あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

著書「ママ、さよなら。ありがとう」に対する我が魂の底からの訴え

2017-04-22 12:35:36 | 
ママ、さよなら。ありがとう
池川 明


追記文2018年2月28日(何故か、Amazonレビューに載せたのですが違反報告されたのか、削除されています)


わたしはスピリチュアルな考え方にはほとんど肯定的で、人が親や人生を選んで生まれてくる話や
胎内での意識や記憶、胎児との会話なんてものもいい話だと想っている人間です。

しかしスピリチュアルな意識を持ちながら、人を殺すことに従事している人は今まで見たことがありません。
著者は胎児を一人前の「人」として理解しながらも、その胎児を殺すという「中絶手術」を行ない続けているという事実に
わたしは違和感がどうしても拭えません。

胎児が一人前の人間であるということは、生きている子供や成人や老人と同じ存在であるということです。
著者の池川さんは、一人の子供が目のまえで「これこれこういう理由で自分も家族も全員納得していることだし、自分とみんなの成長のためにも今死んだほうがいいから殺してください」と言われ、それが法律には反してはいない場合、殺人を行なうのでしょうか。

全世界で、1秒間に1人以上もの一人前の人間である「胎児」が中絶(堕胎)され続けております。
闇中絶合わせれば倍以上の数になるやも知れません。

日本のどこを探しても中絶を行なう場所が無いのなら、産むことを選択する母親は増えるのではないでしょうか。
中絶手術(殺人)を行ない続けながら、人の命の尊さを説き続けることを、わたしはやめてもらいたいと想うのです。

わたしはやめてもらいたいのです。そこにどのような理由が在ろうとも、人が人を殺すことを。
池川さんに対してそこまで義憤は覚えませんが、その代わりどこか気持ち悪さは残ります。
中絶の残酷さは池川さんが一番良く解っていることじゃないですか。
生きている胎児の身体を引きちぎらないといけないわけじゃないですか。
なんでそんなことができるんですか?
さっきまで会話していた一人の人間を、なんでそのような方法で殺すことはできるんですか?
これが本当の話だというのなら、池川さんはどこか狂っていらっしゃるのだと想います。人として。
わたしならさっきまで話していた可愛い可愛い胎児の頭と胴体を引きちぎって殺すなんてできませんよ。
これは初期中絶の方法ですが中期中絶は母親の体内の外に赤ちゃんを出してから窒息死という形ですよね。
一方で愛を説きながら、一方では人を窒息死させつづけているわけですか?
わたしは池川さんにお聴きしたい。
なぜ、愛を説きながら人を殺し続けることができるのか。

わたしはどんな理由で頼まれても、人に拷問のような苦しみを与えて殺すことなどしたくはない。
他者に自分の子を殺させる母親も精神状態が正常ではありません。
そのようなことを人は人にさせるべきではないのです。
自分の手で殺めることもできないのに、他者に我が子を殺させるべきではないのです。

中絶は日本では合法だから赦されるのでしょうか?
合法だから、日本の母親の胎内に宿る胎児は他者(中絶を行なう者)に
「自分と周りの成長のため(愛を知るため)に拷問の苦しみを与え殺してください」と胎児は望むのでしょうか。
だとしたらその胎児の魂もどこか狂っているのだと想います。
中絶手術(殺人)を何故嫌々やっているのですか?
本当に嫌なら胎児と母親に事情を説明して断ればよいのです。
本当に産んでもらいたいと想っているのなら、殺すことはできないのではないですか?

もし世界が、この御本の中の話を信じて中絶をポジティブに受け留めだしたなら、どのようになると想われますか。
国内2014年度の人工人中絶件数は18万1,905人、一日に約498人。これでもすごく減ってきている数なのです。
一時間に約21人の胎児が中絶されています。
今でもこれだけ多いのにポジティブに捉えだしたら増えてしまうのではないでしょうか?

胎児の殺害(中絶)は「殺人」ではないと言うのなら、なんのために池川さんは胎児の命(たましい)の尊さについてこんなに熱心に説かれているのでしょうか。
「たましい」があるということは、胎児も新生児も子供も大人も老人も、まったく同じ価値の尊い存在だということです。
つまり中絶とは、新生児や子供や大人や老人を殺害することとまったく同じ行為であるということです。
しかもだいたいにおいて安楽死ではなく、想像も絶するほどの肉体的苦痛を伴うのが人工妊娠中絶です。

母親と胎児に頼まれたからって正常な意識でできるものなんですか。
例えば何遍も中絶を行ない続けた医師が、罪の呵責に苦しんだ末に自殺しても胎児は、「ありがとう」と感謝して天使のように笑ってるわけですか。
どこかおかしくないですか。気持ち悪くないですか。
中絶された胎児は母親に「ありがとう」と言って、母親も胎児に「ありがとう」と言って幸せに暮らしても中絶を行なった人間はのちに自分が遣ってきたことの恐ろしさにやっと気づいて絶望して死ぬかもしれない。
胎児と母親はそこまで考えられているのですか。その上での「ありがとう」なのですか。

ただただ苦しんで、誰一人にも「ありがとう」と言えずにひとりぽっちでずっと泣いている胎児のたましいが一人でもいるのなら、
その一人のたましいのためにわたしは中絶問題を訴え続けてもらいたい。
綺麗ごとで済ませられないことがあることを多くの人に知らせてもらいたい。
関わってきた人間だからこそ訴えられるものがあるのではないですか。

追記:4月22日
いきなり”いいえ”の評価が二人も付いてますけれども、これだけ「殺さないでくれ」と必死に訴えているコメントに対して無言でいいえを押していかれる方々ってのは、人殺しを賛美する方々でしょうか?それとも関係者の方々でしょうか。
何か一言くらい、コメントを残していかれたらどうでしょうか?人として。
こちらは魂の底から「どうか殺さないでください」と訴えているわけです。
なぜ中絶という殺人行為を、肯定するのか。
無言でいいえを押していかれる方々に義憤を抑えることができません。
返す言葉も無いのにいいえだけを押していかれるというのは、そこまでのいい加減な反対ですか。
人間の生命の尊厳についての訴えにいい加減な反対をしていてどうするんですか?
反論を是非述べてください。

たとえ赤ちゃんの魂と母親の魂が納得した上での中絶という拷問処刑みたいな死に方であったとしても、それを行なわなければならない”他者”という存在がいるわけです。
池川さんだって何も好きで中絶手術なんてしてないと想いますよ。
好きでもないことを他者にやらせるということは”利己主義”なんです、結局は。
中絶という方法で魂の成長をはかろうとする魂は利己主義なんです。
魂だからって全員が天使のように罪のない存在というわけではないでしょう。
利己主義の魂の言う事を聴いて殺人を行ない続けなくてはならない必要性があるのでしょうか。
私なら断ります。魂からどんな理由を言われたところで、なぜ殺人行為を他者にさせるのかが理解できないからです。
我が子を我が手で殺せる母親など一握りでしょう。
中絶手術を行い続ける者がいなくなるなら、中絶という惨劇は減るはずです。
魂が納得しているから殺してもよい(中絶してもよい)という考え方をどうか世に広めないで戴きたいのです。



