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あみたろう徒然小箱

お気に入りのモノに囲まれ、
顔のつぶれたキジ猫と暮らせば、あぁ、極楽、極楽♪

忘れられない人々〔お年寄り編2〕 柔和なまなざしのわけ ヤオ族

2014-03-13 | 少数民族あれこれ

穏やかで柔らか、ふくよかで温かい

瑤(ヤオ)族は、中国雲南省、湖南省、広西チワン族自治区と、
タイ、ベトナム、ラオスなどの東南アジア北部に多く住んでいます。
私たちが訪れたのは雲南省南端にある「河口(フーコウ)」で、ベトナムとの国境の町。
この辺りには、多くのヤオ族が住んでいます。

ヤオ族には、頭に赤い帽子を被る紅頭ヤオ族(ホントウ ヤオ=赤ヤオ)と、
頭に青い帽子を被る藍定ヤオ族(ランディエン ヤオ=青ヤオ)がいます。
上記はタイ在住の方のサイト。タイでは何度もお世話になりました)
紅頭ヤオ族にしても藍定ヤオ族にしても、その衣装は地域や村によって大きく異なりますが、
いずれも個性的なデザインの衣装で、凝った手仕事を施しています。
帽子といっても、しっかりとした帽子形のものもあれば、
赤い布や青い布をサッと捲く程度のものもありますし、
普段は巻き布なのに、晴れ着となると驚くほど派手になるものも。

さてこちらのお婆さんは、頭に赤い被りものを捲いている紅頭ヤオ族。
ズボンの裾模様は典型的なヤオ族の刺繍です。
それにしても、なんとまぁ柔和な表情でしょう。
そのわけは・・・・、
歌垣のやりとりにじっと耳を傾けているから、だと思います。

このとき、紅頭ヤオ族の村の家で伝統的な歌の掛け合いをしてもらっていました。
歌っているのは、47歳の女性と58歳の男性。
昔はさかんに歌われていましたから、お年寄りにとっては特に懐かしいことでしょう。
歌声を聞きつけたお婆さん達が集まってきました。
部屋の中での歌のやりとりを邪魔しないよう、戸口の外でそっと聞いています。
懐かしむかのように一点を見つめ、じっと聴き入る様子がとても印象的でした。

その後、この家のお嫁さんが晴れ着に着替えて見せてくれました。
まぁ、その派手なこと、派手なこと。
まさにこれぞ紅頭ヤオ族の名にふさわしい真っ赤で派手な帽子。

ここの紅頭ヤオ族の衣装は、これでもかというほど赤が多い

ちなみに、この近くの村の藍定ヤオ族の晴れ着はこんな感じ↓
全体に藍定ヤオ族は藍色中心ですから地味ですが、アッと驚くほど斬新な衣装もあります。
が、それはまたの機会に・・・。

藍定ヤオ族の衣装は地味なだけに、胸元を派手に飾ることが多い

★付録【ニョロニョロ話】 蛇が嫌いな人は読まないでください。食欲がなくなります。
私たちが訪れた雲南省の南端「河口」という町はベトナム国境にあって、
国境付近に蛇の市場が立っていました。
右を見ても左を見ても蛇、ヘビ、へび・・・・、細い通路の両側は蛇だらけ。
直視しなくても、歩けばチラッと目の隅に入ってしまう。
思い返すだに、ぞっとするほどの大量の蛇軍団。
ネズミ取り器より一回り大きな金網製のケージに、
数匹から十数匹ずつ同じ種類ごとに入れられています。
ケージの向こう側には蛇売りの男達がいて、これまた妙に眼光鋭い。
以前、大理の町で、自転車の荷台にケージを載せた蛇売りをこっそり撮ったら見つかり、
大声で怒鳴られたことがあります。
ここでは蛇も大群、蛇売りもおおぜい。
どんな状況でも画像を撮り落とさないのがモットーですが、
撮る勇気はとうていありませんでした。
残念。

中でも中国で「竹葉蛇」と呼ばれる色鮮やかな黄緑色の蛇はひときわ目立っています。
一度見たら瞼に焼きつき、忘れられないグリーン。
ちょっと蛍光色が入っているような鮮やかさです。
同行の中国人によると、これは有名な猛毒蛇で噛まれるとすぐ毒が体に回り、
数歩も歩かないうちに死んでしまうということでした。
調べてみると、ヒガシグリーンマンバという蛇で、世界で2番目に毒が強いとか。
いや、同じグリーンでもニシグリーンマンバの方が強いとか、こと蛇毒となると諸説紛々。
ちなみに世界最強の猛毒はウミヘビだそうで、陸上系ではナイリクタイパンとか。
ヒガシグリーンマンバはアフリカ産ですが、
“タイでヒガシグリーンマンバが20匹逃げたが、タイには血清がない”という記事がありますから、
東南アジアにも輸入されたあと、増やされたのでしょうか。
でも、まさにこの蛇であったことは確か。
猛毒蛇ベストテンなどを見ていたら、気持ちが悪くなってきました。
しかし、2つ発見。
①猛毒を持つのは色鮮やかな蛇が多いと思っていたら、ごく地味な蛇もたくさんいる。
②毒蛇は頭が大きいと聞いていたけど、頭が胴と同じ太さの細いのもいる。
ひゃ~、なぜこんなこと書くことになっちゃったんだろう。
怖いもの見たさ? ゲゲッと気色悪くなってきました。

ところで中国になぜ蛇屋がいるかといえば、漢方や食用にするため。
(そういえば、ワ族の歓迎会で蛇を食べたこともありましたっけ)
しかし蛇を売ることに当局の取り締まりが厳しいそうで、
蛇売りが写真を撮られたくないのは、そんな理由からのようです。

(雲南省河口瑤族自治県1995.6)

    ◆   ◆   ◆

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忘れられない人々〔お年寄り編1〕 惚れ惚れする格好よさ ヌー族

2014-02-28 | 少数民族あれこれ

怒(ヌー)族の呪術者であるお婆さんは、ニコリともしないでこちらを見据えた

年齢を重ねた人には、例えようもなく豊かな魅力に溢れている人がいます。
少数民族調査の旅では、神話、習俗などいろいろ語ってもらう関係上、
お年寄りとの出会いが多かったのですが、
とりわけいまその姿を思い返しても、瞼にありありと浮かんでくる筆頭がこのお婆さん。
惚れ惚れするほど格好いいというのは、こういうお年寄りを言うのではないでしょうか。

彼女に会ったのは1997年8月、
雲南省貢山独龍(ドゥーロン)族・怒(ヌー)族自治県の中心都市、
貢山(ゴンシャン)から40㎞ほど北にある丙中洛郷という小さな村でのこと。
貢山独龍族・怒族自治州は雲南省の奥地の西北端にあり、
すぐ隣はミヤンマーという位置にあります。
数㎞離れた甲生村から2時間ほど歩いて、丙中洛の公安局に来てもらったときのことでした。
こんなお年寄りを歩かせて、と不謹慎に思うでしょうか?
確かにそうですね。
しかしちょっと言い訳するなら・・・・、
日程の関係で、貢山の公安局でいろいろな人にいっぺんに会う予定だったため、
現地が気を利かせて呼んでくれたのです。
山道を2時間歩くというと、機材を持った私たちには難行ですが、
健脚の彼らにとっては山の傾斜地を歩くのも日常的なことで、
ヤワな日本人とはまったく違うのです。
もちろん、感謝感謝でした。

