goo blog サービス終了のお知らせ 

あみたろう徒然小箱

お気に入りのモノに囲まれ、
顔のつぶれたキジ猫と暮らせば、あぁ、極楽、極楽♪

忘れられない人々 〔序〕 何で私が雲南行き?

2013-11-11 | 少数民族あれこれ
いまも忘れられない人はたくさんいますが、
私にとってもっとも強い存在感をもっているのは、中国&アジアの少数民族の人々です。

かれこれ20年弱前のことになります。
古事記を中心とする古代文学が専門の相方が、
そのモデル化を進めるため、中国照葉樹林帯にある稲作文化圏の調査を始めることになりました。
そこで私は出版編集業の仕事を中断し、同行することにしました。
職業柄、カメラマンと組む仕事も多く、取材ジャンルもさまざま。
私ほど取材、撮影、交渉などに長けた助手はいなかったと思いますよ。
エヘン! 
ま、自画自賛はとにかく・・・・・・

それまで日本の古代文学研究者の眼差しの先には、
沖縄をはじめとする日本古来の伝統行事や祭祀があり、
彼らはそれらから日本古代文学研究を模索してきたのです。
とは言え、沖縄のすぐ先には中国長江流域の稲作文化圏があり、
そこには、古くから日本と共通の神話、歌垣、習俗などがあり、
現代でも当たり前に生活に根付いているのです。
近代化と共に失われたり形を変えてしまった日本のそれとは、
比べものにならないほど貴重なものが残っていました。
しかし日本文学系の研究者は国境を越えるのが苦手な上、
中国は文化大革命を経てなお、天安門事件が起こるような不安定な時代で、
外国人が入ることができる場所はごくごく限られていました。
加えて、言葉の問題、方法論、ツテなど、
研究調査のために中国へ簡単に入ることなど到底できません。

相方が中国少数民族調査を目指したのは1994年で、
1989年の天安門事件を経て、ようやく少し落ち着いた頃でした。
しかし目指すのは観光客が到底行かない辺境の少数民族居住地域。
中国には55の少数民族がいるのですが、中国人の92%は漢族(漢民族)です。
漢族の文化習俗は国家段階の日本には影響を与えましたが、
日本の縄文・弥生時代に通じる基層文化に共通のものはわずかで、
基層文化の大半は長江流域に住む稲作文化圏の少数民族文化に通じています。

そんなわけで、
外国人がほとんど行かない奥地の少数民族居住地域に調査として行くのですから、
そう簡単にコトが運ぶはずがありません。
外国人が住む場所も、泊まるホテルも決められていたし、
何をするにも「外事弁公室」という
外国人を管理する機関の許可無しにはコトが運ばない時代でした。

しかも改革開放による中国の近代化に晒され、
少数民族の貴重な文化習俗も風前の灯火という状況。
いま行かなければという相方の切実な思いと、
たった一人でそんな僻地に乗り込んでいく状況を考えると、
この私めに「手伝わない」という選択肢はなかったというのが実情かな?

少数民族調査には、日本語と中国語、中国と少数民族語のW通訳が必要ですし、
二度と行くことがないだろう地域だという切迫感もあって、
ビデオ撮影、写真撮影、録音、筆記記録、質問取材など、取材体勢は万全をとりたいし、
その他、シャイで用心深い少数民族との関係をほぐす社交係、
私たちから見れば非常に危なげな衛生状況から健康を守る衛生係も必要。
たった一人での少数民族調査は無理というものです。

前書きが長くなりましたが、
そんなわけで出版関係の連中に「『雲南通信』でも送って来いよ」と言われ、
送別会をされ、お餞別にデイバッグをいただいて送り出されました。
中国雲南省に住んだのは1995年からの1年間、その間は毎月1、2回、
翌年帰国してからからも年1、2回、それぞれ10日間ぐらいの調査に出向き、
少数民族調査は合計30回ぐらいに及びました。

彼らが語り継いできた神話、歌で意思を伝え合う歌垣、習俗・祭祀は、
素人の私にとっても非常に興味深いものでしたし、
少数民族の衣装はすばらしく目を見張るものばかり。
それにも増して特筆することは、2度と行くことができないだろう辺境地で接した人達の中に、
いまも決して忘れることができない人がたくさんいることです。
その思い出は私の一生の宝物。

