問わず語りの...

流れに任せて

光格天皇、幕府にもの申す

2022-01-05 09:17:45 | 歴史、民俗

YouTubeの竹田恒泰チャンネルで、「孝明天皇論」の記念すべき第1回がプレミアム公開されています。これの面白いのが、孝明天皇論なのに、話が孝明天皇に及ばない(笑)その御祖父様にあたられる光格天皇のお話で終わってしまう。

でもこの光格天皇が、メッチャ面白い。

 

明治維新といいますと、どうしても薩摩や長州、それと幕府のことが話題の中心となります。

しかし忘れちゃいけないのが孝明天皇の御存在です。

孝明天皇があのような激しい性格のお方で、強い発言力を発揮して時代をかき乱したことが、明治維新に繋がった面は多々あると思われ、

幕末、本来なら幕府の政治に口を挟むことなどできなかったはずの天皇が、なぜ強い発言力をもつに至ったか。その元を作られたのが、孝明天皇の御祖父様にあたられる、光格天皇だったのです。

光格天皇は宮家から立たれた天皇です。時の天皇、後桃園帝が若くして崩御されますが、後桃園帝には男の子がおらず、その周辺にも後を継げるような男子がおられなかった。

そこで、こういう時のための「血のスペック」としての宮家から、当時まだ8歳であられた光格天皇が立たれることになったわけです。

そうした事情もあって、光格天皇は強いコンプレックスを持たれていたようです。自分は父が天皇だったわけではなく、傍系の宮家の出自、なにかあれば「所詮は傍系だから......」と密かにあざけられるであろう。だから、

自分は良い天皇にならねばならぬ。

そうして努力を重ね、光格天皇は優れた天皇としての名を遺すこととなります。

 

さて、光格天皇在位の時代に、世の中でなにが起きたか?大きな出来事としては「天明の大飢饉」があります。そしてそれに追い打ちをかけるかのように「浅間山」の大噴火が起きる。

火山灰の影響で寒い夏が続き、これが飢饉に拍車をかける。飢饉は東北に始まり、やがて全国に拡大していく。京都市中にも死骸の山が築かれたといいますから、大変な規模の飢饉だったようです。

各地で一揆や打ちこわしが起こり、幕府はその対策にてんてこ舞いで、「お救い米」の庶民への供給も、なかなか進まないという始末。

そんなときに京都御所の周辺でちょっとした椿事が起こり始めます。御所の築地塀の周辺をぐるぐる歩き回る人々が出始めたのです。

この人たちはなにをしていたのか?なんと御所に向かって、まるで神社に参拝するかの如くに手を合わせていたのです。

幕府に米を出してくれと陳情しても、なかなか出してくれない。幕府はあてにならない。そうだ!京都には天皇様がおられる。こうなったら天皇様にお願いするほかはない。

京都御所の周りを巡る人々の数はどんどん増え続け、最盛期には数十万人にまで膨れ上がります。そうなるとその人たち目当てに屋台やら出店やらが立ち始め、芸人たちは芸を披露して一稼ぎしようと集まってくる。もう大混乱です。御所側としても放っておくわけにもいかず、集まった人々に林檎をあげたり、赤飯をふるまったりもしたようです。

この大混乱、なんとか収拾しなければ、光格天皇は考えました。

 

当時の京都には京都所司代という、幕府のいわば「出張所」がありました。この京都所司代に、天皇からの使者が訪れます。

使者が所司代に申すには、この御所周辺の混乱を収拾するために、幕府からお救い米を庶民に供給してはくれぬか?と。

皆さんは歴史の授業で、「禁中並公家諸法度」という法令が、徳川幕府より出されていたと習いましたよね?これは天皇や公家たちの行動を制限する法令で、天皇は外出してはいけない。幕府の政治に口を出してはいけない。徳川以外の大名と直接連絡し合ってはいけない等々、とにかく行動を制限することで、朝廷の持つ潜在的な強い影響力を抑え込もうとした。そういう法令です。

ですから、このお救い米を出してくれという要求は、幕府の政治に口を出したとも捉えられかねない。だから正式な文書としては出さずに、あくまで口頭で、世間話的なかたちで伝えられたようです。

結果、この要求が通るんです。

お救い米が、出たんです!

これは、天皇による幕府への要求の先例となり、以後朝廷から幕府へ様々な要求することができるようになっていく。

光格天皇が天皇位をご子息の仁孝天皇に譲られ、ご自身は上皇となってより後、今度は天保の大飢饉が起こります。この時上皇は、今度は正式な文書としてお救い米の請求をし、これが受理されるという結果を生みます。こうやって朝廷の幕府に対する発言力が徐々に強くなっていく。

 

光格天皇御在位の頃、ロシアの軍が樺太にあった幕府の役所を攻撃するという事件が起きます。ロシア軍はその後撤退し、それ以上の大事には至りませんでしたが、外夷からのからの攻撃があったということで、これは一応、朝廷にご報告申し上げた方が良いのではないかと、当時の京都所司代を務めていた阿部某が、ちょっとした気を回すんですね。朝廷側としても、報告してくれるのならば、受けましょうということになった。

で、これがまたまた先例となって、後々外国との様々なやりとりはすべて、朝廷に報告するというかたちが出来上がったわけです。報告されればなんらかのリアクションは当然にある。幕府の外国への対応の仕方にも、色々口出しをするようになってくる。こうして孝明天皇の御代には、天皇が幕府に対して強い発言権を持つようになっていき、これを薩長が利用する。孝明天皇もまた激しい性格のお方でしたから、幕府にもの申しながらも、あくまで公武合体を押し通すとして、長州藩を排除したりと、時代を引っ掻き回すわけです。

孝明天皇でなければ時代は動かなかったし、明治維新も起きなかったかもしれない。明治維新の中心にいたのは薩長ではなく、実は孝明天皇だったし、その元を作ったのは、孝明天皇の御祖父様である光格天皇であったというお話。

面白いですねえ。つくずく思うのは、日本の歴史というのは、やはり

「天皇の歴史」なのだな、ということです。

歴代天皇の御事績を知らずして、日本の歴史は語れない。

 

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2 コメント

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Unknown (チャメ子)
2022-01-09 22:54:58
幕末の時代を動かしたのは、孝明天皇が中心だったのですね。
畏れ多くも激しい性格でいらした光格天皇の影響もとても大きかったのですね。
そうですよね、昔から日本は天皇あっての日本だった。
国民のことを心配して手を差し伸べられて下さっていたのですね。
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Unknown (薫兄者)
2022-01-10 07:32:19
チャメさん、時代が動くときというのは、日本の歴史の場合必ずと言っていいほど、天皇がその中心にいるんです。やはり天皇なくして日本の歴史は語れません。源平合戦のときも、その中心にいたのは後白河法皇でしたからね。『鎌倉殿の13人』始まりましたね。三谷幸喜の脚本は相変わらず絶妙です。次回が楽しみだ。
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