彼女の名は甲底(ジャディ)さん、80歳。
ヌー族では「ニマ」と呼ばれる巫師(ふし=呪術者)で、
ヌー族の神話をよどみない安定したメロディーで歌ってくれました。
取材が終わり、さて村に帰るというとき、屋外に出た彼女を写真を撮らせてもらったのがこれ。

まあ、この立ち姿の素晴らしいこと!
竹製のキセルをくわえ、使い慣れた上等な杖を突いてすっくと立ち、
こちらを見据える眼には強い意志が溢れています。
媚びない生き方を貫く自信に満ちて、どんな立派な衣装にも負けない神々しさ。
ファインダーを覗きながら、身震いするほど感動したのを思い出します。
強い意思と自信、誇りに満ちたお年寄りに出会うと、それだけで感謝したくなるのは何故でしょう。


(雲南省貢山独龍族・怒族自治県貢山 1997.8)

    ◆   ◆   ◆

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忘れられない人々〔子ども編13〕 見ろ、この俺を、この子等を! イ族

2014-01-31 | 少数民族あれこれ

この誇り高さ、自信に満ちた表情、そしてマントの中で守られる子等

イ族は武勇を重んじる民族で、地域ごとに独自の伝統・習俗を持っていることで知られています。
独自の「イ文字」を持ち、
神話を伝承し、祭祀、治療、呪術などをするシャーマンが大勢います。
父から息子へとしっかり教育し伝承されていくシャーマンが「ビモ」、
一方、民間治療や占いなどを簡便に行うシャーマンは「スニ」で、
こちらは系統だった伝承者はいず、
「スニ」になるきっかけは、病気だったり啓示を受けたり様々なようです。

そういうイ族の中で、とりわけ伝統を堅固に守っているのが大涼山イ族です。
また、大涼山イ族は1956年までの数千年の間、
完全な奴隷制度を保っていたことでも知られています。
奴隷を使う側の貴族を「黒イ族」、奴隷となる平民は「白イ族」と呼ばれ、
黒イ族と白イ族の結婚は禁じられていたそうです。
大涼山地区は、入り口に地区主要部の「西晶(シーチャン)」、
その奥に「昭覚(ジャオジェ)」、一番奥に「美姑(メイグー)」があります。
最も奥の美姑は外界から閉ざされた地理的条件もあって、
近代化の影響はごく緩慢にしか受けず、と同時に経済発展からも取り残されました。
しかしそれによって古い伝統をいっそう守り続ける特異な存在となり、
内外の研究者にとって非常に魅力的な存在となりました。

「ビモ」の数も圧倒的に多く、村の各戸主の大半がビモという村さえめずらしくありません。
父親は息子に、神話、祭祀、呪術、治療などの儀式を伝え、
その家に息子がいる限り、または息子が大きくなる前に父親が死なない限り、
連綿と受け継がれていきます。
前項でも書きましたが、私が一番再訪したいと思う地域は美姑です。
美姑はとりわけ貧しい地域ですが、
美姑のイ族から感じる強烈な吸引力に私が抗しきれないのは、
彼らの古い伝統を堅固に守る暮らしぶりと、誇り高く、ときに気高ささえも感じます。
畏敬の念さえ感じることがあったからからでしょう。
なぜ、あれほど魅力的に感じたのでしょう。

1997年3月、
四川省大涼山地区の中心地、西晶から北へ40数㎞の山間の村、
酒庫郷「以作村」で神話の聞き取りをしました。
当時、西晶の先の昭覚とその奥は「未解放地区」で、
そこに入境するには地方政府が発行する「外国人通行証」が必要でした。
「未解放地区」とは、あまりに極貧地域であったり、軍事施設がある地域だったり、
外国人には知られたくない様々な理由があるからのようです。
美姑の場合は、おそらくそのあまりの貧しさゆえだと思われます。
(注:この翌年1998年から未解放地区でなくなりました)

なかでも、以作村の貧しさは群を抜いていました。
家の中に家財道具らしきものは何もなく、
私たち客人への食事は茹でたじゃがいもと菜っ葉のスープだけ。
それも大変なご馳走だったようです。
トイレはごく簡便なものが一つ、もちろん電気も水道もありません。
しかし、彼らが貧しいかどうかなどということは全く問題になりませんでした。
美姑イ族の例にもれず、村人は伝統をかたく守り、
貧しくとも誇り高く自信に満ちた表情をしていました。
加えて、友好的で明るいことにも好感を感じます。
友好的なのはおそらく、私たちがイ族の案内人と一緒だったからかもしれませんが・・・・。

外国人など見たことも接したこともない人達ですから、
女の私の一挙手一投足は女性陣から凝視されています。
ある女性の大きな耳飾りを指さし、拙い中国語で「これ、きれいね」と言っただけで、
女性達は大口を開けて笑い転げ、口々に何か言いながら大変な騒ぎになってしまいました。
しかし大人も子どもも、簡単な中国語を理解することができません。
漢族の同行者が言うには、おそらく学校に行っていないからだろうということでした。

神話を歌う人垣の外側で、人懐こい少年がニッコリと笑顔を投げかけてきた

こちら仲良しふたり組。イ族の男性は、目元涼しい切れ長の目が特徴

このところ何回か美姑イ族の子どもを紹介した際、
美姑のイ族には美男美女が多く、中国の美人コンテストの輩出地域だと書きました。
イ族の男性は体躯の良い偉丈夫が多く、しかもなかなかハンサムです。
加えて特筆すべきは、その誇り高さが仕草や表情に溢れ出ていること。
だからよけい彼らがカッコ良く、“眩しいほど良い男”に見えてくるのです。
もちろんどの男性もそうとは言えませんが、そう感じた男性のひとりが冒頭の画像の人です。
一眼レフとコンパクトカメラを持って歩き回る私を見て、
どんと胸を張り身ぶりで示しました。
「俺を撮れっ!」
イ族独特のマントの下に、ちっちゃな坊やふたりを抱えて。
そのポーズと子ども達を包み込む彼の気持ちが、いっそう魅力を増幅させる男性でした。

四川省(四川省涼山地区美姑核馬村 1997.3)

参考文献:「中国の大凉山彝族における葬送儀礼に関する調査報告」 樊秀麗
     「図録▽中国の少数民族人口」社会実情データ図録より
◎2000年のデータによると、中国にいる55の少数民族の中で最も多いのはチワン族の1600万人、イ族は7番目の多さで770万人です。

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忘れられない人々〔子ども編12〕 花婿は13歳 イ族

2014-01-26 | 少数民族あれこれ

大勢の大人に囲まれ、幼さが一段と際立つ少年がひとり

中国少数民族の神話&歌垣調査の助手として30回ほど同行しました。
訪問地は辿り着くだけで日本から2、3日の地域がほとんどで、
電気・トイレ・水道・宿もない地域だって当たり前でしたが、
それはそれは魅力的な伝統や神話を守り続ける多くの少数民族がいました。
数ある訪問地の中でも私がどんな思いをしてでも再訪したいと思うのは、
四川省涼山地区美姑(メイグー)のイ族の村です。
ここを2度目に訪れたときは、呪術者かつ神話伝承者でもある大ビモの家に宿泊しました。
その夜のことはおそらく一生忘れられない熱い思い出となり、
私の胸の奥に灯り続けることことでしょう。

