日中戦争の開始から7年、真珠湾攻撃から3年が経ち、中国では泥沼状態、太平洋では米軍が優勢となり、翌年は敗戦の年だった。インドとビルマの国境付近は、連合軍により中国軍への物資補給が行われていた。この遮断とさらなるインド侵攻を目論んだ一人の司令官がいた。彼は上級司令部の了解を得て三個師団に実行を命じた。しかし参謀長は補給不能で反対、三人の師団長のうち二人は明確に反対、一人は懐疑的だった。うち一師団は行軍途中で作戦放棄し退却した。日中戦争以降、日本軍の兵站は兵器優先で食料などは後回しで、特に中国大陸では点と線の支配であったため途絶えることが多く、現地調達を強いられていた。

作戦の問題は、雨期のジャングルや険しい山岳部、渡河を牛・山羊に積んだ荷駄と共に徒歩で進軍することだった。さらに英軍の爆撃に曝され、荷駄は散逸した。アジア全域で敗戦濃い日本軍に援助は望むべくもなかった。司令部に補給を求めても、「糧は敵に求めよ」と返電されるのみだった。やがて豪雨と泥に浸かり続けた為、軍刀は総べて錆、足はパンパンに腫れ上がり、餓死者、マラリアや赤痢患者続出となった。ついには糧食も絶え武器も無くなり投石で闘った。

この結果、当然作戦は失敗。将兵5万のうち2万が戦死(ほとんど餓死)、1万7千人が行方不明か患者であった。不思議なことにこの指令官は罰せられることがなかった。



< 映画「戦場にかける橋」 >

この作戦と同時期、ビルマとタイの間に重要な補給路である鉄道が敷設されつつあった。映画「戦場にかける橋」で描かれている。この建設に近隣諸国から連行された農民が10~20万人、連合軍捕虜(英軍主)5万人が動員された。苛酷な労働の為、農民3~6万人、捕虜約1200人が死んだ。第一次世界大戦の折、山東半島攻略時のドイツ軍捕虜の扱いは紳士的なものであったのが嘘のようである。

無謀な戦いにより自軍の兵士が悲惨な最期を遂げる事例は事欠かないが、太平洋の島々は特に悲惨であった。映画にもなった硫黄島では2万人が玉砕しているが、その6割は軍医の注射による自決であった。最も戦死者が多かったのはフィリピンであるが、ルソン島では飢えの為、ついには戦友を殺して食べる事件が続出した。

「人道に背いたわしがこんなこと言うのは矛盾しているようだが、家郷に残した妻子が、わしのこの卑劣な行為の真相を知ったら、どんなに嘆き、またどんな迷惑を蒙るか知れない。それが唯一わしの心残りなのだ」

この文は仲間を喰った犯人を捕らえて、自決させたり銃殺したりする捜索隊の記録にあった。犯人である大尉が銃殺の前に、戦死と報告して欲しいとの懇願である。



このような生き地獄のような状況が中国大陸、東南アジア、太平洋で繰り広げられていたのです。この余波は日本の植民地であった満州、朝鮮半島、台湾にも及んでいた。ベトナム戦争でもそうだが、これら悲惨な真実を本国で当時知ることは不可能だった。



大量虐殺事件は世界中で起きている。

大規模なものを挙げる。70年代、カンボジア内戦時のポル・ポト政権による虐殺は200万人を越える。これは自国民に対する処刑、饑餓、苛酷な労働や移住などによる。90年代、ルワンダ内の二つの部族間抗争により100万人が虐殺された。第一世界大戦時のオスマン帝国によるアルメニア人虐殺は約70万人とされている。



< アウシュヴィッツ収容所に到着したユダヤ人 >

最大のものはナチスによるホロコーストである。多くはユダヤ人絶滅を目的とし、収容所で殺害されたが、ユダヤ人以外も多かった。強制労働による過労、ゲットー閉じ込めによる病死、掃討作戦などでも死んだ。西欧・東欧・ソ連から掻き集められ、死者は合計1100万人(内ユダヤ600万人)に上った。アウシュヴィッツ収容所で約120万人が犠牲になっている。

このアウシュヴィッツ収容所の所長だった親衛隊中佐ヘスはヒムラーからユダヤ人絶滅計画を命じられた。「この命令には、何か異常な物、途方もない物があった。しかし命令という事が、この虐殺の措置を、私に正しい物と思わせた。当時、私はそれに何らかの熟慮を向けようとはしなかった。私は命令を受けた。だから実行しなければならなかった。」と回顧録に書いている。「世人は冷然として私の中に血に飢えた獣、残虐なサディスト、大量虐殺者を見ようとするだろう。けだし大衆にとってアウシュヴィッツ司令官はそのような者としてしか想像されないからだ。彼らは決して理解しないだろう。その男もまた、心を持つ一人の人間だったということを。彼もまた悪人ではなかったということを。」と手記に残した。

親衛隊中佐アイヒマンは強制収容所へユダヤ人を移送する指揮の中枢を担っていた。戦後逃亡生活を続け15年後に逮捕され、尋問で答えている。「あの当時は『お前の父親は裏切り者だ』と言われれば、実の父親であっても殺したでしょう。私は当時、命令に忠実に従い、それを忠実に実行することに、何というべきか、精神的な満足感を見出していたのです。命令された内容はなんであれ、です。」二人の大量虐殺当事者は神経を病んでいるようには見えない。共に裁判の上、処刑された。

ホロコースト事後
ドイツは自らナチスの戦争犯罪を裁判所で裁くことこそが、民主主義再生の旗印であり、他国からの信頼を得ると考えた。58年にドイツ検察庁は「ナチス犯罪追及センター」を設け、現在も摘発は続いている。
例に漏れず、ホロコースト否認論なるものが後に出てくる。イスラム世界はホロコーストへの世界の同情がシオニズムを容認したとして、これを過小評価しようとする。これ以外にも否認論者が出た。そこでドイツでは94年から「ホロコースト否定」が刑法で禁じられた。





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