この際言うが、俺は顔が好きだ。。。
俺は顔というものが、好きだ。。。
だから俺は顔を愛してると言って良いだろう。
俺は顔に翻弄されてきた。
しかしここで注意して戴かなくてはならないのが、俺は顔をさっぱり見ておらないということである。
俺は顔というものが好きなので、誰かしらの顔検索をよくする。
はあ、こんな顔か、なるほどなあ。とあらゆる顔画像を観て人を判断している。
ここにおいて、むかつくのが化粧というものである。
あれは確かに仮面なので、肝心の顔が見えないのである。
俺は化粧している顔を顔とは呼ばない。
あれは、モノである。
マネキンである。人形である。死体である。
あれは生きていない。まったく、生かされていない。
なにが生きていないのかというと、人間の情というかけがえのないものが、映りこまない。
人間の情というものが表(面、おもて)に現る、それが表情というものである。
人間は複雑な感情というものがあるからこそ素晴らしいと言えよう。
感情がないなら、死体である。
笑っていようが怒っていようが悲しんでいようが、その顔は最早情を映し込んでいるわけではない。
情を映していない顔は気持ち悪いのである。
だから俺は化粧には大反対だ。
人間の美しさとは繊細な情にこそある。
どんなに疲れきった俺みたいな顔でも、そこにある美しさを観ることの出来る人はいると信じたい?って誰に訊いてるねん。
いる人がいると信じているからこそ、俺は顔画像をUPしまくってるのではないだろうか?って誰に問うてるのか。
今、俺の好きな女優の菊池凜子の化粧写真と素顔写真を見比べていたが、やっぱり化粧は気持ち悪い。。。
なんか、女狐みたいや・・・
化粧というもの自体が俺は気持ち悪い。
化粧というものに拒否反応を示しています。
生理的に受け付けないといった次元でしょう。
ほんま気色悪い、こんな気色の悪いことのためになんで動物たちが実験台にされんければならぬのか?
Why?!
俺はそして化粧にも反対だが、同時に眉毛を弄るのも反対である。
眉毛というものも、人の情の微量な変化さえも映しだすことのできる部分であるからである。
俺はだからテレビというもんが、ほぼ化粧だらけな世界で気色悪いのもあってテレビはもう8年ほど観ていない。
あんな死体まがいの顔ばっかり何時間も見せられたら吐きそうになるだろう。
その代わり無化粧で俳優が演じる映画などは好きである。
顔というもんがなんで存在しているのか?
それは情というもんを映すために人間は顔というもんを持っているのである。
なんで情というもんを映す必要があるのか?
それは情を映さんければ相手が何考えてんのんか、さっぱりわからなくて気色が悪いからである。
情が見えるというのは、顔だけにあらず、言葉でも行為でもそれは同じであろう。
感情が表には出ない、という人もいると言われるが、俺はそれを信じてはいない。
それは感じ取れていないだけであって、感じないから「ない」とか浅はかな考察をして満足しているのであって、そんな人間はよっぽど浅ましいその感情を十分表に出せているんでっしゃろなあ?いヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ、ひいいいいいいいいっっっっ。
と、ちょっと俺の脳が可笑しくなってしまったが、気を取り直して顔についての考察論文を続けたい。
俺はとにかく顔を本当に愛しているからこそ、顔にほんとうに拘っていると言えるだろう。
自分の顔については、どうか、と言いますと、俺は男の人格性というものも持っているので、女の俺の自分の顔を観ると、犯したくなるほど可愛いなと想える時もあれば醜く想えて鬱になるときもある。
人に見せると感想は様々である。
いいなと想ったのは俺の写真を観て「不安になる顔」と言われたことである。
一方、俺の写真を見て「カピバラみたい笑」と言われたこともあるが、その意見は即、俺のなかで棄却された。
顔の感想に対する恨みは怖い。顔に関して何か嫌な感想を言われたとき、その怨念は言われた姿形となって言った者に死ぬ迄生霊となって取り憑くと俺がこないだ言っていた気がする。
だからカピバラ生霊があれからたぶんあいつにはわんさか憑いているだろうが、俺は知ったこっちゃないね。
カピバラが悪い。俺は断じて、無実のカピバラですよ。
話を戻すと、俺は俺の写真を見て「見ているとすごく不安になる」と言われたことが非常に面白いと感じたのである。
俺の顔は、俺の言葉以上に、相手に俺の闇を映せているのかもしれない。
俺の顔は、ある意味、ブラックホール的なものかもしれないな。
見る人によっては。
そう想えば想うほど、俺は自分の顔が気色悪くなり、気持ち悪くて吐きそうになりながら俺の自画像写真をネットにUPし続けることがやめられなくなってしまったのである。
何故か?