さてここで取り上げたのは、数ある調査で最も鮮烈な印象をもった少年と少女です。
美姑での神話聞き取りが夕食後遅くまで続いたある夜、
「明日、三河村で結婚式があるが行くか?」と言われました。
もちろん行かないはずはなく、翌朝は5時前に起床、慌ただしく身支度をして宿を出ました。
外はまだ真っ暗で、足元がほとんど見えないのに、
地元の案内人は足場の悪い山道や畑の農道をヒョイヒョイと飛び跳ねるように歩いて行きます。
その姿は、まるで動物のようでした。
灯りのない生活に慣れた暮らしから、暗い中でも眼は驚くほど利くようです。


広場には、穀物を発酵させた水酒の大樽がたくさん並ぶ。
これを洗面器に汲み、回しのみする。
白く濁った水酒はアルコール度数が低く、5、6度ぐらいに感じた
 


さて三河村に着くと、広場に水酒の大樽が大量に用意され、
浮き立つように華やいだ雰囲気が村を包んでいます
焚き火が5つ焚かれ、神に結婚式を報せています。
広場の隅では、小山の上へ男性が嫌がる女性を無理やり連れて行き、
女性が隙を見て逃げ帰るというイ族の略奪婚をかたどった遊びが繰り返されていました。
日頃の思いを遊びの中で女性に打ち明ける、甘く切ない匂いが漂っています。


花嫁は、男性に背負われて傾斜地へ

花嫁の前で相撲が奉納される

竹垣の仮小屋に運ばれる

向こうに花嫁がいるというので行くと、
片隅に丸太を組んだだけの仮小屋で、花嫁が衣装を整えていました。
仕度が終わると、花嫁は男性に背負われて広場から離れた傾斜地に移され、
花嫁の前で男性2人による相撲が奉納されます。
相撲が終わると花嫁は再び背負われ、竹垣で作られた仮小屋に運ばれます。
このように花嫁が背負われて移動するのも、略奪婚の名残ということです。
他の多くのイ族同様、この結婚は幼い頃に親が相手を決めたもので、
花嫁は他の村から来たという背丈140㎝ほどの15歳の少女で、やや大人びた印象です。
一連の行事が終わると、離れた場所で食事をとり、
花婿と顔を合わせることもなく、付添の女性達と自分の村に帰って行きました。
結婚式を行っても、一緒に住むわけではありません。

花嫁は落ち着いた印象の15歳の少女

「あちらに花婿がいますよ」と声をかけられ、すぐそちらに向かいました。
「えっ? どれが花婿? どこに?」思わず何度も訊ねていました。
「ほら、目の前にいますよ」
背丈120㎝に満たない痩せた少年がひとり、
きょとんとした表情で目の前に立っています。(冒頭の画像)
日本でなら、サッカーやゲームに夢中になっている小学生のイメージ。
彼の印象は、私の想像を遙かに超えていました。
もともと美男美女が多い地域として知られる美姑地区、
広場のあちこちに、目を惹かれるハンサムな男性たちがいました。
しかも、背が高い偉丈夫が美姑の男子達です。

美男美女で知られる美姑、ハンサムな青年があちこちに。
花嫁の抵抗の印として男性は顔に墨を付けられている。
これも略奪婚の名残。
カメラを向けると恥ずかしそうに下を向いた

主役の少年は、結婚の意味もわからない様子に見えました。
私は、村へ戻って行った花嫁に我が身を置き換えてみないではいられませんでした。
彼女は夫となる人を初めて見てどう思うのだろう。
どう見てもしっかり者の長女と、年の離れた末っ子の弟としか見えないふたり。
せつない思いで胸が一杯になりました。
彼女に、他に好きな青年がいないことを願いながら。

花婿は、あどけない13歳の少年だった

幼い頃、我が子の意思に関係なく結婚相手を決めてしまうことは、
かつての中国の田舎や少数民族の間ではそうめずらしいことではなく、
決められた相手を嫌って逃げ出す話はたくさんあったそうです。
中国の中でも辺境地である美姑の村では、このとき(1997年)も普通のこととしてありました。
そして、いまでもそれはなくなっていないとは断言できません。
なにしろ、あんなに伝統を重んじる民族ですから、
現在でも多少とも残っていることでしょう。



相撲の人垣の外で“わぁん、見えないよう~”と坊や
さて、その後、今度は花婿の前でも奉納相撲が行われ、
大勢の男達が囲んで、わいのわいのと応援に熱狂して大賑わいでです。
村に帰って行った大きな瞳のあの少女に気をとられてせつなさが先に立ち、
円陣の男達が夢中になっている相撲が遙か遠くのものに見えました。

四川省(四川省涼山地区美姑核馬村 1997.39)

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忘れられない人々〔子ども編11〕 窓から顔を出した少女  リス族

2014-01-15 | 少数民族あれこれ

リス族の村を歩いていると、高床式の2階の窓から2人の少女が顔を出した

雲南省の西のはずれの怒江流域には、
リス族、独龍(ドゥーロン)族、怒(ヌー)族などが住んでいます。
リス族はメイン道路の対岸の山の奥にも住んでいて、
市の立つ日には、自前の滑車を持ったリス族が激流の怒江の上の綱を伝って渡ってきます。
いまは頑丈な鋼鉄製の綱ですが、かつては葛性の植物を編んだ綱だったそうで、
途中で綱が切れ、怒江の濁流に命を落とした人達は数知れないということです。

怒江に架かる橋で日中戦争(1937~1945年)当時から要衝の橋として有名なのは恵通橋で、
これは保山(バオシャン)という比較的南の地域の数10㎞西にあります。
怒江ははあまりの激流に橋を作るのは容易なことではない上、
資金を投じて作るだけの需要と経済的採算があまりないからでしょうか、
怒江沿いの道を延々と北上しても、橋を見ることはめったにありません。
ですから、どうしても怒江の対岸から主要道路に渡りたい住民達は、
荒れ狂う激流の上を綱渡りで渡る以外ないわけです。


メイン道路で定期的に開かれる市場


男性は力強くスピードに乗って渡って来る。右手に持つ用具でスピードを調節している


おばさんのスピードはややゆっくり。でも速度を落としすぎると対岸に辿り着けなくなってしまう


渡り終わった別のおばさんに、「あっ、ちょっと行かないでね」とパチリ

対岸に住む人々は、市場に出て農作物を売り、
調味料、衣類、家財などの必要不可欠な生活物資を手に入れなければならないのです。
そのため危険を冒してまで市場へ行くのを止めることはできません。

2008年の中国のニュースによると、
ある小学校では、学童の多くが綱を渡って命がけで通学していたそうです。
国内の多数のメディアの資金により新しい橋が建設され、
子ども達はようやく安全な通学ができるようになったいうことです。
いまもなお、危険な通学をしている子ども達はいるのでしょう。
それにしても、鋼鉄の綱を伝って人が走る姿を見ているだけで、こちらに緊張が走ります。

なかなか味わい深い吊り橋
さて、市場の開かれるメイン道路のとある脇を入り、
古い吊り橋を渡るとリス族の住む芒孜(マンズ-)村に入ります。
村の様子を見ながら同行者と歩いていると、
高床式の家の小さな窓から少女が2人、ひょいと顔を出しました。(冒頭の画像)
見慣れない私たちに、にっこり。
なんてくったくのない無垢な笑顔だこと、思わずこちらが幸せになる可愛さ!
この村の子ども達はキャッキャと笑って邪心なく明るく、
ほんの短時間接しただけで、キュッと心洗われる想いです。
こういう子どもの笑顔、久しぶりに見たように思いました。

