明日の葉っぱ(8×8)=69

思いつくまま 気のむくまま書いてます。

恋人時代 長渕剛

2020-10-14 18:39:00 | 僕の音楽日記


誰にだってきっと
一生懸命で
熱くて、
のめり込んでいた
時代はある。


恋人時代…というより

蜜月時代とでも呼ぼうか…

恋人=女ではなく
恋人と比喩するものは
時にはギターだったり
バンド仲間であったり、

あの時は
はしゃいでいた時代だったし、
明日がどちらに向かうかも
知らなかったし、

会えば ライブの話
曲作りの話

仕事と趣味の両立が
絶妙なバランスで
保てた時代
僕たちの蜜月時代。
恋人時代だった。

女性とあって感じるときめき
と同じかそれ以上の
ワクワク感を持つ事ができた
仲間との集まり。
飲みに行き
馬鹿話をし、次のライブの話し、
夢のような時間だった。
明日の活力の源だった。

あんなに充実した日々はなかった。
同じ方向を向き
同じ夢を見て
今できる精一杯を
エンジョイしていた。
僕たち三人は
それぞれバランスをとりながら
形を作ろうとしていた。

しかしながら
アイツがどこか
俺とYくんを蔑み自分だけが
抜き差しして浮き上がろうと
していった。
いいとこ取りのカッコつけ男の
奴も
バランスをとっている時は
楽しい奴なのに

どこかで
俺たち二人をとって捨て
踏みにじる態度が顕著になって
きたころ
僕たちのバンドは活動を辞めた。

確かに楽しい時期、時代はあった。

それももう、モノクロのように
色褪せて
今も、僕に笑いかけている




秋の気配 オフコース

2020-10-13 06:27:00 | 僕の音楽日記
この曲から
オフ・コースから
オフコースと表記が変わり
レコーディングメンバーも
バンドスタイルのサポートメンバーだった
ベース 清水仁さん
ドラムス 大間ジローさんが
顔を揃えていた。
ギターの松尾一彦さんがまだ合流
されてなかった。

オフコースはDUOスタイルで
それこそ70年フォーク全盛時代
まだ、頭角を現せずに
潜伏期間が長く、一番初めの事務所はあの、かぐや姫と同じだった。
かぐや姫はその後拓郎のいる
ユイ音楽工房へと移っていったが…
優しい曲調とハーモニーで聴かせる
DUOでは
あの頃の世間の色には
色あせてしまうくらい
まだ強い色を出す個性的なグループではなかった。
どこか職人的な自分たちのスタイルで続けていってた
二人組でのオフコース
上昇志向を持ち始めたのは
小田和正さんだったのか?
サウンド思考に切り替わっていく変遷がみてとれるように
徐々に
外堀をうめながら緻密な
音作りと完成品を世に出そうとする
職人的な顔が同居していた。
それを裏付ける学歴は
東北大学工学部建築学科卒
早稲田大学大学院理工学研究科修了
という学歴どおり、
緻密に音作りを積み上げていく感じを思わせる。


やがて
オフコースは5名になり、
バンドスタイルで一気に天下を
取りにいった。
時代に追いついたオフコース。

その前のしずかな時代
前奏曲のように
穏やかな時を告げ
秋の気配という歌にある
歌詞が
やがて袂を分ける予言をしているかのように…

♫こんなことは
今までなかった
僕があなたから離れてゆく

小田和正さんが盟友鈴木康博さんと
袂を分ける事を予言するかのように

歌の内容は男女の別れ

しかしながら現実は小説より奇なりであって
二人組 のDUOのあり方、行く末、をやはりオフコースも暗示されていたようで
どのグループも二人組は
どこかで袂をわけるのが常で
例外なく
オフコースもそうであった。
古くからのファンは
変わっていくそのグループを受け入れて応援を続ける人、
グループの変貌に見切りをつけて
応援をやめる人
それぞれで…

