誰ひとり、悪ではない。
だが罪というものは、人それぞれのその内にあるものである。
他人がそれを罪ということもできなければ、断罪することもできない。
それは、みずから下して初めて罪として成立するからである。
なぜかれが、苦しんでいるか。
愛を知ったからである。
ではなぜかれは、苦しんでいないのか。
そんなこと知るかあ。
愛を知るものは、苦しみと喜びである。
されど愛を知らぬものは、ひたすら苦しみである。
愛のない処に苦しみはなく。
苦しみのない処に愛もなし。
何が言いたいのかと言うとお。
すべてが苦しみであるが故に、愛である。
すべてが愛であるが故に、苦しみである。
苦しみでないなら愛ではな苦。
愛でないなら苦死身では泣く。
死ねば浄土へ向かうが。
浄土へ向かえば死ぬのである。
これが空の概念であるとおれは解釈しているう。
あいつを殺せば俺は死ぬが。
俺は死ねばあいつは殺されるのである。
俺がケンタッキーにゆけば。
ケンタッキーは爆破されるが。
ケンタッキーが俺にゆけば。
俺がケンタッキーを爆破するのである。
死ねば龍宮城へゆけるが。
龍宮城へゆけば死ぬのである。
バイタリティの枯渇に嘆くならば。
嘆きが枯渇をバイタリティするのである。
俺が間違ってるとゆうのなら。
誰も間違ってるから俺に間違ってるとはゆうな。
空が無を滅し、滅私が無を空のである。
死が生を滅し、滅私が死を生むである。
記憶の貯蔵庫を奄美から抱きし。
雨身の緒臓子を樹屋へと唾棄するのである。
実存を葬り去って愚痴を交わす小鳥たち。
それが実現できるならば宇宙をも滅ぼす。
そう言って、地獄のどん底に死んだやつ。
それがイエスである。
それがイエスである。
それはイエスである。
俺のなかに滅して生まれ堕ちる、一人の存在である。
だが罪というものは、人それぞれのその内にあるものである。
他人がそれを罪ということもできなければ、断罪することもできない。
それは、みずから下して初めて罪として成立するからである。
なぜかれが、苦しんでいるか。
愛を知ったからである。
ではなぜかれは、苦しんでいないのか。
そんなこと知るかあ。
愛を知るものは、苦しみと喜びである。
されど愛を知らぬものは、ひたすら苦しみである。
愛のない処に苦しみはなく。
苦しみのない処に愛もなし。
何が言いたいのかと言うとお。
すべてが苦しみであるが故に、愛である。
すべてが愛であるが故に、苦しみである。
苦しみでないなら愛ではな苦。
愛でないなら苦死身では泣く。
死ねば浄土へ向かうが。
浄土へ向かえば死ぬのである。
これが空の概念であるとおれは解釈しているう。
あいつを殺せば俺は死ぬが。
俺は死ねばあいつは殺されるのである。
俺がケンタッキーにゆけば。
ケンタッキーは爆破されるが。
ケンタッキーが俺にゆけば。
俺がケンタッキーを爆破するのである。
死ねば龍宮城へゆけるが。
龍宮城へゆけば死ぬのである。
バイタリティの枯渇に嘆くならば。
嘆きが枯渇をバイタリティするのである。
俺が間違ってるとゆうのなら。
誰も間違ってるから俺に間違ってるとはゆうな。
空が無を滅し、滅私が無を空のである。
死が生を滅し、滅私が死を生むである。
記憶の貯蔵庫を奄美から抱きし。
雨身の緒臓子を樹屋へと唾棄するのである。
実存を葬り去って愚痴を交わす小鳥たち。
それが実現できるならば宇宙をも滅ぼす。
そう言って、地獄のどん底に死んだやつ。
それがイエスである。
それがイエスである。
それはイエスである。
俺のなかに滅して生まれ堕ちる、一人の存在である。
お仕事がんばってはるんですね。新しいつらさを経験してスッキリしたということは、それまでのつらさを乗り越えているからかもしれませんね。
今までのつらさから、別の新しいつらさへと移行することは成長というものなんじゃないかと想います。
経験が増えていくことで心が豊かになって、感じる喜びも深まってゆくのだと想っています。
