このひと月の間に、新しい命との出会い、精一杯生き抜いた命との別れがありました。
2013年2月3日 午前10時11分、初孫の凛久に出会いました。
とても、とても、嬉しい日でした。
そして、2013年2月22日 午後10時40分、父が静かに息を引き取りました。
来月3月18日に89歳の誕生日をお祝いしようと楽しみにしていたので、とても、とても、残念で、残念でなりません。
父は沢山の病名をもっていました。
ここ2年ぐらい前から透析をしていました。
最初は週2回の透析が週3回になり、最近は酸素吸入をしながら自宅で過ごしていました。
母と妹が世話をしていました。
私は一日も早く動けるようになって、父の世話をしてあげたかったです。
歩く所を見て欲しかったです。
22日は、私のリハビリの日で、妹は父に付き添うため、リハビリはヘルパーさんがつきあって下さいました。
いつものように終わりの時間が近づくころに、何度か先生の指導で立ち上がる練習をしました。
そして一人で立ち上がってみようと思い、テーブルに両手をおいて、身体を前に寄せながら、思いっきり両足に力を入れて、エイッと、立ちあがってみました。
なんと、なんと、立てたのです。
先生も、ヘルパーさんも、わぁ~、すごい、すご~いと、喜んで下さいました。
私自身もびっくりしました。
父が最後の力を振り絞って、私に力を貸してくれたのだと思います。
私は父の最期には立ち会えませんでしたが、お通夜で父の安らかな寝顔を見る事が出来ました。
妹に支えてもらいながら棺の前に立ち「お父さん、良く頑張ったねぇ~、痛かったねぇ~」と言うのが精一杯でした。
指は曲がっていますが両手を合わせて拝む事が出来ました。
このポーズは13年前の主人の時には出来ませんでした。
首・胸・腰・肩の手術をたくさん受けたおかげなのです。
私が手術を受ける度に体調が悪くても父は応援に駆けつけてくれました。
私の性格は父譲り、こうと決めたらテコでも動かない、頑固なのです。
でも、父は、とっても優しいんです。
私の事をよ~く理解してくれていました。
身体は不自由だけれども、芯はしっかりしてますと、言いきってくれていました。
さすがお父さん、解ってくれてる~と、内心とても嬉しかったです。
お通夜にはたくさんの人が来て下さっていました。
父母の兄弟「おじさん・おばさん」、甥や姪「いとこ達」、孫、ご近所の方、その他大勢の人たちが父にお線香をあげて下さいました。
皆さんが私に声をかけて下さるのですが、最初は誰が誰だかわからずにポカ~ンとしていました。
よ~く見ていると、昔の面影がジワジワ~っと見えてきました。
○○ちゃんと言うと、うん、そうだよ、今頃わかったとねぇ~と、笑われてしまいました。
随分長い間会っていなかったのです。
妹が通夜や葬儀を仕切り、息子が私の代わりに受付を担当してくれていました。
24日の葬儀にはヘルパーさんも一緒に行きました。
お昼に皆で父との最後の食事「出立ちの膳」をいただきました。
それが終わり、いよいよ葬儀です。
お坊さんがお経をあげられ、一人ひとり前に出てご焼香をします。
親族から始まり、親族は前に立って、皆のご焼香が終わるまで挨拶を交わします。86歳の母は疲れただろうなぁ。
若かりし父の映像が映し出され、元気だったころの父や最近の父の映像を見る事が出来ました。
若い頃の父はとてもダンディーでハンサムだなぁ~と思いました。
棺のふたが開けられ父の遺体を花で埋め尽くしました。
最期の別れの時、父の頬にそっと手を当てると氷のように冷たくひんやりしました。
棺にふたがされ、きれいな布がかけられました。
その上に大きな花束を私に置かせてくれました。
皆に支えられ手伝ってもらいながら、どうにか置く事が出来ました。
それから父の棺は霊柩車に載せられ火葬場へと向かいました。
火葬場に着くと、いよいよ、本当にお別れです。
ご焼香をして、父の遺体の入った棺は火葬炉の中へと消えて行きました。
遺体が燃え尽きるまで控え室で待っていました。
父の他にも、何人もの方がいらして順番待ちです。
1時間ぐらいして名前が呼ばれたので行ってみると、真白い骨だけになった父の遺骨がありました。
骨壷に菜箸を使って遺骨を入れて行きました。
火葬場の職員さんの指示のもと、父の喉仏や様々な所の遺骨を骨壷に納めました。
私も手伝ってもらいながら、父を安らかな眠りに就かせる事が出来ました。
お父さん88年11ケ月、私たちを育てて下さり、ありがとうございました。
また、会える時まで見守ってて下さいね。
私たちはみんなで力を合わせ残された人生を生きて行きます。
お父さん、安らかに、安らかに、お休み下さい。
ありがとうございました。