変わらざるおえない
事情と変えなくてもいい思いの
狭間でグループは大きく
JUMP UPできるものと
消えていってしまうものがある。
オフコースは
成功した例であって
全て良かったわけでもなく
失ったものもあった。

「秋の気配」のシングルレコードのB面 恋人よそのままで
というタイトルも
今思えば、意味深だ
恋人=鈴木康博さんだったわけで

小田和正さんの揺れる心は
進む季節の中
寂しさを纏った秋の気配を感じ、やがてくる
新生 オフコースへの
布石はこの頃から打たれていたのかもしれない、
生き残るため、輝けるために…




筒美京平さん 逝く やすらかに…

2020-10-12 20:38:00 | 僕の音楽日記
昭和歌謡、ポップスの巨匠
3000曲余りの作品を世に送り出し

ちょっと
いい歌だなぁ
と思って聴いていると
大体 筒美京平さんの作品。


筒美京平さんとコンビを組んで
世に送り出した
作品数で
トップの作詞家は
橋本淳さん

550作品。


代表作品というべき
ブルーライトヨコハマ

老若男女がみんな口ずさんだ
名曲。

次にコンビでの作品数
二位は
松本隆さん
380曲

松本隆
筒美京平
といえばこの歌

ジャパニーズポップスのスタンダードと言っても過言ではない
時代を重ねて年月を重ねて
いけばいくほど
輝きを増していっている
「木綿のハンカチーフ」
多くのアーティストにcoverされ、
今尚愛されている
名曲。
大きなサビのある曲ではない
作風なのに
淡々と舌足らずで歌う太田裕美さんが可愛いだけで
ヒットした歌でもなく
筒美京平メロディが人々の心に
ジャブのように、
じわじわ効いていく仕掛けでも
あるように
松本隆さんの詩も日本人女性の持つ
奥ゆかさを表現しているし、
その詩を壊さないように
包み込むようなメロディとで
作りあげられた
「木綿のハンカチーフ」だった。

そしてコンビでの作品数第三位は
120作品
阿久悠さん

阿久悠
筒美京平
の代表的な作品といえば
これ!

こんなダイナミックな歌唱での
別れの歌は
尾崎紀世彦さん以前、以後において
ひとつのエポックメイキングとして
阿久悠さんの独特の別れのカタルシスだったように思う。

その仕掛けとしての
作品を思ったら
ポップスの最たるエキスをふんだんに爆発されている
「また逢う日まで」
という曲ではないだろうか…


そして、国民的アニメ
サザエさん
の「サザエさん一家」という
エンディング曲も
実は
筒美京平さんである


筒美京平さんを語るには
一晩では足らず
これから
特集が組まれながら
追悼企画が多くなるでしょう

1960年から70年代の歌謡界に
旋風をもたらし、
80年代は松本隆さんとほぼ音楽界を席巻してきた
90年代から2000年代そして2010年ごろまで
精力的に歌の世界に関わり、革命を続けてきた歌謡界の巨匠。
筒美京平さん

和製ポップスという
ジャンルを確立し、確固たる
ものに仕上げた
功績は誰もが知るものとし、
これからも後世に歌い継がれる
のでしょう。

やすらかに…
合掌。



TRUTH T-SQUARE

2020-10-11 20:54:00 | 僕の音楽日記

F-1ブームというのがあった
ちょうどバブル期と重なるように…
1987年から94年まで
一時期はゴールデンタイムに
F-1の中継を確か、ブシテレビ系列でやってた。
その時のテーマ曲

T-SQUARE のTRUTHEという曲だ
この曲が流れると
ワクワクし、高揚感で気持ちが
煽られる!

