いまも忘れられない人はたくさんいますが、
私にとってもっとも強い存在感をもっているのは、中国&アジアの少数民族の人々です。
かれこれ20年弱前のことになります。
古事記を中心とする古代文学が専門の相方が、
そのモデル化を進めるため、中国照葉樹林帯にある稲作文化圏の調査を始めることになりました。
そこで私は出版編集業の仕事を中断し、同行することにしました。
職業柄、カメラマンと組む仕事も多く、取材ジャンルもさまざま。
私ほど取材、撮影、交渉などに長けた助手はいなかったと思いますよ。
エヘン!
ま、自画自賛はとにかく・・・・・・
それまで日本の古代文学研究者の眼差しの先には、
沖縄をはじめとする日本古来の伝統行事や祭祀があり、
彼らはそれらから日本古代文学研究を模索してきたのです。
とは言え、沖縄のすぐ先には中国長江流域の稲作文化圏があり、
そこには、古くから日本と共通の神話、歌垣、習俗などがあり、
現代でも当たり前に生活に根付いているのです。
近代化と共に失われたり形を変えてしまった日本のそれとは、
比べものにならないほど貴重なものが残っていました。
しかし日本文学系の研究者は国境を越えるのが苦手な上、
中国は文化大革命を経てなお、天安門事件が起こるような不安定な時代で、
外国人が入ることができる場所はごくごく限られていました。
加えて、言葉の問題、方法論、ツテなど、
研究調査のために中国へ簡単に入ることなど到底できません。
相方が中国少数民族調査を目指したのは1994年で、
1989年の天安門事件を経て、ようやく少し落ち着いた頃でした。
しかし目指すのは観光客が到底行かない辺境の少数民族居住地域。
中国には55の少数民族がいるのですが、中国人の92%は漢族(漢民族)です。
漢族の文化習俗は国家段階の日本には影響を与えましたが、
日本の縄文・弥生時代に通じる基層文化に共通のものはわずかで、
基層文化の大半は長江流域に住む稲作文化圏の少数民族文化に通じています。
そんなわけで、
外国人がほとんど行かない奥地の少数民族居住地域に調査として行くのですから、
そう簡単にコトが運ぶはずがありません。
外国人が住む場所も、泊まるホテルも決められていたし、
何をするにも「外事弁公室」という
外国人を管理する機関の許可無しにはコトが運ばない時代でした。
しかも改革開放による中国の近代化に晒され、
少数民族の貴重な文化習俗も風前の灯火という状況。
いま行かなければという相方の切実な思いと、
たった一人でそんな僻地に乗り込んでいく状況を考えると、
この私めに「手伝わない」という選択肢はなかったというのが実情かな?
少数民族調査には、日本語と中国語、中国と少数民族語のW通訳が必要ですし、
二度と行くことがないだろう地域だという切迫感もあって、
ビデオ撮影、写真撮影、録音、筆記記録、質問取材など、取材体勢は万全をとりたいし、
その他、シャイで用心深い少数民族との関係をほぐす社交係、
私たちから見れば非常に危なげな衛生状況から健康を守る衛生係も必要。
たった一人での少数民族調査は無理というものです。
前書きが長くなりましたが、
そんなわけで出版関係の連中に「『雲南通信』でも送って来いよ」と言われ、
送別会をされ、お餞別にデイバッグをいただいて送り出されました。
中国雲南省に住んだのは1995年からの1年間、その間は毎月1、2回、
翌年帰国してからからも年1、2回、それぞれ10日間ぐらいの調査に出向き、
少数民族調査は合計30回ぐらいに及びました。
彼らが語り継いできた神話、歌で意思を伝え合う歌垣、習俗・祭祀は、
素人の私にとっても非常に興味深いものでしたし、
少数民族の衣装はすばらしく目を見張るものばかり。
それにも増して特筆することは、2度と行くことができないだろう辺境地で接した人達の中に、
いまも決して忘れることができない人がたくさんいることです。
その思い出は私の一生の宝物。
これから、彼らの話を書いてみたいと思います。
私にとってもっとも強い存在感をもっているのは、中国&アジアの少数民族の人々です。
かれこれ20年弱前のことになります。
古事記を中心とする古代文学が専門の相方が、
そのモデル化を進めるため、中国照葉樹林帯にある稲作文化圏の調査を始めることになりました。
そこで私は出版編集業の仕事を中断し、同行することにしました。
職業柄、カメラマンと組む仕事も多く、取材ジャンルもさまざま。
私ほど取材、撮影、交渉などに長けた助手はいなかったと思いますよ。
エヘン!