これから、彼らの話を書いてみたいと思います。

ミャオ族のろうけつ染め

2012-12-27 | 少数民族あれこれ

前回紹介した刺繍を刺したのは郎独村の村長の奥さんで、
私が訪問したときはちょうどろうけつ染めをやっていました。
それがこの画像↑
ろうけつ染めに打ち込んでいる村長夫人を私が撮ろうとしているのを見て、
庭先で遊んでいた子どもたちがバラバラバラッと駆け込んできて、こちらをきっと睨んで仁王立ち。
私はこのときの子どもたちがカメラを見据える目つきと、手仕事の情景の対比が大好きです。

少数民族の子どもたちはだいたいにして人懐こいことが多く、
すぐに手をつないできたり、おやつのヒマワリの種をこっそり分けてくれたりします。
ところがこの村の子どもたちはニコリともしません。
カメラを見据える目にも力がこもっています。
もちろん、それは敵意を持っているというわけでは全くないのですが、
私はこの子どもたちの目にとても惹き付けられました。

村長の奥さんに聞いてみると、ミャオ族の女性にとって刺繍とろうけつ染めは必須条件で、
それらが出来ない女性はお嫁に行けないんだそうです。
刺繍は4歳から習い始め、ろうけつ染めは難しいので7歳からだとか。
たしかに、ミャオ族のろうけつ染めの繊細さは、他の民族のそれに比べ群を抜いています。

このろうけつ染め↓は、ミャオ族のろうけつ染めの中でも特にレベルの高いもので、
どの村のものかは判らないのですが、郎独村の女性が染めたろうけつ染めではないのです
ただ、貴州省のミャオ族のものであることは確か。
こちらもエプロン型に仕立て、前垂れ飾りとします。

これは上二つの文様↓

これは下の文様↓


染めは村によって文様が違いますが、
手仕事上手のミャオ族のろうけつでもこのぐらいの模様の荒さのもの↓がほとんどです。


先に挙げたろうけつ染めは特別のレベルだということがだということがよく判りますね。



苗(ミャオ)族の緻密な刺繍

2012-12-26 | 少数民族あれこれ


中国には55の少数民族がいて、彼らは独自の民族衣装を着ています。
中でも、最も緻密な刺繍やろうけつ染めで群を抜いているのがミャオ族です。
北京の故宮博物館の中には、特別にミャオ族館があって、
いかに彼らの手仕事のレベルが高いかが伺えます。

私が相方の少数民族調査の助手(撮影係、取材補助、社交係、衛生係)をするために仕事を止め、
雲南省昆明市に1年間住んだのは1995年から1996年、
その間には1か月に1~2回ペースで辺境地に住む少数民族を訪ね、
相方の専門分野である少数民族の神話と歌垣を採集していました。
辺境地への旅は並大抵の苦労ではなかったのですが、それにも増して収穫が多く、
異文化や無垢で温かな少数民族とのふれ合いには語り尽くせない思い出があります。
帰国後の1996年以降も年に1~2回のペースで、
雲南省、貴州省、湖南省、四川省などに通い続け、民族調査は30回近くに及びます。

さて、少数民族の村に入ると、女性たちが手仕事をしている場面に出会うことが多く、
これは貴州省凱里の近くにある郎独村の村長の奥さんが刺繍したもの。
上部の両端に長い紐を付けてエプロンに仕立て、腰に締めて前垂れ飾りとします。
めったに来ない外国人が来たというので、
奥さんは、これを買ってくれないか? と私に持ちかけました。
雨の日や農閑期しか針を持つ暇はないから、完成までに約1年間かかるそうです。
「言い値で買ってはいけませんよ。
外国人は高く買ってくれると思うから、今後のためにも良くない」と通訳に言われ、
日本円で1000円というのを800円に値切りました。
それでも私にとっては、1年間の成果がそれかと思うと気が引けたものです。

そもそも村長に取材している最中の出来事だったので、慌てて交渉成立したのですが、
持ち帰ってよく見ると、まだ完成途中でした。
これが完成形の部分↓

これが未完成の部分↓

よく見ると、まだまだ埋めるべき箇所が空いていることがよく判りますね。

この刺繍の素晴らしいところは、驚くべき緻密な模様です。
エプロンの縁に近い周囲は、いわゆるクロスステッチを使うことが多く、
2本の糸に刺繍糸を掛けて模様を作っていて、これは一般的ですが、、
主要部分は、1本の糸に刺繍糸を渡しています。
だからこのように非常に小さな色の点になるのです。
う~ん、これなら1年がかりというのも無理ないですね。