追記:5月2日

今で無言でいいえを押されていった方が4人です。
いいえを押されていく方は、自分に関係のある中絶を正当化したい人間たちでしょうか?
殺人を正当化して良い理由がこの世にあって良いと想われますか?
わたしは我が子にどれほど頼まれようとも、わたしの命が危ないと言われようとも産みます。
それを悲しむ胎児ならば、とことん悲しめば良いのです。
どっちに転ぼうとも、喜びだけがもたらされるはずなどないのです。
わたしは自分の命を懸けて、自分の子どもを産みたいです。
その親の愛が不満な胎児など、勝手に不満になっていればよろしい。

わたしはやっぱり、この本の中絶に関するところだけは認められません。
胎児のわがままなど聴く必要はありません。
そんな我儘な魂ならば、言ってやりたいです。
「ではおまえは産まれてきて、わたしの首を引きちぎって殺せといえば、おまえは母親の首を引きちぎって殺せるのか」と。


追記:5月4日

今でいいえが5人。面白いほど無言でみんないいえを押していかれますね。
いい加減な人間ばっかりか。反論の一言も言えないのに、なにがいいえなんだろう。
わたしは言いたい。
たった一度でいいから、生きたまま、自分の首を引きちぎられて殺されるところを生々しく想像してみてほしい。
生まれてから引きちぎるのは大変ですよね?
だから首に切り込みをナイフで入れられて、思い切り引っ張られて首を引きちぎられるところを本当に生々しく想像してみて下さい。

一秒間に一人以上の胎児が中絶され続けていますが、一分間に首を引きちぎられて死んでゆく胎児はいったい何人いるのでしょうね。
いったいどれほどの痛みと、苦しみと、恐怖があるのでしょうか。

胸の上で手をしっかと組んで、まるで神にお祈りするように死んでいる中絶された胎児の写真を見ました。
彼はどんな想いで、母親に堕ろされてしまったのか。
わたしはすべての中絶に関わる人間たちに、苦しみ悲しみ続けてもらいたい。
わたしは自分のせいで父が死んだと思って生きていますが、自責の思いから生きている心地がもう13年間ずっとありません。
苦しみ続けてください。悲しみ続けてください。人を殺したのです。それでこそ、人は成長できるというものです。
我が子を殺しても、殺人に関わっても、ポジティブに生きていける人は、どこか人としての箍(たが)が外れてしまっています。


追記:5月11日

中絶という問題は、考えれば考えるほど、肉食の問題と通じてくるように感じます。
自分はスピリチュアルな啓示のようなものによって2012年に畜肉を一切食すことを断ちました。
今は完全菜食を続けています。
自分は何十年と、自分では到底殺すことのできない家畜を、他者の手によって殺させ、その死肉を食べ続けてきました。
目の前に、生きた牛や豚や鶏がいて、そして簡単に殺すことのできる武器を手にしていたとしましょう。
それでもわたしはその家畜を自らの手で殺すことはできなかったと想います。
自分が嫌なことを他者にさせ続けて生きてきました。
これが間違いだったのです。

わたしはわたしの自分の手によって殺害せしめ、その死肉を喰らわねばならなかったのです。
でも自分は、そこまでして肉を食べたいとは想っていませんでした。
他者が自分の嫌なことを代わってしてくれていたから、食べていたのです。
本当に、罪深いことです。たとえ肉食をやめてもこの罪は生涯、いや何度生まれ変わろうとも消えることはありません。

中絶という問題も同じく、母親が自らの手で堕ろす(殺す)ことは稀なのではないでしょうか?
とくに日本では、主に中絶の方法は中絶手術によってです。
自分の手で、我が子を引きずり出すこと、またはその首を器具によって引きちぎることが耐えられる母親が果たしてどれほどいましょうか。
医者が代わりに殺害行為を行なってくれるので、安易に中絶をする人間が増えてきていると言えると想います。

殺すなら、自分の手で、殺すべきなのです。
胎児もまた、本当の苦しみによって母親共に魂の成長を望むというのならば、「貴方の手によって殺してください」と願うべきなのです。
それができないなら、どのような殺害にも人は関与するべきではありません。













原風景

2017-04-21 23:42:14 | 
俺の人生って、まあゆうたらどん底ですよ。もうほんまもんの、どこぞんと言いますか。こんどぞと言いますか。どぞこんですよね、正味、言葉にしたらね。血が深いと言いますか、血が濃いなっていうのはわかりますね。関係性の在り方と言いますか。何を植えつづけてきたかっていうと灰の樹のようなもの。その苗は苗ですからちいさく、なえなえしたものなんです。石で頭打って、死んでもいいよ、とか言ってたりするわけですよね。苗がね、ひとつびとつのその苗が、締まらない顔をして、なんかこう、清水を浴びながら訴えかけてくるものがあるんです。海を蹴って、地雷を踏んで、電線を首に巻きつけて、雨の日こおろぎ拾おてきて、その美しい海や、その美しい空が、どこまでいっても美しく広がり続けていることって、それってそこになんもないことと同じだよ。でも人は、美しいものが在り続けてほしいと願う。悲しいから生きるけど、生きるから哀しいっていう、遣る瀬の為さ瀬で船を一人で唯待ち続ける俺という記憶と伝達と有機運動と未開の収縮活動でできている子の図に会る、大きくて小さい、堅くてやわらかい、冷たくてあたたかい、なにもないがなにかある、触れそうで触れない、愛おしいのに憎たらしい、憶えてないのに憶えてる、溺れてるのに泳いでる、愛しているのに死んで欲しい、中側にいたのに外側だった、美しくても反吐が出る、波打ち際が深海だった、森林の奥は霊園だった、またあの子に会える、あの子に、どの子かよく知らない、俺を宥めて、寝かし付けてくれる。湯田温泉に連れてってくれて、あたたかいお湯の中に、俺を沈めてくれる。俺はここでこうして待っていればよい。涙を浮かべながら、未来の夫に欲情していればよい。もうすぐ陽が沈む。もうすぐ、湯気が立つ。中間の、原風景のなかに。











受胎の子

2017-04-19 03:32:28 | 物語(小説)
俺はそのとき、まんまるい泡(あぶく)かなにかのような球体だった。
俺の内部には、なにものもない、空っぽで空洞のようだった。
どっちが前で、どっちが後ろで、どっちが上で、どっちが下か、まったくわからなかった。
ぷかぷか浮かんではぽんぽん飛び跳ね、くるくる廻り続けていた。
そうしてずっと、意識のある間じゅう小躍りし続けていた。
俺はそのとき覚った。
どうやら俺は、人類の母親の子宮内壁部に着床した受精卵。
すなわち、俺は今、”受胎”という現象であることを。