とは言え村によってはそうもいきませんでした。
1937年より始まった日中戦争のとき、
重慶に本拠地を移した蒋介石率いる国民政府を米、英、露の三国が援助するための、
いわゆる「援蒋ルート」を巡る攻防により、
日本軍はいったんは援蒋ルートを遮断しましたが、
その後も空輸による連合軍の支援は続き、
補給路も援軍も断たれた日本軍には撤退命令も出ず、最終的には玉砕したのだそうです。
雲南省昆明から西部のビルマ(ミヤンマー)に至る各地で、
日本軍は戦争の爪痕を各地に残し、激戦地となった地域の村人達の思いは、
いまも心の傷として残っているのです。
この調査の時、3人の古老に『創世記』を歌ってもらったリス族の村(山江郷新建村)では、
攻め込んできた日本軍が2、3戸の家を除き皆殺しにしてしまったということです。
その取材の間じゅう、地元政府が派遣した公安が、
拳銃を見えるように腰に携え、私たちの前と後ろに立って護衛してくれました。
日本軍は雲南省怒江近辺の内陸部にまで進軍し、
戦時下と言えども、村人にひどく残虐なことをしましたから、
深い傷が刻まれたままの村は多々あるのです。

参考文献:『雲南の民族文化』飯倉照平編 研文出版 1983年

(雲南省怒江リス族自治州貢山独龍族・怒族自治県芒孜村1997.8)

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忘れられない人々〔子ども編10〕 水酒を飲む子ども  ワ族

2014-01-07 | 少数民族あれこれ


ワ族が住んでいるのは、中国西南部とミヤンマー東部の国境付近です。
世界最大の麻薬・覚醒剤密造地帯と言われた「ゴールデントライアングル」は、
ミヤンマー、タイ、ラオスのメコン川(中国名:瀾滄江)に接する地域ですが、
ワ族が多く住む雲南省南西部の国境地帯はちょうどその辺りに接近する地帯。
この辺りには中国人が大好きな翡翠の市場もあるのですが、眼光鋭い男達が多く、
少数民族の住む地域としてはちょっと異様な雰囲気の市場でした。


中国×ミヤンマー間の中国側国境検問所。
厳しい検問がありトラックが頻繁に行き来している。
 


かなり離れた田舎町の国境。人の姿は見えない。
向こうのミヤンマー側の丘には芥子畑が見える。
 


ミヤンマーと中国の国境検問所は近づきがたいほどピリピリした雰囲気でしたが、
ちょっとはずれた田舎町に行くと、国境には中国の旗が一本立っているだけ。
向こうのミヤンマーの丘は、麻薬の材料となる白い芥子畑だということでした。
国境のすぐそば20mぐらいの民家の間を行くと小さな川が流れていて、
中国側の売店に買い物にやって来たミヤンマー人は、
ヒョイヒョイと川を渡りミヤンマーに帰って行きます。
中国側の民家の庭先には数本の白い芥子が咲いていました。
トラックなどが出入りする国境は厳しいものの、
そこから外れた小さな村や町では、
ミヤンマーと中国への出入りは当然のように出入り自由。
国境検問所はあるのですが、
そんなところを通らなくたって人の行き来は自在です。
私が行ったのは1996年で、かれこれ20年弱昔のことですから、
いまではもっと行政の管理が行き届いていると思います。
なにしろ中国では麻薬の取り締まりが厳しく、
たいていの地方政府の敷地内には、麻薬を取り締まる「禁毒委員会」がありました。

ところで中国人の95%は漢族ですから、ふつう中国人というと漢族を指すのですが、
残り5%は55民族もいる少数民族です。
概して水田稲作文化圏の民族(ハニ、ペー、タイ、ミャオ、ヤオ、トンなど)は、
性格穏やかで素朴で友好的な人達が多いように感じました。

私たちが訪れたのは雲南省西盟ワ族自治県西盟。
ワ族のいる地域は水田稲作文化圏にはなく、
昔は畑で作る稲(陸稲:おかぼ)を作っていました。
日差しの異常な強さからか人々は非常に色黒で、
目元がギラギラとして全体に鋭い雰囲気です。
子ども達でさえ、遠巻きにして横目でチラとこちらの様子を窺い、ニコリともしません。
幼い子どもは、じっと穴が開くほどこちらを見つめるだけ。
警戒心強く懐疑的な目つきからは、友好的とはほど遠い印象を受けました。

ワ族の呪術者は「モーパ」と呼ばれ、村の祭式では欠かせない存在です。
(注/モーパは、その昔はワ族と居住地域を接するラフ族呪術者の名称だったので、
2006年以降、ワ族では呪術者を「バツァイ」と呼ぶように変わったということです。)
私たちは西盟岳宋村のモーパの家を訪ね、呪術の歌を歌ってもらいました。
モーパの家の屋根裏には囲炉裏の火に燻された水牛の頭が飾られていましたが、
もともとは狩った人間の首の骸骨を飾っていたそうで、
いまは水牛の頭で代用しているのだそうです↓。

屋根裏には20個近くの動物の頭が飾られている。

そう、ワ族は首狩り族としてとして有名な民族でした。
1950年代末には中国新政府によって禁止されたのですが、
文化大革命後もしばらくは、ワ族にとって大事な農耕儀礼である首狩りの習慣を止められず、
首狩り禁止を説得に行った人民解放軍の人の首まで狩ってしまったという話があるほどです。
さてモーパの夫婦が呪文を歌っている間に、モーパの孫らしき坊や、
穀類を発酵させ、水を注いだ「水酒」の竹製容器から、チューチューお酒を吸っています。
これだけ小さい頃からお酒を呑んでいたら、そりゃ酒豪になりますよねえ。

余談:お酒と遺伝子および日本人の話
以下、原田勝二さんの「飲酒行動と遺伝子」ほかの論文からの知識です。
体内に入ったお酒はアセトアルデヒドに分解され、
アセトアルデヒド脱水素酵素(アセトアルデヒド分解酵素とも言う)により酢酸に変えられます。
だから体質的にアセトアルデヒド脱水素酵素を持っているはお酒に強く、
モンゴロイドの半数はもっていないのだそうです。
ちなみに、ワインを水代わりに飲めるフランス人やイタリア人、
ウォッカをがぶ飲みできるロシア人など、白人は大半が持っていてお酒に酔うことはないのだとか。
日本人はモンゴロイドですから、
繁華街にオオトラ(へべれけに酔った人)が見られるのはそんな理由からもあります。
中国人だってモンゴロイドなのに、
宴会というと白酒(パイチュウ:アルコール度50度)を乾杯攻めで飲みまくる。
ところが町でオオトラを見たことが一度もないのです。
不思議ですねえ。
「同じモンゴロイドでも、中国人と日本人にこれだけ酒による醜態をさらすことに差があるのは、
国家運営のリアリズム重視で歴史を作ってきた中国と、
ムラ社会文化を強固に残しつつ国家体制を上乗せしてきた日本との違いだ」とは工藤隆さんの説。
そのあたりは彼の著書『古事記誕生』第三章「祭式が語る誕生」に。
日本ではお酒が体に入るのは「神が入る」意味があり、
飲酒によって嘔吐するのを嫌う習慣は、おそらく弥生時代から既に薄れていて、
その感覚は時代が移っても受け継がれているとか。
江戸時代には武士でさえも、酒に酔って前後不覚になったと誇る話が残っているということです。