ミャオ族の刺繍にはまだまだ素晴らしいものがたくさんありますが、
これは私がとても印象が深かった刺繍。

次回は、これを刺繍した村長さんの奥さんが登場します。

籠売りのおじさん

2012-03-27 | 少数民族あれこれ


もう一つ籠の話。

場所は中国雲南省大理(だいり)から、剣川(けんせん)に向かう沿道。
売り物の籠を揺り籠代わりに、気持ちよさそうにうたた寝する籠屋のおじさんがいました。

大理は雲南省屈指の観光地で、雲南省の省都の昆明から400㎞、
大理一帯には白族(ぺーぞく)が住んでいます。
大理の町の後側には蒼山(そうざん)がそびえていて、
山には大理石の採石場があり、良質な大理石が採掘されることでも有名です。
私たちがふだん「大理石」と呼んでいるのは、ここで採れた「大理石」の名が総称となったものです。
町には大理石の家具や工芸品がたくさん売られていて、
町外れには美しい三塔寺があります。


大理から北へ130㎞ほど走ると、剣川という街道沿いの田舎町に着くのですが、
そのまた山奥に22㎞ほど行くと石宝山があり、年に1回、
この山にある宝相寺を中心にして大がかりな歌垣があります。
この街道は十数回通っているのですが、
もうすぐ稲刈りというあるとき、大きな籠を売っている籠屋がいました。
これは脱穀のための籠で、
収穫後の稲束の先をこの大きな籠の縁に叩きつけ、稲穂の部分をこの中に落とします。


街道沿いに大量の籠を並べていたおじさん、
車の大騒音をものともせず、気持ちよさそうに昼寝していましたっけ。

リス族の背負子籠

2012-03-23 | 少数民族あれこれ
1995年から13年間ほど、中国少数民族の神話と歌垣の現地調査の助手係をしていました。
私は、研究のために調査する相棒を補助し、
写真係、記録係、質問補助、衛生係、社交係、料理の味見係、などを兼ねていました。
それまでやっていた編集業はいったんやめ、助手に専念したわけです。
撮影現場は仕事場の一つだったし、
一眼レフNikon派でカメラいじりは大好きだから、写真係は慣れたもの。
“この辺りでこの質問”の心得も仕事柄ありました。
子どもやお年寄りや女性たちと親しくなり、調査がいっそうスムーズに進んだことも。
トイレも水道も電気もない辺境地のイ族の村に泊まった経験、
外国人を泊めてくれる村でただ一つの安宿に泊まったら、
電灯を点けた途端に電球が破裂、ネズミの大歓迎。
車が泥道にはまって動けなくなること数知れず。
車が坂を転げ落ち、骨折なんてこともありましたっけ。
凸凹道を2800㎞も走り続けたときは、さすがに疲労困憊。
それでも懲りることなく、旅から旅へ。
あぁ、楽しかったなぁ~~。
というか私は度重なる調査を経るうち、
辺境地でのサバイバルのおもしろさに目覚めてしまったんですねぇ。
そんな旅の余録としてあったのが、少数民族の衣装や道具との出会いです。


その中の一つがコレ。
少数民族の地域では定期的に市が開かれるのですが、
この籠に出合った地域は雲南省の西の外れ、山を越えるとミヤンマー国境という辺境地。
この辺りには、リス族、独龍族、怒族などが住んでいます。
これは、主にリス族が使っている籠です。

↑この画像は国境付近を流れる怒江(メコン川の上流)沿いの道路で開かれた市で、
周辺にはリス族が多く、女性は頭に赤と白のビーズの帽子か赤いスカーフを被っています。
彼らは、晴れ着を着て何十㎞も歩いてやって来て、
食品、農作物、農機具、家畜、日用品、服などを買って帰ります。
市は彼らにとって晴れの場ですから、
近隣のさまざまな少数民族が集まると浮き立つような雰囲気です。
その市で買ったこの四角い籠は大小様々あり、
これは最も小さなタイプで、高さ20㎝、幅22㎝、奥行き12㎝。
もっともよく使われる用途は背負子です。
農作物を詰め込んだ重い籠を背負い、手には鶏をぶら下げてやって来て
調味料、日用品、服、子どものお菓子などを買い込んで、村に戻っていく彼らの姿をよく見ました。
上の写真では、3種類の背負子が使われていて、奥の方にこの籠が置いてあるのが見えます。

大きくても小さくても造りは同じ。
底は重い荷物を入れても底が抜けないようしっかり補強されています。
日本の籠のように、職人さんがカッチリ作った籠(たとえば肥料振り籠)も素晴らしいですが、
農民が野良仕事の合間に作った実用籠も、荒削りながら存在感があります。


そんなリス族の籠が遠く日本へ渡り、私の部屋の一員になりました。
というわけで、いまは剪定したクッカバラを活けています。
リス族の家でボロボロになるまで使い込まれるはずだったのに、これじゃ張り合いないだろうなぁ~。