ま、自画自賛はとにかく・・・・・・
それまで日本の古代文学研究者の眼差しの先には、
沖縄をはじめとする日本古来の伝統行事や祭祀があり、
彼らはそれらから日本古代文学研究を模索してきたのです。
とは言え、沖縄のすぐ先には中国長江流域の稲作文化圏があり、
そこには、古くから日本と共通の神話、歌垣、習俗などがあり、
現代でも当たり前に生活に根付いているのです。
近代化と共に失われたり形を変えてしまった日本のそれとは、
比べものにならないほど貴重なものが残っていました。
しかし日本文学系の研究者は国境を越えるのが苦手な上、
中国は文化大革命を経てなお、天安門事件が起こるような不安定な時代で、
外国人が入ることができる場所はごくごく限られていました。
加えて、言葉の問題、方法論、ツテなど、
研究調査のために中国へ簡単に入ることなど到底できません。
相方が中国少数民族調査を目指したのは1994年で、
1989年の天安門事件を経て、ようやく少し落ち着いた頃でした。
しかし目指すのは観光客が到底行かない辺境の少数民族居住地域。
中国には55の少数民族がいるのですが、中国人の92%は漢族(漢民族)です。
漢族の文化習俗は国家段階の日本には影響を与えましたが、
日本の縄文・弥生時代に通じる基層文化に共通のものはわずかで、
基層文化の大半は長江流域に住む稲作文化圏の少数民族文化に通じています。
そんなわけで、
外国人がほとんど行かない奥地の少数民族居住地域に調査として行くのですから、
そう簡単にコトが運ぶはずがありません。
外国人が住む場所も、泊まるホテルも決められていたし、
何をするにも「外事弁公室」という
外国人を管理する機関の許可無しにはコトが運ばない時代でした。
しかも改革開放による中国の近代化に晒され、
少数民族の貴重な文化習俗も風前の灯火という状況。
いま行かなければという相方の切実な思いと、
たった一人でそんな僻地に乗り込んでいく状況を考えると、
この私めに「手伝わない」という選択肢はなかったというのが実情かな?
少数民族調査には、日本語と中国語、中国と少数民族語のW通訳が必要ですし、
二度と行くことがないだろう地域だという切迫感もあって、
ビデオ撮影、写真撮影、録音、筆記記録、質問取材など、取材体勢は万全をとりたいし、
その他、シャイで用心深い少数民族との関係をほぐす社交係、
私たちから見れば非常に危なげな衛生状況から健康を守る衛生係も必要。
たった一人での少数民族調査は無理というものです。
前書きが長くなりましたが、
そんなわけで出版関係の連中に「『雲南通信』でも送って来いよ」と言われ、
送別会をされ、お餞別にデイバッグをいただいて送り出されました。
中国雲南省に住んだのは1995年からの1年間、その間は毎月1、2回、
翌年帰国してからからも年1、2回、それぞれ10日間ぐらいの調査に出向き、
少数民族調査は合計30回ぐらいに及びました。
彼らが語り継いできた神話、歌で意思を伝え合う歌垣、習俗・祭祀は、
素人の私にとっても非常に興味深いものでしたし、
少数民族の衣装はすばらしく目を見張るものばかり。
それにも増して特筆することは、2度と行くことができないだろう辺境地で接した人達の中に、
いまも決して忘れることができない人がたくさんいることです。
その思い出は私の一生の宝物。
これから、彼らの話を書いてみたいと思います。