わたしは昔の自分のブログなんか読み返しても想いますが、ものすごくさびしくて空虚なところに生きていたんだなと感じます。でも当時はそこがわたしの生きる世界であって、その世界なりの喜びというものを感じて生きていたんですよね。
もっと遡ると小学生のときは人を殺しかけときながらへらへら笑ってるような子供だったんですよ。あの頃の喜びって憶えてないですが、多分ほとんど感じられてなかったんじゃないかと想いますね。
わたしのブログはかなり重苦しい記事も多いので、寝る前に読むとうなされないか心配ですが、いつも読みに来てくださって本当に感謝します。
夢の中でわたしはナオさんといろんなお話をしているのかもしれませんね。
般若心経のすべてが「空」を説いているようですね。
空は言わば人間のゴール地点だと想うんですよね。
ゴール地点がスタート地点なんですが、ゴールを「悟り」と言うなら、「悟り」に辿り着けばスタート地点に帰るわけですよね。
わたしの解釈なんですが、スタート地点に帰ることを悟りと言うのもどこかおかしいと想うんです。
それって悟ると言うよりも「すべてを想いだした」ということですよね。
自分のもともと居た場所ですから。
で、そこに人間は必死に辿り着こうとするけれども、辿り着いた瞬間にはまた同じように始めていくわけです。
だから「縁(円)」というわけですね。
すべての存在との関係である縁に依って(依存して)起こる、それが龍樹(ナーガールジュナ)の説いた「縁起」という空の概念じゃないかと。
円(縁)の中を廻っている、そこは生まれることも無ければ滅びることも無い、汚れることもなければ浄くなることもなく増えることも減ることも無いんだと。
さっき「経験が増えていく」とわたしは言いましたがこれも「空」でいうなら、それは増えているのではなく「変化(移行)」しているんだと言うわけですね。
空の概念(論理)は頭を悩ませる論理ですが、人間の凝り固まった観念をほぐしてゆけばなんとなく、ああそういうことなのかな、とわかる(想いだす)と想うんです。
龍樹は「実体(本質)がないこともなければ、実体(本質)があることもない」と言っています。生じる(在る)ことも滅する(無い)こともないとはそういう概念ですね。
だから人は、存在、生命、というのは「本質(実体)」にこだわる必要も無ければ、悟りに辿り着こうと躍起になる必要もないと想っています。
そこにこだわるのは本能的なものであって、それを見つけようとするより、もともと自分がそれであることを想いだせばいいんだと想います。
すべてに「同等」の価値があることを認めないでは「空」を理解することもできないと想います。
でも殺すことと、生かすこと、これに人が同等の価値を置くなら好きに殺してしまいますよね。人は「空」へは辿り着く(原点に戻る)必要は無いということだと想うのです。肉体(地上の生)を離れたら自然に戻るかもしれません。
仏陀も龍樹も言いたかったことは、だからすべてに「慈悲の想いを持ちなさい」ってことだとわたしは想います。そうすることですべての問題は解決すると。
それはキリスト教など他の教えもほとんど同じ教えですよね。
でも誰もが同じように生きればいいというわけではなく、すべてが自由に生きられるなら「多様化」を認めることが「慈悲」なんじゃないかと想います。
人が生きるのに苦しいものは尽きることがないですが、その苦しみ以上にすべてが幸福でいられるようにと祈り続けて生きるなら苦しみに耐えて生きていくことができますよね。そんな想いで生きなさいと聖者や賢者たちはみんな言ってるのだと想います。
また長くなってしまいごめんなさい。
そんなに喜んでいただけてわたしもとっても嬉しいです。
コメントが消えるとショックですよね。わたしは失敗しないようにいつも送信する前に一応全部コピーしています。
わたしの場合、昼過ぎに起きといて酒飲んで20時前には寝てまた昼まで寝てるという日も多いので、子供というかわたしは幼児ですよね。