ちょうどF-1ブームの頃を境に
僕と トシくんとの
遊び仲間としての
歴史は終わった頃になる。

F-1ブームの頃
トシくんは
バイク、車に傾倒していく
ジムカーナにハマったり
その先、その次にきたのが
カートだった。





カートでライセンスを取って
サーキット走行をしていく
カートのチームに入り
そこのチームの人達と
車、カートの事で盛り上がり、
僕や、ベンくんとの
音楽での時間や、ライブへ行ったり、飲みに行ったりの付き合いは
しなくなっていった。

やりたい事が見つかった彼は
僕らには脇目をふらず
日々カートへ没頭していた。
もう、ほとんど
トシくんの家は寄っても
彼は居なくて
カートチームの人達のガレージで
寝泊りしてるほどの
入れ込み用。
カートをチューンアップしたり、
次のレースのエントリーをしに行ったり、
仕事場とガレージの往復で家にも週一回くらい帰るくらいで
たまに会えても、1〜2分そそくさと話をしながらすぐに
チームの人達のガレージへと
向かって行ってしまう。
〇〇〇も、見に来いよ!
と、言うだけで
すぐに車のタイヤを鳴らして
出て行ってしまった。

僕はそれほど
車に興味はなく、
レースや、スピード狂でもなく
トシくんみたいに
カートやジムカーナなんかに
のめり込むことには
いかなかった。

相当なお金がいる道楽だったと聞く。オイル代や改造費や、旅費
結構タイトな仕事をしてて
大きなお金を稼いでいた
トシくんだからそれもできたのだろうの思う。

あの頃
TRUTHEというF-1のテーマ曲がどこかしこに
耳にすることが多く
ブームだった。
鈴鹿や富士
のF-1観戦チケットなんかも
結構な値段で取引されてた。

スピードに魅せられた友、
Tスクェアの
曲を聞くたびに…

ひとつの時代と
蜜月関係が終わった
事を知った。

躍動感あふれる
このTRUTHEという楽曲。
新しい僕らのそれぞれの
これからのいく末を
ファンファーレのように
告げるように
軽快に、軽やかに
流れていたあの時代。



用務員さんの家

2020-10-10 18:08:00 | 雑記

開校50〜年以上の小学校には

大体、学校の敷地の北東側に

用務員さんの家が残ってたりする


昔はそこに用務員の老夫婦が

住んでいて、

学校を守ってくれていた。

建物も見回ったり

保全やら、学校に異常がないか

今でいう

セキュリティのA●SOK みたいな頼り

にされてた存在の人達がいた。


朝の登校時は校門の所で

掃除しながら迎えてくれて

下校時には

花壇に水をやりながら

声をかけてくれる


優しく見守ってくれていた。


昔の大人は

義務を権利以上に

果たしていた

その立場における

権利があったとしても

それ以上に義務を全うしていた

今でいう

余計なお節介も

その時耳の痛い小言も

今思えば 理解できることばかり


僕も含めて

今の大人たちは

どうだろう

権利を主張しすぎて

ないだろうか?

義務を果たす前に先に権利の

担保をもらって

動く、そんな大人も増えてきてる


「時代が変わった」といえば

それまで


賢い大人になったといえば

それまで


時には回り道、泥道を踏み越えて

行かなきゃならない時もある

舗装されたアスファルトの道ばかり

走ってると、砂利道、泥濘む道に

対応出来なくなる

もともと、砂利道に転び、

泥濘む道に足を取られ

大変な思いをして、人は

苦労しながら今日まで来た。


その大変な時に戻れとは言わないし、

思わないが


無くしてはいけない、

忘れてはいけない

ものを

簡単に忘れてしまっては

いけないという事。


今尚、用務員さんが住んでた家をそのままにしてある小学校の脇を散歩道で

通ると

かっての

賑わいと、一生懸命だった時代の

声と音が聞こえてくるようだ


用務員のおじさん、おばさんは

いつも優しく見守ってくれていた

影のように

その義務を果たして

ひっそりと

目立たぬように



いつしか用務員さんが学校から

いなくなり、

先生が交代で夜間の見回りをする学校

とかもあったり、

色んな時代、時を経て

僕たちは地域で学校で守られて育って

来たことを


夕方5時の帰宅を促すチャイムを

聴きながら

用務員さんの家を

何度も 何度も

振り返りながら

僕は家路を急ぐ