これが俺の、最古の記憶、”受胎時の記憶”です。
とにかく何が楽しいのかもわからなかったのですが、身体が妙に軽くてゴムマリのようによく跳ねるので狭い子宮内部で踊るように動き回り続けていたのです。
眠るときは静かにしていたと思うのですが、それでも夢の中では同じように踊り続けていた為、俺はそのうち、いつまでこんなことを続けるのだろうと思いました。
じっとしていたところで解決にはならず、かといって踊り続けていてもなんの解決にもなり得ないことをまたもや覚ったのです。
ですからとにかく”変化”の時を、ひたすら待ち望みました。
しかし俺はこの時を、永遠に経験し続けているようです。
何故なら先ほども言いましたが、俺という現象が受胎という今に存在しているからです。
それで俺が誰にこうしてずっと話しかけ続けているのかというと、それは”あなた(母親)”なのですが、何故あなたは何も応えてくださらないのですか?
まるであなたは、雨がしとしとと降る真夜中に一軒だけ開いていた小汚く狭苦しい宿屋に一人だけ居てる無愛想で無口なおかみの如く、濡れそぼったたった一人の客である俺の注文するあてを黙って持ってきてテーブルに置いてまた去っていくその動作を、ただ目のまえで繰り返し続けているその無関心に傷つき果てる俺は注文以外にもあなたを何度も、何遍も呼んでいるんですよ。聴こえませんか?俺の声。まだ芽吹いてもおらない人でないものと思っていらっしゃるのだと思いますけれども、俺はあなたの宿をやっと見つけて駆け込んで、どうか泊めてくださいと言ったらあなたは黙して頷いてくれた気がしたのです。俺の夢かもしれませんが、真っ暗闇のなかに、一軒の灯りが見えて、その灯りが見えたとき、どんなにほっとしたことか。もうすこし、優しくしていただけませんか?俺はあなたに、優しくしてもらいたいのです。御声をかけていただきたいのです。前も後ろも上も下も解せませんが、それでもあなたをこうして求めていることは確かなのです。とりあえず、栄養を俺に送り続けてくださってどうもありがとうございます。あなたの御陰で俺は生存していられているわけでしょうから、感謝したいと思います。先ほどは、すこしく我儘なことを言いまして申し訳ございませんでした。何分、未熟な存在でありましょうから、許していただけますか。
永遠に、俺の独り言は続きました。
”変化”を望み、”変化”を恐れる俺に、あなたは”永遠なる受胎児”でいることを叶えてくださったのです。








参考文献
胎児は見ている―最新医学が証した神秘の胎内生活
トマス バーニー

P123〈だれもが記憶している出生時の体験〉より




内的新生児

2017-04-18 22:54:18 | 想いで
俺はどうやら胎児の頃、愛されていたみたいやが、
生れ落ちた瞬間、俺は絶望した。
逆子で臍の緒が首にぐるぐる巻き付いて仮死状態で難産の末に産まれた俺の姿を見た瞬間、その場にいる全員が絶望した。俺の顔が不細工で醜く、片目は閉じてて頭はいがんで(歪んで)いたからである。
その醜い赤ん坊の俺の姿を見て、家族全員が絶句した。
母親は育児日誌に、こう書き残している。
「わたしたちの子とは信じられない・・・・・・」
出生の瞬間に俺はこの世のすべてに絶望して絶句した。
その出生時の記憶というものに俺の生涯は支配され続け、俺にもし子が産まれるのであれば、俺の記憶は俺の子の記憶として受け継がれてゆくであろう。
俺はやがて、可愛くなっていったがためにふたたび愛されるようになった。
幼児の時代の写真を見てみれば、みんな幸せそうなのに俺だけ一人不満そうな顔を浮かべている。
「はっ、俺が可愛くなったからみんな可愛がってるだけなんやろ?わかってる、わかってるよ」
俺は愛されていたのやが、俺は不満だった。
可愛いから愛されたって、ちっとも嬉しくなかったのである。
俺は愛されていたのに、愛に飢え渇いた孤児のようであった。
この孤独と自嘲と差別と疎外なる受難の人生を選んで生まれてきた俺は、
この内なる新生児が、いつでもひとりで泣いて「さびしい、さびしい」と言うので、
しかたなく母親を産んでやった。
しかたなく父親を産んでやった。
しかたなく花婿を産んでやった。
しかたなく息子を産んでやった。
しかたなく霊神を産んでやった。
それでも不満な顔を浮かべる我が内的新生児よ。
おまえはそれでも泣く。
おまえはそれでも「さびしい」と言う。
みんなが泣いているんだ。おまえの為に。
おまえを愛しているから泣いているんだ。
死の瞬間までおまえが泣くために、おまえは生まれて来たんじゃないか。
おまえは永遠に、出生の瞬間を生き続ける存在である。








空を見る

2017-04-16 18:38:30 | 
あんまり、堅く考えるのはよしたらどうだろうね。
お酒で早死にする人もいれば、長生きする人もいるのだからね。
何ヶ月振りだろう。こうして窓から空を見るのは。
あったんだな。空というものが。もうないのかと想ってた。
は、はは、ははは、はははは、ははははは、母は母は、母は母はは。
母母母母母母母母母母母母母母母母母母母母母母母母母母母母はは。
あったんだな 空というものが もうないのかと 想ってた
想ってた。
想ってた。
おもてた。
おれは素面で、気違ひみたいに笑ってみたかったんだよ。
そうしていつの日か、目を閉じて、宵の明暗に、振り返りもせずに。
歩いていきたかったんだ。












一人の存在

2017-04-10 20:33:18 | 
誰ひとり、悪ではない。
だが罪というものは、人それぞれのその内にあるものである。
他人がそれを罪ということもできなければ、断罪することもできない。
それは、みずから下して初めて罪として成立するからである。