う~ん、日本人がオオトラに甘いのは弥生時代から続く伝統だったのですねえ。
ちなみに、縄文人はお酒に強かったのに、
大陸から酒に弱い弥生人が渡ってきて以来、日本人はお酒に弱くなったということです。

(雲南省西盟ワ族自治県西盟岳宋村 1996.1)

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忘れられない人々〔子ども編9〕 鳥かごを持つ少年  イ族

2014-01-04 | 少数民族あれこれ


ほんとは、別の子どもをUPするつもりでしたが、
新年早々にはちょっとなぁ・・・という画像なので、今回は番外編として相方の画像です。

昆明市滞在中の夏に胃炎を患い、ほとんど食べられなくなりました。
ちょうど8月には雲南省紅河のハニ族を調査することになっていたのですが、
この状態ではかえって調査の足手まといになると判断、調査への同行を諦めることにしました。
相方が調査に出かけた後、
通訳に連れられ昆明市の中医院(漢方による総合病院)で診察してもらったのですが、
それはそれは可笑しな病院体験でした。(またそれは後日)

画像の少年に話を戻しましょう。
というわけで、私はこの少年には会っていなくて、これは相方の撮った画像です。

雲南省紅河州元陽県入ったときのこと、
紅河州には主にハニ族が住んでいるのですが、
そのなかでイ族が住む楽育村に4時間ほど入ったそうです。
道を歩いていると、ひょうたんを大事に持っている少年がいました。
「それは何?」と聞いたら、鳥かごだということでした。
鳥とりが逃げ出さないように、お箸のような細い棒が柵代わりにしてあります。
中を見ると、一匹の雀が入っていたそうです。

父親かおじいちゃんが作ってくれたのでしょうか。
必要な物がなければないなりに、身近な物を使って工夫してしまう。
もう豊かになった日本ではすっかり忘れられたことですが、
一昔前には当たり前の生きる術でした。
それがまだここにはあることを知り、
改めて現代の人工的で便利な生活について考えさせられました。
便利であればあるほど、人は創意工夫する能力が落ちていきますから。

ぽよ~んとこちらを見つめる、ちょっと頭でっかちの可愛い少年、
ギュッと踏みしめた足の指先に力が入っているよ!


(雲南省紅河州元陽県楽育村 1995.8)

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忘れられない人々〔子ども編8〕 草冠の少女達  ペー族

2013-12-29 | 少数民族あれこれ


雲南省大理白族自治州の洱海(アルハイ湖)近くで行われる、
「ラオサンリン」という祭りに行ったときのことです。
ギラギラと日差しは刺すように強いので白い麦わら帽子を被っている人が多く、
もちろん私も帽子と日焼け止めでがっちりガードしていました。
水田を縫いながら延々と歩き、会場に向かっていると、
道の向こうから来る3人の女の子達とすれ違いました。
頭に柳の葉を絡ませて作った冠を被っています。
自然の葉で作った手製の帽子はとてもお洒落で可愛い。
しかもよく似合っています。
思わず「良い帽子ね(好看的帽子)」と話しかけました。
少女達は「日差しが熱いから・・・・」と。

その昔日本でも、雨が降ったときに里芋畑がそばにあると、
里芋の大きな葉っぱを傘代わりするということがありましたが、
いまどきそんなことをする田舎の子どもはいないでしょう。
まして日除け帽子がないときに、草冠の帽子で代用というのは聞いたことがありません。
たまたまそばにある植物を探すわけですが、
枝がしなりやすい柳を使うとはなんて素敵なアイディア! 
葛の葉、さつまいもの葉、などでもできそう。
でも、採るとすぐに葉がしおれてしまう植物は向きません。
その点でも、柳の選択は光っていますよね。


〔こちらは「ラオサンリン」の様子〕
まず、村から会場に向けて赤い旗を持った少年達が出発します。
その後ろに、ドラや太鼓を鳴らしながらお供えを持った人々の列が続きます。


会場の隅に腰をかけ、歌垣を歌う年配の女性達。
歌っているのは、左にいる帽子を手に持つ女性と、右から2人目の赤いひらひら扇子を持つ女性。
周りでは同世代の人達が熱心に耳を傾けています。
同じメロディーに即興の詩をのせて歌を掛け合う歌垣が盛んなペー族。
他のお祭りでは若い女性と男性が歌垣で知り合い、
恋の歌を掛け合ううち、それがきっかけで結婚する人もいます。
若い男女の歌の内容は、それはそれは熱烈な詩的表現です。


会場の真ん中では、
女性達が手に持った赤い棒をくるくる回したり、足先を軽く叩いたりしながらリズミカルに踊ります。



(雲南省ぺー族自治州喜洲鎮 1995.5)

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忘れられない人々〔子ども編7〕  とうもろこしパンを食べる坊や イ族

2013-12-11 | 少数民族あれこれ

神話の取材中、そばでとうもろこしパンを食べる幼児。
幼児は村の誰からも面倒を見られ、愛情深く育てられている。


涼山地区美姑は、1998年まで未解放地区でした。
四川省から雲南省にわたる広い地域に多くのイ族が住んでいますが、
美姑はイ族の居住地域の中でもとりわけ貧しいためそれを外国人に見せるのは良しとせず、
行政府は入ることを規制していたため、「入境許可証」が必要でした。
美姑には2度入りましたが、1度めは1997年だったため、
西晶(シーチャン)公安局内で「外国人旅行証」を出してもらいました。
その後、中国辺境には未解放地区がなくなり、
2000年の再訪では自由に入ることができる地域になっていました。
とはいえ町である西晶から5時間、
車の中で飛び跳ねながら乗り続ける悪路はそのままで、貧しさも何ら変わず。
しかし、美姑イ族の伝統も全く揺るぎない素晴らしいものでした。

前項のブログでも書きましたが、その美姑の核馬村を訪ねたことがあります。
神話継承者で呪術者でもあるイ族の祭式執行者をビモと呼び、
中でも特に位が高いビモを大ビモというのですが、
核馬村には、著名な大ビモが住んでいました。
とりわけこの村は、大ビモと長老を中心とした伝統ある生活がしっかり守られ、
村全体が家族のように団結し、彼らの誇りは非常に高いものでした。
トイレは草むらの中、水道も電気もない生活でしたが、
貧しさやとてつもない不便など吹っ飛び、
その精神性と村全体の雰囲気に羨望すら感じることさえ何度もありました。
村人は大人も子どもも幼児の面倒をよく見て可愛がり、
幼児達は愛情を一身に浴びて育てられていました。


核馬村は、手前に見える長い吊り橋を渡って再び山を登り、川の先にある突き当たりの山間にある

村人、牛、羊、山羊たちは軽やかに村に戻って行くが、こちらは息が上がってフーフー

核馬村への道は、美姑の道路から脇へ急坂を一気に標高差100mほど下り、
全長70mほどの吊り橋を渡って再び山を登ります。
途中で小さな川の石をポンポン飛びながら渡って歩くこと1時間半、核馬村に辿り着きました。