ナオさんは全体の雰囲気が”少女”ですよね。
ナオさんがお孫さんを育ててきた様子を想像すると微笑ましいと言いますか、ちょうど42歳くらいの頃からですよね。うちの母がわたしを産んだのが40歳なのですが、やっぱり年行ってできた子供が一番可愛いみたいで可愛がられたようです。
わたしは母の記憶がなくて未だに母を恋しがっていますが、お孫さんは娘さんとナオさん二人もの母親がいるような感じじゃないですか。
それはそれで複雑なのかもしれませんが、自分だったら二人が自分を取り合っている様子を打ち眺めながら、二人に甘えまくって「ラッキーだ」と喜んでるのかもしれませんね。
実際、わたしが精神状態が危うかった時にわたしを兄と姉がどっちが引き取るかというのを互いに心配して取り合ってくれたことがあって、実に幸せな心地でした。
わたしは色々自分の解釈で考えることが好きなので正確に誰かの解釈を理解しているかどうかも分からないのですが、もし、誰か一人の解釈だけが真理で、それ以外全部間違ってるなら、そんなつまらないことってないと想うんですよ。
それにわたしはパンクで詭弁的なものとか大好きで、誰かが白と言い誰かは黒と言い、誰かは白でも黒でもない、と言うならわたしは青だと言いたい人間です。
真理って”理解”したと言った瞬間から理解できていないことになってしまうものなんです。
真理は実体であり本質であり、もともとそこに在り続ける不変なものですよね。
で、この”真理”を竜樹は「あって、ないものである」「あるし、ない」と言い切りました。(多分)
だから好きなんですよ。
だから竜樹に「あなたはほんとうに真理を理解したのか」と訊いたら「わかってるし、わかってないよ」と言うと想うんです。
何故なら龍樹の言ってる真理(空、縁起)っていうのはすべてとの相互依存関係の上に成り立ているものであって、不変なものではなく、すべてが変化するものだからですね。
でもそこにはすべてがその法則に依って起きるという不変の”在り方”が存在し続けています。
「真理」とは、「真理でないもの」との相互依存関係が在って、初めて「在る」ものです。
「真理(不変のもの)」が在るためには、変化していくものがそこにあって初めてそれが「不変」であることになります。
変化してゆくすべてが滅するならば、不変も同時に「ないもの」となってしまいます。
真理が真理でないものに必ず依存しているなら、なんで人は真理だけを尊ぶ必要があるでしょう?
真の仏教徒も、キリストも、わたしはそこを理解していると想います。
チベット僧も「すべてが変化し続けているということが真理であり、変化しないものはひとつとない」と言っています。
シルバーバーチは「わたしたちは永遠に真理に辿り着くことはできない」と言っています。
変化し続けるという不変にたどり着くには変化し続けなくてはなりません。変化し続けながら不変を経験することはできないですよね。
宇宙の視野ですべてを俯瞰してみるなら、今日泣いている人が明日には笑っていて、今日笑っている人は明日には笑っています。今日人を殺した人は明日には人を命懸けで救いだし、今日人を命懸けで救いだした人は明日には人を殺している様子が見えるはずです。
すべてが変化することを知るなら、自分は正しくて相手は間違っているという考えはなくなって、人の考え方、生き方を尊重しようと思えてきます。
すべてがすべてとの縁に依って成り立っているのだと知るなら、すべてに対して「御蔭様」という感謝の念が生まれて慈悲の心を持つことができるようになってきます。
すべてがすべてと依存し合っているので、そこには何が優れていて、何は劣っているという考えを持たなくなってきます。
ほんとうに苦しいときに人が救われる方法というのは、「利他」というものなんですね。
自分が苦しんででも相手を救いだそうとする真の気持ちによって、その人は真に救われるんです。