なぜかれが、苦しんでいるか。
愛を知ったからである。

ではなぜかれは、苦しんでいないのか。
そんなこと知るかあ。

愛を知るものは、苦しみと喜びである。
されど愛を知らぬものは、ひたすら苦しみである。

愛のない処に苦しみはなく。
苦しみのない処に愛もなし。

何が言いたいのかと言うとお。
すべてが苦しみであるが故に、愛である。

すべてが愛であるが故に、苦しみである。

苦しみでないなら愛ではな苦。
愛でないなら苦死身では泣く。

死ねば浄土へ向かうが。
浄土へ向かえば死ぬのである。

これが空の概念であるとおれは解釈しているう。
あいつを殺せば俺は死ぬが。
俺は死ねばあいつは殺されるのである。

俺がケンタッキーにゆけば。
ケンタッキーは爆破されるが。
ケンタッキーが俺にゆけば。
俺がケンタッキーを爆破するのである。

死ねば龍宮城へゆけるが。
龍宮城へゆけば死ぬのである。

バイタリティの枯渇に嘆くならば。
嘆きが枯渇をバイタリティするのである。

俺が間違ってるとゆうのなら。
誰も間違ってるから俺に間違ってるとはゆうな。

空が無を滅し、滅私が無を空のである。
死が生を滅し、滅私が死を生むである。

記憶の貯蔵庫を奄美から抱きし。
雨身の緒臓子を樹屋へと唾棄するのである。

実存を葬り去って愚痴を交わす小鳥たち。
それが実現できるならば宇宙をも滅ぼす。
そう言って、地獄のどん底に死んだやつ。

それがイエスである。
それがイエスである。
それはイエスである。

俺のなかに滅して生まれ堕ちる、一人の存在である。






それはそこにないか、あるか。

2017-04-10 02:08:23 | 生命の尊厳
「在る」と”想定”することの大切さについて。

人の「始期」とは?
人とは、胎児とは、果たしてどの時点から「人」であるでしょうか。

在る者は妊娠中期から、約12週目以降からと言い、在る者は、否、受胎(受精卵が子宮内膜に着床した時点)の成立時からである。と言い、在る者は、いいや、胎内の外へ生まれ落ちた瞬間からだろう、と言い、在る者は、身体の一部分が母体の外へ出た時〈一部露出説は、「胎児の身体が母体の外から見えた時点(一部が露出した時点)」を、法的な「人の始期」とする説〉からだと言うでしょう。

ではここで、宗教、理論、スピリチュアリズムまで広げてその見解を探ってみましょう。

まずは世界最大の信者数であるキリスト教は、どういった意見を提示しているでしょうか。
聖書には、どの時点から「人間」であるのだとはっきりと神が明示している箇所は見当たりません。
中絶についての明確な聖句も残念ながらありません。

http://www.totetu.org/assets/media/paper/k023_126.pdf

3.「生命のはじまり」に関する中世から現代までの
カトリックの見解


はじめて神学的に胎児の生命を認識し中絶を否定する見解を示したのは古代キリスト教最大の神学者・アウグスティヌスである。
彼は、上述の創世記の一節(「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(創世記1:28))から、出産がセックスの目的であり、その場合においてのみセックスが許される、と考えた。

したがって、中絶はセックスの唯一の目的を阻むが故に罪深い行為と考えたのである。
この見解が中世、そして現在にいたるまで影響し、カトリックにおいて中絶に対する批判的見解が形成されていったと考えられている。

次に神学的に整理したのは中世最大のカトリック神学者といわれるトマス・アクィナスである。基本的にはアウグスティヌスを踏襲しているが、具体的に「いつから生命がはじまるのか」について言及した点で注目できる見解を述べている。

曰く、「男の胚には受精後40日目に、女の胚には受精後90日目に神が“魂”を吹き込む」と。
彼の生きていた時代を考えれば、この日数に明確な根拠があったとは考えられない。
むしろ、男性優位の思想を反映させるために男の胚によりはやく魂が吹き込まれると考えたのであろう。

そして、中絶はいかなる時期にも罪深いものと見なしたが、とりわけ、胎児が「形をなした」ものとなっている場合、その罪はいっそう重いと考えていたことは注目に値する。

19世紀半ばから、生殖メカニズムが解明されてくるにつれて、教皇は中絶を公然と批判するようになり、この時期に、カトリックは、胎児の人格性は受精の瞬間に始まるという考えに近づいていったのである。




受精の瞬間から人格性が始まるとは、その時点で既に個の人間、個人という存在であるとしてるわけですから、まだ人間的な形にさえなってない頃から個人として尊重すべきであるということですね。
性交経験のある女性ならば、知らないうちにまだ人間の形になっていない状態の人格性の伴った個人を知らず知らずにトイレに流してしまっていたなんてこともあるかもしれませんから、考えたらなんとも複雑な想いになりますね。
排泄される哀しみを知っているから糞尿愛というものも在るのか、などと色々想像できますね。



つづいて仏教のひとつの重要な概念である龍樹(ナーガールジュナ)の「縁起」というものは、これは根源的な宇宙の法則について説かれているもので、これをヒントに中絶について考察してみたいと想います。


空の思想
--- ナーガールジュナの思想 ---
第三章 縁起と因果


縁起を時間的生起関係・因果関係を示しているものとナーガールジュナが解釈していたと仮定してみますと、このような言い換えは不可能であったことがわかります。たとえば、

A : 食べ過ぎ(X)によって、腹痛(Y)が起きる。
を、ナーガールジュナふうに言い換えると
A’: 腹痛(Y)がないことによって、食べ過ぎ(X)が起きない。

となります。この場合、AとA’は、あきらかに全く別のことを言っているので、このような言い換えをすることはできません。

ところが、もし、縁起を論理的関係を示しているものとナーガールジュナが解釈していたと仮定すると、そのような言い換えが可能であったことがわかります。たとえば、

B : もし食べ過ぎる(P)ならば、腹痛が起きる(Q)。
を、ナーガールジュナふうに言い換えると
B’: もし腹痛が起きない(〜Q)ならば、食べ過ぎではない(〜P)。

となります。この場合、BとB’はまったく同じことを言っています。

つまり、Bが真(誤)ならB’も真(誤)であり、B’が真(誤)ならB(誤)も真であり、この二つは論理的に同値です。
したがって、BとB’は交換可能です。(これは論理学では「対偶律」と呼ばれる基本的な論理規則の一つです。



これは難しい概念を結構分かりやすく説明されているように想えますが、それでも簡単に頭で理解できるものではないのですが、この法則を中絶に関わる人間たちの縁起に置き換えてみたいと想います。

胎児は、

A : 前世の悪業(負のカルマ)(X)によって、中絶される(Y)。
を、ナーガールジュナふうに言い換えると
A’: 中絶(Y)されないことによって、前世の悪業(X)がない。

これは時間的な因果関係の解釈をナーガールジュナが行なっているわけではなかったことを表す例です。
時間的な因果関係を説くなら、胎児は中絶されない場合その前世のカルマはないということになります。

時間的な因果関係はよく「カルマの法則」として広まっている解釈かもしれません。
この解釈だと原因(X)によって結果(Y)が起きるなら、結果(Y)が起きないことによって、原因(X)はないことになります。

これを中絶した妊婦に置き換えますと、

A : 中絶(殺生)(X)によって、妊婦は苦痛(Y)を被った。
を、ナーガールジュナふうに言い換えると
A’: 苦痛(Y)を被らないことによって、中絶(殺生)(X)は起きない。

これだと妊婦は苦痛を被らない以上は中絶が起こり得ないと言っていることになります。
膝をすりむかない以上、怪我が起きない。と言っているような論理破綻となります。

この例から、ナーガールジュナは時間的な因果関係を説いていないということを示されています。

次に論理的な関係(相互依存的関係)を説いている場合どうなるか。

胎児は、

B : もし中絶される(P)ならば、苦痛が起きる(Q)。
を、ナーガールジュナふうに言い換えると
B’: もし苦痛が起きない(〜Q)ならば、中絶された(殺された)のではない(〜P)。

母親は、

B : もし中絶(殺生)する(P)ならば、苦痛が起きる(Q)。
を、ナーガールジュナふうに言い換えると
B’: もし苦痛が起きない(〜Q)ならば、中絶した(殺した)のではない(〜P)。