核馬村によそ者が来ることはほとんどなく、
まして外国人が行くことなどめったにありません。
私たちの訪問を機に、村人全員に牛肉とパンが配られました。
客人と大ビモの家人には蕎麦パン、村人にはとうもろこしパン。
蕎麦パンは黒くて硬く、水分がないと到底喉を通らないものですが、
とうもろこしパンよりずっと上等ということだそうです。

彼らの生活は貧しく、ごくごく質素なものです。
"我々の接待のために牛を殺すことはやめてください"と何度も頼んだのですが、
神話の取材中、向こうの広場であっという間に牛を殺してしまいました。
大ビモとしては、客人にこのぐらいのご馳走をしなければ顔が立たないということのようでした。
あとで判ったことですが、村の長老達はこれを機に村人に肉を配ろうと配慮したそうです。
何しろ村人が肉を食べられる機会は多くて年2、3回。
年越し、結婚式、葬式のときしか機会がありません。
牛は解体され細かく切って煮込まれ、200人弱の村人に分けられました。
その夜は大ビモの家で小さなオイルランプ2個での真っ暗な宴会。
大ビモの「酒を勧める歌」など有意義な取材ができた、感動的な夜でした。
「酒を勧める歌」とはいえ、中身は創世神話になっていて、
それを大人はもちろん子ども達も熱心に耳を傾けている姿が印象的です。
なにしろ35戸の村の大半の家の戸主がビモで、
子ども達は父親の神話を聞いて育っている村ですから。

翌日、村の広場で行われた神話取材の間じゅう、村人が周りを取り囲んで神話を聴いています。
父親の横で、昨夜牛肉とともに配られたパンを食べているのが冒頭の写真の幼児。
とうもろこしパンを手に、じっとこちらを見つめるつぶらな瞳が忘れられません。
乳幼児が被る帽子は王冠のような形をした赤と黄の派手な刺繍が施されたものです。
この美姑イ族の乳幼子が必ず被るもので、
悪鬼が子どもの頭に取り憑かないようにとのことだからだそうです。

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村を出るとき、固辞する長老達にどうしてもと頼みこみ、牛一頭の代金を払わせてもらいました。
それは日本の新聞代2か月分ぐらいのものですが、
彼らにとっては何年分もの年収に相当する価値ですから。

(四川省涼山地区美姑核馬村 2000.9)

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忘れられない人々〔子ども編6〕 幼児は村の宝もの イ族

2013-12-08 | 少数民族あれこれ

見て見て、見てっ! 嬉しそうに幼児を前面に出す少女と少年。

四川省涼山地区美姑(メイグ)のイ族は、ことのほか古い文化習俗を守っています。
ここはあの広い中国の中でもとりわけ極貧地帯としても知られていますが、
彼らイ族の誇りはその伝統文化が基軸となり、めっぽう高いのです。
少数民族の神話・祭式を継承する者は、普通1つの村に1人~数人程度なのに、
ここのイ族には「ビモ」と呼ばれる神話・祭式継承者が非常に多いのですが、
私たちが訪れた核馬村にはほとんどの家にビモがいるという、とりわけ特異な村でした。
変化の激しい中国ですが、ここは改革から取り残された辺境地の中の辺境。
中国の変革が及びにくいことと、誇り高い大勢のビモ達の志によって、
これから先もずっと伝統は守られていくことだろうと思います。
ビモは父親から息子へと継がれていくのですが、
ビモがいない家はたまたま男子が生まれなかったか、
息子に祭式や神話を伝える前に、ビモである父親が他界してしまった場合などです。

ビモの中でも特に位が高いビモを「大ビモ」と呼びます。
私たちは何日間かかけて、大ビモにイ族の神話取材をしました。
聞き取りはサトウキビ畑でやったり、大ビモの村、核馬村の広場でやったりの臨機応変。

村で特に印象に残るのは、
子どもたちが誰彼の区別なく、幼い子どもたちの面倒をじつによく見ることでした。
電気も水道もトイレもなく、もちろん店もない。
あるのは、トウモロコシの首飾りをつけた小さな分校1つ。↓

村にある公共の建物は分校だけ。軒下に干したとうもろこしが飾りのように見えた

娯楽らしいものは何もない村の暮らし。
家の中には囲炉裏とオイルランプ、わずかな食器と手作りの簡易ベッドがあるだけ。
村の暮らしの中で、幼児が共同体を維持させていくための宝ものであることを、
誰もが自覚しているのは明らかでした。
神話取材の間、カメラを構える私の前に、
幼児を抱きかかえて来て誇らしげにこちらに向けます。
「ほら、ほらっ。見て」
抱き上げる子どもたちの目がキラキラ輝いています。
それが冒頭の写真。


子守をするのは子どもの役目。大ビモの末娘とその娘の子ども
一方、別の所では、子守をしながら三人の少女たちがこちらを見ていました。
美姑は美男美女の出身地として知られているそうです。
中国西南部で行われる美人コンテストでは、
美姑出身者が“ミス”の栄冠を得ることがたびたびあるのだとか。
確かに少女たちの中には何人も、日本ならタレントになれそうな可愛い子がいました。
少年や成人男子にも涼しげな顔立ちのハンサムが多くて、
大ビモの一人息子は、いずれは美姑版キムタクかともいえる美形でした。

(四川省涼山地区美姑核馬村 2000.9)

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忘れられない人々〔子ども編5〕 交替してやんない! ペー族

2013-12-06 | 少数民族あれこれ


中国の田舎の人って、なぜあんなにハンモックが好きなんでしょうネェ。
歌会祭りの行われている山の雑木林の中でまで、ハンモックに揺らている人を見ました。
家の中に吊してあるのも見るし、こんなふうに広場の端っこで揺られている少年も。

ここは観光地として有名な雲南省ペー族自治州の首都ともいうべき町、大理。
大理地方は唐代には「南詔国」として栄えた王国で、
西南シルクロードの中枢を担ってきた由緒ある地域です。
この辺りで大量の大理石が産出されるので、地名がそのまま石の名前になりました。
それまで大理石が、雲南省のある地域の地名から来た名称だとはちっとも知りませんでした。
大理の町のすぐ横には蒼山がそびえていて、蒼山のあちこちで大理石の採石が行われています。
蒼山は、4000m級の峰が19も連なっています。
大理で見上げる蒼山がそれほど高く見えないのは、
大理自体が海抜2000mにあるので、実際の差は2000mにしかならないからでしょうか。
晴れた日も、曇りの日も、雨の日も、蒼山は大変美しい山の連なりを見せてくれます。
大理の四大景観である「風花雪月」の「雪」として知られているそうで、
海抜が高いので、頂上は常に雲や霧に覆われていることが多く、
雨上がりに虹が現れやすく、蜃気楼が現れることもあるのだそうです。

大理に一泊するときは大理賓館に泊まることが多かったのですが、
ある朝、「あっ、虹だ、虹だ!」と騒ぐ声がするので、
すぐにカメラを掴んで、見晴らしの良いところに駆けつけました。
そこには美しい虹がみごとにかかり、蒼山の景観とあいまって、ホントに美しい風景でした。
それがこちら↓


虹はたくさん見てきたけれど、美しい山肌をバックに手前には中国の古式建築(大理賓館)、
こんなに美しい風景の中にある虹を見たことがありませんでした。
そして、おそらくもう2度とないかもしれないとさえ思います。
ちなみ、「虹だ、虹だ!」と聞こえてきたのは日本語でした。
虹が出て騒ぐのは日本人ぐらいのもの。
大理の人にとっては日常茶飯事のことです。

