飛鳥時代から鎌倉、南北朝時代まで、続いたらしい「斎宮」があった場所である明和町
「斎宮」とは伊勢神宮の祭祀に奉仕する未婚の女性「斎王(さいおう」が住んでいたところで、ここに斎宮寮という役所が設けられていたそうな
壬申の乱に勝利した天武天皇が、勝利を祈願した天照大神に感謝し、大来皇女を神に仕える御杖代として伊勢に遣わしたことに始まる「斎王」
初代斎王は「大来皇女」とされ、天皇の代ごとに替わる「斎王制度」は飛鳥時代から約660年間続いたとのこと
その後「幻の宮」として伝承で、この地が「斎宮」出会った場所であると語られてきたが、昭和44年、住宅の造成予定地から遺跡が見つかり、この明和町に南北700メートル、東西2キロ、約137haの広大な遺跡があったことがわかった「斎宮跡」
その歴史の街、明和町で「斎宮」よりもウンと前にあったのが、
今回、紹介する
「塚山古墳群」
斎宮歴史博物館および周辺に分布する群集墳である塚山古墳群
5世紀末~6世紀前半に築造された、円墳と方墳合わせてかつては、42基(その後の調査で 60基以上)あったことが判明されており、そのうち13基は、今も保存されているそうな
下の図の黒印は、現在残っている円墳や方墳の塚山古墳群
下の図の青印は、現在残っていないけど、ここに円墳や方墳があったと判明された塚山古墳群
さてさて
「斎王の森」と塚山古墳群とを結ぶ道は、
「和歌とともにあるく歴史の道」という道として整備されてまして
「斎王の森」と塚山古墳群の間には24首もの歌碑が立ち並ぶ道になってまして
これらの歌碑で立ち止まって、暗唱すれば、斎王気分が味わえる!??
この歌碑は
「いすず川 たのむ心は にごらぬを などわたる瀬の 猶よどむらん」
歌の意…五十鈴川に託した私の心は濁っていないのに、なぜ川を渡ろうとするとこの瀬はよどんでしまうのでしょう
後醍醐天皇の皇女、祥子内親王の和歌
その後は…斎宮は「幻の宮」となっていく…
こんな歌碑が、他にも22首並んでいる
「和歌とともにあるく歴史の道」
歌碑の前で、平安時代の風を感じて、ほん和歌…もとい…ほんわか気分を味わいまして
その「斎王の森」から歌碑を辿って歩いた
県道707号との交差点に塚山古墳群の3号墳がありまして
これが塚山古墳3号墳
近年の発掘調査では史跡の北側を大きく迂回するように掘られた「大溝」が発見され、
その長さは約2キロ、最も広い所で幅3.4メートル、深さは3メートル以上もあるんだって
私は「大溝」の説明記述よりも
案内看板の傷みの方が気になったけど
今となっては、風化して「大溝」どころか「溝」にも感じられないけど
道路を挟んで、斎宮歴史博物館の目の前にあるのが
塚山古墳群2号墳
現存する古墳の中では高さ・幅ともに最も大きなもののようで、
周濠が巡る方墳となっているよう
斎宮(イツキノミヤ)や、その宮中の方が、この塚山古墳をみつけたときは、コフンだけに、さぞコーフンしたに違いない!
コーフンしすぎて、もう、そのまま、宴会に!
宴会では、盛り上がって、一気呑みやー(イツキノミヤ)
はい、斎宮(イツキノミヤ)だけにね!