苦痛を「罪悪感」という言葉に置き換えますと、

B : もし中絶(殺生)する(P)ならば、罪悪感が生まれる(Q)。
を、ナーガールジュナふうに言い換えると
B’: もし罪悪感が生まれない(〜Q)ならば、中絶した(殺した)のではない(〜P)。

これは大変わかりやすくて、論理も成立しています。
罪悪感が生まれないとは、”良心が芽生えていない”、”正常な精神状態にない”とされて刑罰が免除されるのはこういった論理からです。

よって、ナーガールジュナ(龍樹)に中絶問題を説かせるならば、たぶんこう言うのではないでしょうか。

胎児がほんとうに一切の苦痛を伴わなかったことを証明できるのであれば、それは殺生(罪)ではない。
母親が中絶行為によってどのような苦痛も起きないのならば、それは殺生(罪)ではない。

胎児が苦痛を伴わないと証明できない限り、それは殺生(罪)であり、
母親が中絶行為によって苦痛を伴うなら、それは殺生(罪)であるが、その場合にも胎児が一切の苦痛を伴っていないことを証明するならば、胎児にとってはそれが母親による殺生(罪)ではない。



難しい概念を簡単に表してみましたが、わたしの言いたいことは解っていただけたでしょうか・・・?

最初の文句の「在る」と”想定”することの大切さについて。というのは
胎児の苦痛、また母親と中絶に関わるすべての人間のこれから先の苦痛を「無い」と想定して判断するよりも、
「在る」と想定して熟慮することがなぜ大切であるのか、それは何事も、「無い」と証明することはできないからなのです。
確たる「証拠」がない以上、それは「無い」と想定するのではなく、「在る」と想定して考える必要があるということです。

ですから胎児にはどの段階であろうとも、痛覚が「無い」と想定してかかることは非常に浅はかな考えなのです。
同時に、胎児が”その”時点で「人」では「ない」と想定して判断することも浅はかなことになります。

母親と中絶に関わるすべての人間がこのさき絶望に陥って自殺する可能性について、「無い」と想定するのではなく、「在る」と想定して深刻に判断せねばならない問題だということです。

神学者やカトリック教会も胎児は人では「ない」と想定してかかるのではなく、人で「ある」と想定して中絶問題に警鐘を唱えつづけるのにはそれだけの人間にとって重要な問題であるからです。



では次に、わたしがスピリチュアルではもっとも信頼を置く存在であるシルバーバーチという高級霊団からのメッセージでは人の始まり、また中絶についてはなんと言っているかを載せたいと想います。


シルバーバーチの霊訓(8)


続いて妊娠中絶の話題が持ち出されると、同じゲストが尋ねた。

───それはどの段階からいけないことになるのでしょうか。

 「中絶行為をしたその瞬間からです」


───妊娠してすぐでもいけないのでしょうか。

 「とにかく中絶の行為がなされた瞬間から、それは間違いを犯したことになります。いいですか、あなたがた人間には生命を創造する力はないのです。あなた方は生命を霊界から地上へ移す役しかしていないのです。

その生命の顕現の機会を滅ぼす権利はありません。中絶は殺人と同じです。妊娠の瞬間から霊はその女性の子宮に宿っております。中絶されればその霊は、たとえ未熟でも霊的身体に宿って生き、生長しなければなりません。

中絶によって物的表現の媒体を無きものにすることはできても、それに宿っていた霊は滅んでいないのです。霊的胎児のせっかくの自然の生長を阻止したことになるのです。もっとも、これも動機次第で事情が違ってきます。常に動機というものが考慮されるのです。

 私の住む世界の高級霊で人工中絶を支持している霊を私は一人も知りません。が、動機を考慮しなければならない特殊な条件というものが必ずあるものです。行為そのものは絶対にいけないことなのですが・・・・・・

 あなた方が生命をこしらえているのではないのです。したがってその生命が物質界に顕現するための媒体を勝手に滅ぼすべきではありません。

もしも中絶を行っている人たちが、それは単に物質を無きものにしたことで済んだ問題でないこと、いつの日かその人たちは(医師も含まれる──訳者)その中絶行為のために地上に誕生できなかった霊と対面させられることになるという事実を知れば、そうした行為はずっと少なくなると私は考えております。

妊娠の瞬間からそこに一個の霊としての誕生があり、それは決して死ぬことなく、こちらの世界で生長を続けるのです」


───今地上で行われている実情を思うと、これは大変なことをしていることになります。

 「それが現実なのです」


───堕胎された霊はいつかまた誕生してくるのでしょうか。

 「そうです。責任は免れません。物質界への誕生の目的が自我の開発であり、そのせっかくの機会が叶えられなかった場合は、もう一度、必要とあれば何度でも、再生してきます」






シルバーバーチは語る> 23章 さまざまな疑問に答える


――霊は受胎後どの時点で胎児に宿るのでしょうか。

納得できない方が多いであろうことを承知の上で申し上げますが、精子と卵子とが結合してミニチュアの形で個体が出来上がった時から、その霊にとっての地上生活が始まります。





シルバーバーチの有無を言わさぬ厳しさというものにわたしはイエスと同じ愛の深さを感じます。
高級霊界というところでも堕胎という行為に罪(間違い、過ち)は「ない」と想定せず、「在る」と想定しているようです。
そして胎児がミニチュアの個体が出来上がったときからすでに霊は宿り、その時点から「人である」と見解しています。



例えば、「苦しくて死んでしまいたい」と訴える人には、よくこう言われると想います。
「でもさ、生きていればきっと良いこともあるよ」
これも「在る」と想定していることでの励ましです。

「でもさ、この先あなたはもう決して苦しむことなどないよ」
と言うなら、「ない」と想定しているわけですが、とても嘘くさい言葉になってしまいます。
「そんなこと、わからないじゃないか」と反論されてしまいます。

胎児がいつから「人」であり、そこに「苦痛」があるかないか、というのはわからない(目に見えてわかるものではない)からこそ
「無い」ではなく「在る」と想定して胎児が人で苦痛を感じているかもしれないという可能性について人々は真剣に考え続けていく必要があるということなのです。





殺されるべき人間とは

2017-04-09 17:21:55 | 生命の尊厳
昨夜に引き続き、目が醒めた瞬間から義憤の念に苦しめられている。
魂とは。わたしは生命に義憤を覚える。という昨夜の記事に引き続きまして今日も”中絶問題”について感情を吐き出したいと想います。

まず、冷静に、何分に一人が今、中絶されているのかを計算してみたいと想います。
人工妊娠中絶の世界的現況――MDG 5の達成に向けて

1995年の中絶数4,600万件に対し、2003年は4,200万件に減少していた。
とありますがこれは闇に葬られてはいない数の計算でこれだけあるということです。
2016年にはどれだけあったかはわかりません。

過去1世紀で10億超、世界の中絶件数-米報告書

信頼できるデータが得られる100の国と地域を選び、1921年から2015年までに行われた中絶件数を合計したところ、10億1843万5000件と10億の大台を突破したことが判明した。