大理には有名な「三塔寺」という美しい塔があり、観光客は必ず立ち寄ります。
こちら↓がその三塔寺で、正式名は「崇聖寺」。


三塔寺の敷地内にはたくさんの露店が軒を連ね、大理石の灰皿や花瓶や置物が売られています。
ほとんどが白と黒や白とグレーのモノトーンの大理石で、おどろくほど安いものです。
調査旅行の主要な通過地点だったため、合わせて10回近く宿泊した大理ですが、
旅先ではさすがに重く、買って帰ることなど到底できませんでした。
さて、三塔寺前の大きな広場には、観光客目当ての露店を張る母親とともに、
日長ここで過ごす就学前の子供たちがいます。
そんな子ども達の中に冒頭の写真の少年2人がいました。
2人とも手編みのセーターを着ています。
かつて日本でもそうだったように、中国の田舎では手編みでセーターを編むのが盛んで、
編みながら店番をする女性たちをよく見かけました。

ハンモックに乗っている、額の疵が貫禄の少年、
気弱そうに待つ相棒の視線もなんのその、交替の気配を見せません。
「そんなにおずおず待っていると、アイスが溶けちゃうよ!」

(中国雲南省ペー族自治州大理市、1995.5)

追記:これは1995年度の画像です。
この当時、大理は中国の古い町並みの落ち着いた町で、
ここに来る観光客は欧米人か日本人ぐらいのもの。
欧米人があまりに多いので、洋人街という道までありました。
しかし、2000年頃から中国人観光客が増え、
いまでは三塔寺の周辺にも大きな建物がどんどんでき、
大理の街を囲む大理古城の門にまで色とりどりのイルミネーションが輝き、
私が行っていた2000年以前の、古き良き町のイメージはかなり損なわれてしまったそうです。


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忘れられない人々〔子ども編4〕 流し目の少女 タイ族

2013-11-29 | 少数民族あれこれ

おそらく中学2、3年生または高校1年生ぐらいと思われる少女。
タイ族の女性は、大人になると色気ムンムンで圧倒される感じですが、
少女から大人へ移行する年齢である、この年齢でももうその気配は濃厚。
この少女にしてこの状態です。
私にこんな色気があった時期は、長い人生、20代も30代もなかった。
なんという末恐ろしい色気でしょうか。

望遠で撮っていたので、私はかなり離れていたのですが
ふっとこちらを見たその目つきはけだるくてちょっと退廃的、ぞっとするほど魅力的でした。
祭りなので、2人の少女ともお化粧をしています。
祭りの日、タイ族のほとんどの女性が派手な唐傘をさしているか、
花飾りのついた白い麦わら帽子を被っています。

ついでに、タイ族の女性がいかに圧倒的に色っぽいか、他の画像もお見せしましょう。
まず、土手の群衆の中を横切って行く3人の女性たち。
その柳腰のしなやかな歩き方にうっとりして、思わずシャッターを切りました。


次に、この濃密な女性。
化学染料独特のごく鮮やかなトルコブルーの服にトルコブルーの唐傘。
ショッキングピンクの扇子で、なぜか後ろをあおぎつつ歩いていくのです。
頭は花のかんざしで満艦飾、
ムンムンとした雰囲気を振りまきながら、祭りの会場を闊歩していました。

私は、ここで写真を撮りまくっていたとき、
ほとんど男性の目でファインダーを覗いていたような気がします。
大人の女性にしてこうなんですから、
冒頭の黄色い服の少女がこんなに色っぽい流し目をしていても、ぜんぜん不思議じゃない。
この年齢でもじゅうぶん色気ムンムンの予備軍なんですから。

一方私はと言えば、ジーンズにカメラマンベスト、肩には一眼レフを掛け、
もう一方の手にはコンパクトカメラ、背中にはリュックと、なんとも色気のないいでたち。
そんな無粋な私を見て、彼女たちはなんと思ったことでしょう。
いやいや、彼女たちはそんなものにはまったく興味はありません。
なんといっても彼女たちのライバルは、
祭りの広場に大勢いるタイ族の女性たちなのですから。
如何に目立つか、いかに色っぽく見せるか、いかに美しく魅力的な女性に見えるか、
彼女たちの関心はそれだけ。
ジーンズなんて履いている外国人には微塵の興味もないのでした。

(中国雲南省景洪市、西双版納 1995.4)

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忘れられない人々〔子ども編3〕 川のほとりで タイ族

2013-11-23 | 少数民族あれこれ


雲南省最南部に近い西双版納(シーシュワンパンナァ)の4月は、
水掛け祭りで町中が大賑わいです。
町を歩いていて目を惹くのは、なんといっても女性たちでしょう。
タイ族の女性は柳腰ですらりとスタイルがよく、
どことなくけだるく色っぽい雰囲気を漂わせています。
極彩色のドレスにカラフルな唐傘を差し、頭にはたくさんの花かんざし。
同性ながら、ついついその圧倒的な華やかさと色気に魅せられ、振り返ってしまいます。

男たちは闘鶏に興じ、川幅の広い瀾そう江(ランソウコウ)では龍船競争が繰り広げられ、
街の中央では宝くじが大々的に売り出されます。
町中が年に一度の大きな祭りで浮き立ち、それはそれは華やかな雰囲気です。
ところが、男性陣ときたらいつもと同じ地味でこ汚い(対不起!)格好。
なんでこんなにまで男女で魅力が違うのでしょう。

一方、町から離れた村の暮らしには、ゆったりとしたのどかな時間が流れていて、
どことなく沖縄の小さな島の暮らしに雰囲気が似ていています。
村人は、突然民家を訪れた見知らぬ私たちに、
当然のように芭蕉の葉に包まれた粽(ちまき)を出してくれます。
これは、沖縄の祭りの際に作られる、芭蕉の葉で包んだ粽餅にそっくり。

村を歩くうち、大きな川のほとりに来たときでした。
数人の少女たちが川遊びに夢中になっています。
しばらくして水から上がって来たひとりの少女に、私の目は釘付けになりました。
日本で言えば小学校1年生ぐらいでしょうか。
岸辺の岩に掛けておいた鮮やかなピンクのサロン(腰布)をしなやかな手つきで巻くと、
ビーズのネックレスをくわえて、ふっと遙か彼方を見つめました。
トロリとした目が印象的な少女。
いったい何を考えているのでしょう。
一瞬、周りのことが何もかも消えてしまったかのように、しばらく動きを止めています。
少女の息づかいがこちらに伝わってくるようなひととき。
鮮烈なサロンの色とともに、あの情景はいまも鮮やかに蘇ってきます。

その後、少女はハッと我に返り、上着を着て髪をキュッと整え、
身支度を整えると、仲間たちと騒ぐふつうの少女に戻りました。

(中国雲南省景洪市、西双版納 1995.4)

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忘れられない人々〔子ども編2〕 突貫小僧ここにあり アカ族

