新・日記どす(DOS)

写真は「ビートルズ」のヘルプごっこ(笑)~音楽からB級スポット訪問記まで、幅広くいろんなことを…笑いをこめて…綴ります~

関ヶ原の戦いの史跡めぐり…西軍の島津義弘陣跡に行く!!

2019-06-27 07:05:56 | 歴史史跡
関ヶ原の戦いの史跡めぐり…

前回、前々回に続いて今回も…西軍の陣跡を巡る…


東軍の陣跡は
街の中に…ぽつんと石碑と案内看板があるだけで
当時の面影を妄想するのは
なかなか困難であるけれども
西軍の陣跡は
山の中、森の中にある場合
が多くて


東軍の陣跡よりも
ウンと…ウンと…妄想に浸りやすい…



さてさて今回
まず紹介するのは

島津義弘陣跡









この石碑の島津義弘の名の上にある「小池」というのは
ここの地名だそうな…





ここから
敵中突破した
「島津の退き口」と呼ばれる

鳥頭坂まで
約3.5キロ


普通で考えると
生き残った西軍の武士たちが多い
伊吹山の方へ向かって逃げようと思うことが
常識的だとは思われるが




彼は
あえて、東軍の武士の多くいる
軍勢に果敢にも向かっていき、
その戦場を横断するかのように脱出を図った…



その間

約3,5キロ


その約3,5キロを



「捨て奸」もしくは
「座禅陣」と呼ばれる戦法で…




島津隊は退却の最中
退路に銃を持った兵士を数人座らせる…
彼らが敵の指揮官を狙撃し
怯んだところで突撃する…



それを何度も繰り返す中で…
時間稼ぎをし
その間に
大将、島津義弘を逃げさせるといった作戦をとる…



火縄銃と槍刀で武装した兵士たちが
小集団として本隊から離脱

座禅を組み座り込んで
火縄銃を構え、敵の指揮官を狙撃敵撃
撃った直後に槍や刀に持ちかえ敵集団に突っ込み死ぬまで戦うという



その戦法を繰り返し
最後の戦いの場所となったのが





「島津の退き口」と呼ばれる




鳥頭坂



ここでは

島津豊久が…最後の砦となって

その
「捨て奸」もしくは
「座禅陣」と呼ばれる戦法で

討ち死したか
あるいは…そうとうな負傷を負った場所
であり



もちろん

多くの薩摩武士が…ここで…討ち死した場所…であり



その結果…伊勢西街道へと
逃れ
最終的には
島津義弘は生きて九州の地に戻れることができた…



その
前方の東軍の中を敵中突破で突抜け
南宮山と松尾山の間、前日来た道を南に抜けるという。
前に退くという前代未聞の「逃げ戦法」
その十中十死の島津隊の勇敢さをクローズアップした
この退却戦を


「島津の退き口」と称された
その最終の決戦場所は
「鳥頭坂」とばかり思ってましたが…




な、なんと!!
驚くことに


「島津の退き口」は関ケ原駅近くの
「観光交流館」にもありました…???




な、なんと
そこの倉庫???が…











この倉庫を開けたら

時空を超えて

島津義弘が隠れているような気がしてならなかったけど…笑

さすがに
「捨て奸」食らっちゃたまりませんからね!!…笑
絶対に開けません!!



というよりも
勝手に倉庫を開けたらあかんでしょ!!






さてさて



この日…

全部の合戦跡を廻るつもりでいたけれど
ここで…悲しいかな…日が暮れそうな感じで…時間切れ…





肝心の小早川秀秋の松尾山に登ることは
また別の機会にするとして



島津義弘将軍が退いたように
ド将軍???も同じように
伊勢西街道に向かい…退いたのでした…





その時の
私は空腹でして




それを

「島津の退き口」
ならぬ

「(昼飯)喰わずの退き口」



というとかいわないとか…笑





ああ…お腹が空いた!!…苦笑














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