世界の国の数は196か国とかでその約半分の国の100年の中絶数の統計は10億1843万5000件ということですか。

2003年で中絶数は4,200万件
42000000÷365=115068
で合ってるでしょうか。一日に11万5千68人が中絶されているという計算になります。

一日は1440分なので、これを一分に何人かを計算してみます。
115068÷1440=79.9083333333 と出たので四捨五入で一分間に80人の中絶数というところでしょうか?
1分間は60秒なので、一秒間に1,3人が中絶されているという計算になります。

一秒間ですよ?一秒のあいだに、一人以上の尊い命が堕胎され続けていて、これも闇中絶合わせたら倍以上の数になっていてもおかしくありません。

1秒間に 牛3頭、豚5頭、 鶏1100羽分が食肉として殺害されています。とありますから、まるで胎児は家畜の如く殺されつづけているじゃないですか。


たとえ強姦や近親相姦などの望まざる妊娠、奇形や障害のある子だとわかっている場合や母体を護るための中絶であっても、中絶というもの自体、生きている人間を殺すということですから立派な殺人行為なのです。

知り合いに「実は俺は人を殺そうと想っている」と言う者があれば、「やめておけ」と言う人は多いはずです。
でも日本では娘が妊娠したらあらゆる理由から「中絶しなさい」と言う親が多いようです。
「おまえは殺人者になって生きていきなさい」ということです。

愛する娘に「おまえは殺人を行ないなさい」と殺人を薦める親が多いというのはほんとうにおかしな時代だと想います。

明日食べるものもあるかどうかわからないという飢餓の起きている国や時代ならまだしも、今の日本にはちゃんと孤児院で育てられて愛ある夫婦のもとに養子になって幸せに生きる子供がたくさんいる時代です。

何のために殺す必要があるというのでしょうか。
何のために、人を殺人者にさせる必要があるのでしょう。

母体を守るために、殺人者になることは仕方ないと言う周りの人間は、いつか必ず自分の行いは自分に返ってくるということは言わないのでしょうか。

なぜ幼稚園や小学校で、「人にされたくないことは自分も相手にしちゃいけない」と教えるのでしょうか。

何故その子供が自分のおもちゃを取られて友達を叩いたら、「そんなことしたらいけないよ」と教えるのでしょうか。

自分が苦しくても相手に危害を与えちゃいけないと教えてきた親や教師は成長した人間には「自分を守るために中絶したほうが良い」と言うのでしょうか。

自分を守るために相手を殺す、これは戦争の”正義”というものです。
でも多くの人は戦争は起きてほしくないと願っています。

自分(自国)を守るために人を殺し、国に帰ってきた帰還兵の多くがPTSD(心的外傷後ストレス障害)に罹って鬱病を発したり果ては自殺したりする人が多いのは、耐え切れないほどの罪悪感から自責に苛まれつづけて精神を病んでしまうからです。

中絶をした(させた)ことで苦しんで、自殺してしまった人も多くいるのではないかと想います。

むしろ殺してしまったことに自殺するほど自分を追い込んで苦しみ続けない人に対して、一種の薄ら寒さのようなものを感じるのはわたしだけではないと想います。

飼い猫が自分のせいで死んでしまったのだと自分を責めつづけて重い鬱病になってしまった人もいます。
殺すつもりはなくても殺してしまったのだと苦しんで生きる人は多いのです。

中絶に関わる人が、精神を病むほど苦しみつづけずに生きるというのは幸せなことではなくて、むしろ不幸なことなのではないでしょうか?

当たり前の話ですが、人は、生命は、生まれてこれたから生きていくことができるのです。
生んでくれた存在がいてくれたから、すべてが生きていられているのです。

母親が赤ちゃんを産みだすことは命懸けの行為です。
自分が死んででも赤ちゃんを産もうとすること、それが人間が人間を創造することです。
母親の命を懸けた決断によって、自分の存在というものがこの世に生まれて生きているのです。
感謝しつづけても感謝しきれないほどの感謝を喜びを知る子供なら母親に対してしつづけているはずです。
どんな子供でも、母の自分の命をなげうつ決意のおかげで生まれてくることができます。
命を産みだすこととは、自分の命を犠牲にしてでも経験したいほどの喜びだと母親はどこかでわかっているはずです。
それが本能として備わっている”母性”というものです。
母親に限らず、親のだいたいが自分の命をかけても子を護ろうとします。

なぜそういった本能が生命にもとからあるのでしょう。
それがなくなってしまうなら、種は絶えてしまいます。
誰一人、子を産まず中絶する時代が来るなら、人類は滅びてしまいます。
中絶できる自由というものも、この先、中絶が著しく増えるなら規制されてゆくはずです。
人類を滅ばせるわけにはいかないからです。

たくさんの母親が命をかけてでも赤ちゃんを産んでくれているから中絶することが合法とされているわけです。

合法にはならなくなる時代が来れば、中絶は殺人罪となります。
今では1人~3人殺せば死刑とされる時代です。
たった一人の中絶は、死刑に相当する罪なのです。

なぜ1秒間に少なくとも1人もの胎児が、この世に生まれてほんの少しの喜びを感じることも許されずに殺されつづけていかなくてはならないのでしょう。
飢餓や貧困が原因の途上国の中絶なら、日本でも減らしていくことができるはずです。
途上国の飢餓や水不足は先進国の肉食が関係しています。

1人1人の”殺人”というものが自分とは無関係のところに起きているわけではないということがわかるならもっと深刻に考えつづけていけるはずです。

ひとりひとりの”罪”というものは、自分とは関係のない”罪”ではないということです。
”罪”は呼び方を変えるなら”苦痛”と言えます。
たった一人の”苦痛”はすべての”苦痛”と密接に繋がっているということです。

これも人間だけではありません。生命すべてと言えます。
”生命の苦痛”、それは勿論まだ誕生していない胎児も立派な生命であり、一人の人間という存在です。

仏教では殺生の罪は阿鼻(あび)地獄 / 無間(むげん)地獄という地獄のなかでも最下層に位置する最も苦しい地獄に落ちるとされています。
”殺生”というと”生き物を殺すこと”ですから幅が広いですが、例えば極端な例ですが、相手が一匹の小さな虫であっても、その虫を殺したことでそれをなんとも想っていない人と、そのことを日々苦しみ自分を責めさいなみつづける者がいるのならば、前者は自分に重い罰を科してはおらず、一方後者は地獄とも想える罰を自ら科しつづけているというのが事実としてあるわけです。

殺生が、最も苦しい罰を受けることになるよ。と説くのは要は人間というものは殺生を最も苦しむ存在であるという多くの例によって説いているわけです。

さっきの例で、虫を胎児に変えてみましょう。
一人は中絶したことに平気で生きて安らかに死ぬかもしれません。でも一人は地獄のような道を死ぬまで歩んで、死んでも自分を赦さず無限に続くかのような地獄のなかでまた転生してくるかもしれません。
そしてこの前者も、死んで次に生まれた人生では前世の行いの罪を今度の人生ではうんと苦しもうとするかもしれません。