2013-11-19 | 少数民族あれこれ

顔は汚れ放題、じっとしていることがない。
いたずらしてはめまぐるしく駆け回る


さてさて、次は突貫小僧のお話。
前回、タイ・チェンライ北部、センチャルン村のアカ族の子ども達について書きました。
その画像の中で、とんでもなく顔が汚れている腕白坊主がいるのに気づきましたか?
私たち訪問者の周りをはしゃぎまくって常に駆け回っているその坊や、
私は「突貫小僧」と呼んでいました。
突貫小僧という呼び方は、若い人には馴染みがないかもしれませんね。
「突貫」は突き通すこと、全力を挙げて一気に進めるなどの意ですが、
常に動いていて、やることも素早くて、
一気に突き進むわんぱく坊主のことを、かつて突貫小僧と呼んでいました。
(これ、私の故郷静岡だけの言い方かもしれません)

この子はまさに「突貫小僧」の典型そのもの。
私たち訪問者(相方+私+通訳)の周りを、
まるでツバメか蠅に例えたいぐらいめまぐるしく駆け回ってはしゃいでいました。
広場を歩く私たちに率先して脱兎のごとく進行方向に走ったかと思うと、一気に戻ってきます。
私が女の子2人のツーショットを撮ろうとしていると、すっ飛んできて一番前で「ワ~イ」。
ときどき母親らしき人が遠くから坊やに何か叫ぶのですが、そんなことはお構いなし。
素直に言うことなんて聞きゃしません。
ときどきお姉ちゃんらしき14、5歳の少女が捕まえようとするのですが、
逃げまくっては私たちの側に戻ってきて、得意な顔をしてはまた逃げまくります。

その顔たるや、まぁ見事な汚れ。
いまどきの日本にはいない、遊びで汚れた得意な顔と汚した服。
私は仲良くなった女の子2人と付き合う合間、
“これは見応えがあるわい”と、妙に感心してときどき見入っていました。

ところがところが、母親から厳しい命令がお姉ちゃんに飛んだと思ったら、
逃げ回る坊やはお姉ちゃんに本気で追いかけられてしまいました。
とうとう追いつかれて、むんずと手首を掴まれ、庭の隅にある水道に連れて行かれ、
頭の上からザブンと水をかけられ、ごしごしと顔をこすられてしまいました。

左/否応なく柄杓の水をかけられる。
右/「あぁ、いたずら坊主を弟に持つと大変だわ」とお姉ちゃん。
坊やは情けないほどきれいになって、心なしか元気がなくなりました。



全身見違えるようにきれいになっちゃった坊や、
今度は母親に呼ばれてすごすごと近づき、全身着替えさせられました。
画像で見ると、坊やはお母さんにそっくりですね。
着替えると、中身はとにかく外見はごくごくふつうの子に。

捕まって洗われているところを見られ、小ぎれいになった坊や、こんどはきまりが悪くなったらしい。
それからは、私たちの側には近づいて来ませんでした。
その心理状態がなんとも可愛くて、心の中でクスッと笑いながら、
こちらも妙に寂しい思いをしたのでした。

(タイ・チェンライ北部/センチャルン村 1999.3)

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忘れられない人々〔子ども編1〕 掌の上の赤い飴 アカ族

2013-11-17 | 少数民族あれこれ

子ども達の歌は身ぶり手ぶりつき。
夕日を浴びる屋根の下、幸せぷんぷん発散のひとときが過ぎていく


雲南行きの話を書いたのに、最初に紹介するのがタイのアカ族というのもなんですが・・・・。
これは中国雲南省南部にいるハニ族と同じ民族ですので、そのあたり大目に見ていただいて。

雲南省南部には農耕を得意とするハニ族が住んでいます。
ハニ族には、神話、歌垣などの文化のほか、
味噌、納豆などの発酵食品、焼畑農耕、下駄ばき、独楽遊びなど、
日本と共通するするものがたくさんあります。
ハニ族が住んでいた一帯に国境線ができ、中国にいるハニ族は「ハニ族」、
ラオス、タイ、ベトナム、ミヤンマーに住むハニ族は「アカ族」と呼ばれています。

ハニ族は、悪いものが村に入らないための結界(仏教用語:一定の場所を分ける仕切り)として、
村と外の世界との境に鳥居を作り、
鳥居の上には木製の鳥、鳥居の側には自然木を男女に見立てた結合の像を置くのが習わしです。
この男女像は、悪いものが村に入るのを防ぐためのものだそうです。
中国のハニ族は改革開放以来その習慣は禁止され、
政府の厳しい統制によりいろいろな習俗が失われていきました。
一方、中央による厳しい統制がないタイではいまも大らかにそのようなものが村の入り口にあり、
結界としての役割を果たしています。

村への入り口に数カ所、結界としての鳥居がある。
左は村への道にある鳥居、右は裏手の森から村への入り口


同じ民族ではありますが、静かでやや重い雰囲気のハニ族に比べ、
アカ族の人々は底抜けに明るくて人懐こく、子ども達はのびのびと天真爛漫です。
村全体が協力し助け合い幸せそうに見えます。
タイ北部チェンライの近郊にあるセンチャルン村に入ったときのことです。
村のあちこちを見学する私たちに、ぞろぞろと子ども達がついてきます。
中国、アジアに限らず、子ども達は興味津々でついてきますが、
このとき私にずっとついて来た2人の女の子がいました。
上の画像の赤い服の年上の女の子と、2、3歳小さな黄色い服の女の子です。
おそらく姉妹ではなく、仲良しの遊び仲間という感じです。
二人はしっかりと手を繋ぎ、一方の子は私とも手を繋ぎ、3人並んで歩くことになりました。
写真を撮りたいとき手を離すのですが、手が空けばサッと繋がれてしまいます。
そこへ近づいてきた男の子、
一眼レフの大きなレンズを熱心に覗き込み、レンズをぺろりと舐めています。
「あ、だめだめ!」苦笑しながらレンズを拭いて・・・。

そんなことをしながら、炎天下の村の広場を歩いていたときのことです。
黄色い服の年下の子が、年上の子の口元のわずかな変化に気づいたようです。
歩きながら彼女の口元をじっと見つめました。
その視線に気づいたお姉ちゃん、口の中から半分に割った赤い飴を出して掌にのせました。
黄色の服の女の子は、掌の飴をつまみ口に入れてにっこり。

小さな掌にのった赤い飴は、いまも色鮮やかに蘇ってきます。
日本でもお菓子を分けてあげることはあることでしょうが、
舐めている飴を割ってまで分けてあげることはどうでしょう。
お菓子が氾濫する日本では、飴なんて分けてもらってもそれほど有り難いことでもありませんし、
いったん舐めたものを汚いとだって言われかねません。
楽しいこと美味しいものは分け合うのが当り前。
ここではそんな精神が小さな子ども達にも染み渡っています。
生活も物資も日本はとても豊かだけれど、日本にはない豊かさがここにはある。
掌の飴は私の羨望の象徴としてまぶたに焼きついています。

で、2人の女の子と一緒に同行者に追いつき、民家の屋根下に行くと、
子ども達みんなで声を合わせての大合唱が始まりました。
歌に合わせて身ぶりはつくわ、大声を張り上げるわ陽気で、
見ているだけで気持ちが良いったらない。
それが冒頭の画像です。

機会を捉え、記念に女の子2人をツーショットで撮ろうとすると、そうはいかない。
そこは腕白坊主のこと、「僕だっているぞっ!」とやって来てこうなります。↓ 

う~ん、好きだなぁ、こういう子ども達。
いまの日本では見られない、
天真爛漫な子どもの世界を垣間見た幸せなひとときでした。

(タイ・チェンライ北部/センチャルン村 1999.3)

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