それは、愛するすべてを俺が吸い込みたいからですよ。
俺のこの、恐ろしい顔で。
俺はみんなが欲しいんです。
みんなの顔が、全員の顔が、全員のその多様性が、すべて、すべて、すべて俺のものにするためだけに俺は生きてきた。
これからも、生きてゆく。
みんなを愛している。
プライバシー問題?そんなものナイアガラ滝の上からの放尿と放屁と脱糞ですよ。
ほんとうにしょうもないって言ってるんですよ。
俺の、この、みんなが欲しい苦しくてたまらない切実な俺の感情に比べたらね。
みんなが欲しいのに、みんなが俺のモノにはならない。
そんな地獄が、無限に、無間に、続くんですよ。
やれんね。
雨、まだ降ってんのかな。
そう言って、俺は自分の顔面向けてライフル銃をぶっ放した。
俺の顔の原形は、どこにも見当たらなかった。
俺の死体の顔はそれでも、笑っていた。
俺は顔というものが、好きだ。。。
だから俺は顔を愛してると言って良いだろう。
俺は顔に翻弄されてきた。
しかしここで注意して戴かなくてはならないのが、俺は顔をさっぱり見ておらないということである。
俺は顔というものが好きなので、誰かしらの顔検索をよくする。
はあ、こんな顔か、なるほどなあ。とあらゆる顔画像を観て人を判断している。
ここにおいて、むかつくのが化粧というものである。
あれは確かに仮面なので、肝心の顔が見えないのである。
俺は化粧している顔を顔とは呼ばない。
あれは、モノである。
マネキンである。人形である。死体である。
あれは生きていない。まったく、生かされていない。
なにが生きていないのかというと、人間の情というかけがえのないものが、映りこまない。
人間の情というものが表(面、おもて)に現る、それが表情というものである。
人間は複雑な感情というものがあるからこそ素晴らしいと言えよう。
感情がないなら、死体である。
笑っていようが怒っていようが悲しんでいようが、その顔は最早情を映し込んでいるわけではない。
情を映していない顔は気持ち悪いのである。
だから俺は化粧には大反対だ。
人間の美しさとは繊細な情にこそある。
どんなに疲れきった俺みたいな顔でも、そこにある美しさを観ることの出来る人はいると信じたい?って誰に訊いてるねん。
いる人がいると信じているからこそ、俺は顔画像をUPしまくってるのではないだろうか?って誰に問うてるのか。
今、俺の好きな女優の菊池凜子の化粧写真と素顔写真を見比べていたが、やっぱり化粧は気持ち悪い。。。
なんか、女狐みたいや・・・
化粧というもの自体が俺は気持ち悪い。
化粧というものに拒否反応を示しています。
生理的に受け付けないといった次元でしょう。
ほんま気色悪い、こんな気色の悪いことのためになんで動物たちが実験台にされんければならぬのか?
Why?!
俺はそして化粧にも反対だが、同時に眉毛を弄るのも反対である。
眉毛というものも、人の情の微量な変化さえも映しだすことのできる部分であるからである。
俺はだからテレビというもんが、ほぼ化粧だらけな世界で気色悪いのもあってテレビはもう8年ほど観ていない。
あんな死体まがいの顔ばっかり何時間も見せられたら吐きそうになるだろう。
その代わり無化粧で俳優が演じる映画などは好きである。
顔というもんがなんで存在しているのか?
それは情というもんを映すために人間は顔というもんを持っているのである。
なんで情というもんを映す必要があるのか?
それは情を映さんければ相手が何考えてんのんか、さっぱりわからなくて気色が悪いからである。
情が見えるというのは、顔だけにあらず、言葉でも行為でもそれは同じであろう。
感情が表には出ない、という人もいると言われるが、俺はそれを信じてはいない。
それは感じ取れていないだけであって、感じないから「ない」とか浅はかな考察をして満足しているのであって、そんな人間はよっぽど浅ましいその感情を十分表に出せているんでっしゃろなあ?いヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ、ひいいいいいいいいっっっっ。
と、ちょっと俺の脳が可笑しくなってしまったが、気を取り直して顔についての考察論文を続けたい。
俺はとにかく顔を本当に愛しているからこそ、顔にほんとうに拘っていると言えるだろう。
自分の顔については、どうか、と言いますと、俺は男の人格性というものも持っているので、女の俺の自分の顔を観ると、犯したくなるほど可愛いなと想える時もあれば醜く想えて鬱になるときもある。
人に見せると感想は様々である。
いいなと想ったのは俺の写真を観て「不安になる顔」と言われたことである。
一方、俺の写真を見て「カピバラみたい笑」と言われたこともあるが、その意見は即、俺のなかで棄却された。
顔の感想に対する恨みは怖い。顔に関して何か嫌な感想を言われたとき、その怨念は言われた姿形となって言った者に死ぬ迄生霊となって取り憑くと俺がこないだ言っていた気がする。
だからカピバラ生霊があれからたぶんあいつにはわんさか憑いているだろうが、俺は知ったこっちゃないね。
カピバラが悪い。俺は断じて、無実のカピバラですよ。
話を戻すと、俺は俺の写真を見て「見ているとすごく不安になる」と言われたことが非常に面白いと感じたのである。
俺の顔は、俺の言葉以上に、相手に俺の闇を映せているのかもしれない。
俺の顔は、ある意味、ブラックホール的なものかもしれないな。
見る人によっては。
そう想えば想うほど、俺は自分の顔が気色悪くなり、気持ち悪くて吐きそうになりながら俺の自画像写真をネットにUPし続けることがやめられなくなってしまったのである。
何故か?
それは、愛するすべてを俺が吸い込みたいからですよ。
俺のこの、恐ろしい顔で。
俺はみんなが欲しいんです。
みんなの顔が、全員の顔が、全員のその多様性が、すべて、すべて、すべて俺のものにするためだけに俺は生きてきた。
これからも、生きてゆく。
みんなを愛している。
プライバシー問題?そんなものナイアガラ滝の上からの放尿と放屁と脱糞ですよ。
ほんとうにしょうもないって言ってるんですよ。
俺の、この、みんなが欲しい苦しくてたまらない切実な俺の感情に比べたらね。
みんなが欲しいのに、みんなが俺のモノにはならない。
そんな地獄が、無限に、無間に、続くんですよ。
やれんね。
雨、まだ降ってんのかな。
そう言って、俺は自分の顔面向けてライフル銃をぶっ放した。
俺の顔の原形は、どこにも見当たらなかった。
俺の死体の顔はそれでも、笑っていた。