自分にどのような未来が待ち受けているのか、というあらゆる”可能性”を人は考える必要があるのは、結局は誰のためでしょうか。
それはほかの誰でもなく、自分自身のために”可能性”というものをどこまでも考えつづける必要があるとわたしは想います。

これは殺生に賛成する人にも同じです。
死刑制度に賛成する人、戦争に賛成する人、中絶に賛成する人、自分が殺生に直接関わらなくても殺生を肯定するのは殺生を自ら行なっていることと変わりはないです。
賛成しつづけるということは自分に対して殺人罪を課しつづけていることと同じであるとわたしは危惧するのです。

利己的な殺人者は殺す(死刑に処する)べきだ、死ぬべきだと多くの人は言います。
でもそれは人間の生命の価値を分け隔てている考えです。
人間の命というものが同等であると想うなら人を殺した人の命も殺された人と同じほどに尊い価値であるので、殺すべき、死ぬべきだとは言えません。
命そのものに絶対的な価値を置いているからです。
どのような残酷な行為をしたからといって、”殺されるべき人間”はどこにもいないのです。

殺人者でさえ、生かされつづけています。どのような人間でも”生きる喜び”を感じることも”生きるつらさ”を感じることもできる権利があるのです。
それなのにお腹の中で何も知らずにすやすやと眠る胎児が”殺されるべき人間”であるはずもないのです。
20人以上殺した殺人者でも、一瞬の苦しみで死ねるようにと必死に人は処刑方法を工夫するのです。それなのに胎児は頭と胴体を引きちぎられるというような拷問の処刑方法のようなものを科されつづける必要は、あると想われますか?
それも一秒間に少なくとも一人の割合で。

この世に生まれでて、生きていくことというのはだいたいにおいて苦しくつらく、哀しいことのほうがずっと多いものです。
その中でも人は喜びを感じて、生命の尊さというものを感じる喜びを知って行きます。
生きていくのは苦労に満ちてさぞやつらいだろうからとわたしの母親がわたしを産んでいなければ、わたしという存在は今ここにこうして生きてはいません。

いろんなことを考えて、泣いたり笑ったり義憤に燃えて苦しんだり、すべてのわたしの存在というものだけが創りだし、また表現できる生命現象というもののすべてが、母親がわたしを産んでくれてなかったら存在しないのです。

わたしはここに存在しませんでした。

存在できなかった存在の無念さは、すこしでも想像しようとするとその無念の深さに気を失いそうなほどの哀しみを感じます。
その無念さのすべては、生きている存在すべてと繋がっているはずです。

それはひとつの底のない闇です。
無限につづいているような闇です。

そんな場所にたったひとり、胎児は置き去りにされているかもしれません。

わたしは命を懸けてでもそんな胎児が一人でもいるなら救いだしに行きます。

それは自分自身を救うことだからです。

その真っ暗闇の中で泣いているのは他の誰でもなく、自分の胎児だったときだからです。





生命の尊厳とはの記事にあとから追加した写真です。ここでも載せたいと想います。

手を胸の上でひっしと組んで眠るように死んでいる中絶胎児の写真です。
どんなせつなる願いと祈りがそこにあったのでしょう。

http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/o/otoneru/20170407/20170407143915_original.png?1491543633









魂とは。わたしは生命に義憤を覚える。

2017-04-08 20:27:26 | 生命の尊厳
いったい人間は、人間は、人間は・・・・・・どこまで自分自身に対して、都合の良い存在と成り果てつづけるのだろう。
俺は俺の言うことこそが正しいとは言わんけども、首が切断されるような感覚に痛むほどの義憤を覚えたので感情論を述べることにしよう。(酒を呑みながら)

前回の記事生命の尊厳とはから、中絶に関して調べつづけているが、都合の良い解釈が多すぎるあまり、俺がそれを受け容れる限界値に達してしまったようで、今の俺の目はたぶんギロギロしてると想う(人は苦しんで緊張が高まると目がギロついて瞳孔も開く)。

あんまりにも、自分を可愛がりすぎて、殺してしまった胎児の痛み苦しみ哀しみを軽んじているような解釈がネット上には多く見られる。

それはこういった解釈である。

・赤ちゃんはお母さんに堕ろされたことを今はもう苦しんではいない。
・赤ちゃんはお母さんと自分自身の成長の為にあえて自ら中絶されることを知って生まれてきたのだから、もう母親は自分を責めるのはやめて前向きに生きたほうが、赤ちゃんも喜ぶことだろう。
・お母さんがずっと中絶したことを苦しみつづけることを赤ちゃんは望んではいない。
・中絶された胎児が、「お母さんありがとう」とあの世からメッセージを送っている。
・自分が殺してしまった赤ちゃんのぶんも自分は幸せに生きなくてはと想う。
・胎児は痛覚がまだ発達していないから痛みは感じてはいない。


胎児が苦しんだか苦しんでないか、今も苦しみ続けているのか、苦しんではいないのかなど、胎児になって同じ経験をしてみるまではわからぬことではないか。
俺はこういう利己的な概念こそ、危険なカルト宗教的な概念に想わざるを得ない。

殺されるという苦しみを、痛みを、ほんのちょびっとでも想像できるなら、このような安易な解釈はとても出来得たものではないと想うのだが、何故このような解釈がはびこってきたか。

自分の罪を正当化する為に、もっとも良い解釈がなんでここまで広がっているかというのは、人間の命というものを軽く見るようになってきているからである。

人間だけではなく、生命一般を尊ぶことが難しくなってきているからである。
10代の娘が、望まざる妊娠をしたとしても親が必死に命の大切さがどれくらい大切なもんであるのかを教えられていたなら、娘は子を産むことを決意しただろう。
親が子に教えることのできる最も価値ある教えとは、命の大切さ、愛おしさ、ではないだろうか。


今、全世界では、毎年約4500万人、一日で11万人以上もの胎児が堕胎されていると言われている。
先ほどの解釈が世に広まれば広まるほど、中絶胎児が減っていくのならいい。
減っていってさえくれるのなら、どんな解釈でも広がってほしいと俺は想う。

でもどんな解釈であろうと、人一人殺して、人が幸福になる、平和に向かうという考えは俺は本当に狂っていると想う。
まるでオウム真理教かと想う。
ポアか、胎児と母親のために胎児をポアするのか。

たとえ胎児が自分と母親の成長のためにあえて中絶される胎児に転生してきたとしても、その胎児を殺してしまうことを選択するというのは、人一人を殺すこととなにも変わりがないことだ。

人工妊娠中絶(堕胎)、それは人を殺すという選択をとるということである。
胎児にどのような意図があろうと、どういった判断で子を堕ろすのかというのは母親の観念によって決めることである。

どのような理由があろうと、人を殺すという選択をとる人間が”正常”だと言えるのか。
否、正常よりは、”異常”だと想うなら、「おまえは異常だから、おまえの判断で中絶するなど、許せるものではないよ」と周りは言うだろうが、人を殺すと選択した母親を”正常者”であると見ている周りであるから、胎児が殺されることが”正常”な判断によってあたかも行なわれ続けているのがこの地獄絵図のような”現実”である。