でもその気持ちは自然に沸き起こるものでないと救われることはないです。
自分が救われるためだけに人を救おうとしても救われないです。
ナオさん、お経を打ち棄てて、一日中本当に世界に苦しんでいる者たちに向けて祈り続けてください。
自分の念によって、自分の祈り、願いによって本当に他者を救いだすことができると信じられるようになってくるとき、初めて人は自分の力によって自分を救いだすことができるようになってきます。
人は苦しいときほど、自分と他者が救われることを強く祈り続けることができます。
だから苦しみ哀しみを恐れる必要はありません。
「今日笑っている人は明日には泣いています。」の間違いでした。
わたしも自分の言葉に深く、感動しています。(冗談です)
ナオさんがここまで感動してくださることにわたしは感無量で胸がいっぱいです。
他者から、「他者の為に祈ってください」と言われるのは確かに衝撃的だと想いますね。
でも「他者に向けて祈り続ける」ことのできる喜びは、「自分のためだけに祈り続ける」虚しさを知らないでは知ることのできない喜びなのではないかと想います。
ナオさんはトム・ヨークの奥さんが亡くなったことを知って心を痛めるほど共感して苦しむことのできるお人です。
そこにはトムやその子供たちの苦しみ哀しみを取り除いてやりたい、救いたいという想いが同時にあるはずです。
その想いが尊く美しい「慈悲」の心なのです。
「なんのために」と考える必要もありません。
「だれのために」と、そこにこだわる必要もないのです。
ただ、願い、人は祈りは届くと信じて祈りつづけます。
イエスは「(戸を)叩きつづけなさい。そうすれば開かれる」と言いました。
だから自分の今の想いが、慈悲であるか、慈悲でないかを探って悩むよりか、本当の願い、まことの祈りによって戸を叩き続けてください。
目の前にある戸を叩きつづけるのは、叩きつづければ必ず開くと信じているからです。
人は苦しいとき、他者の苦しみに最も共感できるものです。
そのときの祈りは切実なものになり、祈りつづけるということは、神の力(目に見えない力)を信じつづけるということですから、目には見えない存在に生かされているんだと感じられる喜びは本当に深い喜びです。
わたしたちはすべての存在に依って、生かされています。
「多様性」というものがあって初めて、生かされる存在です。
だから「すべてを赦し、すべてに感謝しなさい」と聖者はみな言います。
例えばわたしなんかは本当にキレると相手に罵詈雑言を浴びせたり、呪詛を吐いたりしてしまうのですが、ここで相手に向かって「すべてを赦し、すべてに感謝しなさい」と聖者風に言うとどつかれると想いますから、ここは素直に相手を傷つけてしまったことに対して謝罪の意を表すのがいいかもしれません。
ナオさん、これからもわたしと一緒にいろんなことを学んで行ってください。
よく晴れ渡った空のした、眩しい午後の光は青い海の白波をきらきらと煌(きら)めかせています。
白い砂浜で、わたしとナオさんは大きな砂のお城をつくり、その中央にトンネルを互いにちょっとずつ慎重に掘っています。
そして、やっと手が繋がったと想った瞬間、どこからともなく9匹の野良猫たちが猛烈な勢いで走ってきて、せっかくの砂のお城をワヤ(むちゃくちゃ)にしてしまいました。
挙句の果てに、3匹の子猫はそこを砂のトイレと勘違いして糞をして素知らぬ声で鳴いて去って行ってしまいました。
わたしは激憤し、ナオさんは泣いてしまいました。
そこに聖者風なお人がやってきて、こう言いました。
「すべてを赦し、すべてに感謝しなさい」
聖者は自分の言葉に感涙したあと、静かに去って行かれた。
わたしはナオさんの手を引き、言いました。
「今度はちょっとやそっとじゃ崩れないカッチンコッチンの馬鹿でっかいお城を造ろうよ!」
二人の少女は手を取り合って白い海辺を走って行きました。