本当に人を殺すことが正常だというのなら、今から5分後に、あなたは突然目のまえに現れたる異常者によって無残にも頭と手足などを引き千切られて命を奪われても、その異常者を”正常者”であると呼ばなくてはならないことになる。

これがどれだけ、狂気めいていることか、想像してもらえるだろうか。
でも”中絶”を肯定することとは、そういうことなのである。
胎児を殺しても自分が幸せに生きなくてはと想うということとは、誰かそこらへんにおる知らん人一人殺してもわたしは幸せに生きなければと想うことと同じことなのである。
これは根本的に、狂っている解釈であり、発狂者の解釈であり、こんな解釈が本当に世にまかり通るなら、世は殺人だらけの殺人合法の地獄的な世に成り果てるだろう。


なんで人一人殺して、自分は幸せにいきなくては、と想うのか。別に幸せに生きなくてもいいのではないのか。赤ちゃんが、ほんとうに自分と母親の成長のために中絶を望んだとするなら、それは苦しみからの成長のほか、なにがあるのだろう。
幸せに生きている人間とは、だいたい阿呆なものである。
自分の幸せが壊れることをどこかで恐れて過ごすようになるからである。
そして苦しいことがあるごとに、自分の殺してしまった赤ちゃんが幸せになるようにと祈っているのだから幸せにならねばと幸せを求め、ますます苦しむのなら、その苦しみは確かに良いものだと想う。

でも人が本当に、人一人殺さねば、幸せになれない(成長できない)というのなら、人が増えるほど、殺人も増えるだろう。
人生で本当に遣りたいことが見つかり、それを深めて生きたいと想った次の日殺されてしまったなら、また同じような人生を選んで転生してこなければならない。

人一人を殺さねば、本当に人が成長できないというのなら、誰一人、殺人というものを否定することはできなくなる。
自分自身、母親自身も、母親自身が、胎児を堕ろした次の日に殺されたとしても、それが自分と相手の成長のためなのだと納得して死んでいかねばならなくなる。

いずれも、いったい自分は何を信じるか、という話になる。
本当に胎児を殺さなくては自分と胎児の成長が在り得ないのだと信じて殺したことを肯定して前向きに生きるのか。

何を信ずるか。それは胎児自身もそうである。胎児は中絶の苦しみによって、自分と母親は成長するのだと信じて母胎内に転生してきた魂であるかもしれないが、それは胎児が信じている観念であって、それが宇宙の真の理というわけにはならない。

それこそが正しくて、ほかは間違ってるよ。ということには決してなるまい。

胎児がそう信じてお母さんのお腹の中に宿ったとしても、実際、拷問の苦しみと痛みと恐怖を感じて死んだかもしれないわけだ。


もう一度言うが、”幸せに生きている人間とは、だいたい阿呆なものである”

誰とは言わんが、例えばSNSかなんかに自分と恋人とのいちゃいちゃ写真を載せたりなんかして自分の幸福を見せびらかしつづけるような悪趣味な人間たちというものも典型的なアホな行いをしてしまっているのがお解かりであろう。
その人間存在自体が阿呆の塊だとは言うまい。人格性を否定はしまい。
しかしそのとき、その人間は確かに阿呆なのである。

幸せとは、人を阿呆にする。それは成長というよりか、堕落、退行と見える。
他人のいちゃいちゃしている写真を見たからって、よおし明日からも頑張るぞーなどと想って生きてはいけないのは人間である。すなわち他者を幸福にするよりも他者を哀しませる行為に幸福者たちはいともたやすく走りやすくなる。

”まずは幸せにならねば、苦しみを知ることもできまい”
その考えをわたしは否定しない。
では言わせて貰おう。胎児の幸せをあなた方(中絶に関係する者たち)はまず奪ったのである。

胎児の魂を成長させたいと本気で願うのであれば、まずは胎児の魂を幸福にする必要があると想えませんか。

ひとりひとりが、違う。だからこの世は素晴らしいのである。
なんでどの胎児も我と母親の成長の為に中絶を良しとしてるという解釈を安易によりにもよって母親が受け容れることをするのか。
胎児の魂だって、ひとりひとり、違う考えがあると考えるのが自然ではないだろうか。

自分を殺してしまった母親に対する言葉にもならないような複雑な感情を抱きつづけて苦しんで母親の傍にいる胎児の霊がいないとは言えない。
そのような胎児がいるのなら、どうすればその胎児は救われるのだろう。

一日に11万人近く堕胎されていて、その半数近くが苦しみつづけている胎児の霊であるかもしれない。

どこに焦点を合わせるか。
自分に置き換えて想像するのは難しいことであるが、わたしがまっさらな魂のような存在で、愛する母親に命以上に大切だとは想えない理由で殺された胎児であったなら、簡単に「自分とお母さんの為にこれでよかったんだよ」などとは言える境地には達することなどできないと想う。

・胎児は天使のような存在だから、けっして母親を恨んだりしないし悔しがったり無念を感じつづけて苦しんだり孤独でい続けることなどないよ。

実際そんな経験深い胎児だっているにはいるんだろう。でも全員の胎児がそうなんだというふうになんで言うのか。

ほんとうは哀しくてさびしくていつも泣いてばかりいるのにお母さんがそんな楽観的な観念でいて幸せにならなくてはと考えて過ごしていたなら、胎児は自分の気持ちを分かってもらえてないんだと想っていよいよ苦しいところでひとりぽっちで霊のまま生きつづけなくてはならないのかもしれないのである。

だから母親は特に、胎児の霊がほんとうは何を感じているのかと、あらゆる想像をしつづける必要があるのだとわたしは想う。

ひとりで部屋の隅っこに蹲って泣いてはいないだろうか?
天に昇るすべも持てずに、自分のことを哀しい目でいつも見つめてはいないだろうか?
今何を想っているのか、どう感じているのか、どこにいるのか、自分にできることはどういうことだろうか。

そういったことを考えることって、胎児のためにも幸せにならなくてはと考えることよりずっと”相手を知りたい”という願いがあるわけだから、それは愛を知るということであって、ただたんに幸せに前向きに生きることよりも大きな喜びに繋がるものではないだろうか。

”成長”というのは、言い方を変えると”本当に大きな喜び”に繋がるものである。
そして”本当に深い喜び”こそ、”幸せ”である。
胎児が望むものとは、ひとつ、それであるだろう。
安易な解釈で安易な幸福に浸かって喜んでいるような母親を胎児は望んでいるのか。
だとするならそれはそこまでの愛情と言える。

”胎児の愛は本当に深いから中絶しても許される”という御都合主義の利己主義な幻想が広まり、ますます中絶件数が多くならないことを切にわたしは祈る。

胎児は天使(神の子)であるからこそ、どのような理由があっても、産まなくてはならないとわたしは感じる。