摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

横見神社(よこみじんじゃ:比企郡吉見町御所)~ポンポン山の高負彦根神社など式内社が集まる出雲系の血が濃い地

2023年04月08日 | 関東

 

横見神社を始めとするこの吉見丘陵周辺の式内社群は、いずれも今は地域の人々の信仰に支えられている風の小さな神社なのですが、岡本雅亨氏の「出雲を原郷とする人たち」でのこの地域の話を読んで、気になっていました。そして何より、その一つの高負彦根神社とポンポン山は、高槻市在住の人間としてどうしても参拝しておきたいと思っていました。電車で訪問しましたが、いずれの神社もバス停からそれなりに距離が有るので、往きはやむなくタクシーを使いました。吉見丘陵の東側に広がる農地は、大阪ではなかなか見られない風景で、気候の良い季節に気持ちよく歩くことが出来ました。

 

横見神社(御所) 境内

 

【ご祭神・ご由緒】

横見神社のご祭神は、須佐之男命と櫛稲田姫命を祀るとされると、「出雲を原郷とする人たち」でも岡本雅亨氏が書かれていましたが、「日本の神々 関東」で荒竹清光氏は、その当時の説として海童(ワダツミ)神、倉稲魂(ウカノミタマ)、素戔嗚命などが考えられているが、詳細は不明とされていました。

 

横見神社(御所) 拝殿。戸はサッシで近代的

 

南の久保田にも横見神社が鎮座しますが、そちらは建長年間(1249~1256年)に起きた大洪水で御所の横見神社が流され、当時の窪田村に漂着したご神体を祀ったのが始まりと伝えられています。「和名抄」に、゛「横見」は今「吉見」と称す゛とあり、「吉見」の元が「横見」である事がわかります。

 

横見神社(御所) 本殿

 

【社殿、境内】

当社境内やその周辺にはかつて小規模ながら古墳群があったようで、現在でも鳥居の脇に二段築造の小円墳が残ります。また当社本殿も古墳の上に鎮座しており、前面に露出する石は横穴式石室の一部だと考えられています。

 

横見神社(御所) 本殿前側の石段

【記録に残る当地有力氏族】

「日本書紀」安閑天皇条の「横渟屯倉」が、明治まであった当地旧名称の「横見郡」につながったとみられていますが、その安閑紀では武蔵国造の座をめぐって同族の笠原直使主と小杵が争い、結局は天皇に助けを求めた使主が勝ち、四カ所を屯倉として天皇の献上した話があります。それらの四つの屯倉が、「和名抄」の横見、橘樹、多磨、久良の四郡にあたるようです。

 

横見神社(御所) 本殿背面。古墳らしい高まりが見られます

 

先の荒竹氏が引用された金井塚良一氏に説では、「続日本後記」承和九年(842年)の条に゛武蔵国男衾郡大領壬生吉志福正゛が13才と19才の子供が65才になるまでの税を前納したり、その三年後に、焼失した武蔵国分寺の七重塔を再建したいと申し出て許されたなどと有る事から、横渟屯倉の管理者を、難波吉士を本源とする「壬生吉志」だと特定されています。そして、当地の丘陵一帯に分布する横穴式石室墳をその奥都城と考えられていました。

 

横見神社(久保田) 拝殿

 

吉見丘陵東部一帯には、古代の須恵器窯跡が無数にあり、さらに武蔵国分寺出土のものと瓦の残片が多量に出土し、その瓦には武蔵国の各郡名がヘラ書きされていることから、この地は古代の焼き物の中心地であった可能性があります。荒竹氏はこうした土器類の生産も、壬生吉志氏の繁栄の一つの背景となった事は間違いないと述べています。「吉士」は新羅の冠位でもあり、古代には難波吉士をはじめ多胡吉士、飛鳥部吉士、三宅吉士などが、いずれも屯倉と関係して記録に現れます。ただ、横見神社と吉志集団の関係は、記録・伝承の上はまったく不明なようです。

 

横見神社(久保田) 拝殿と覆殿。本殿は覆殿の中で、県指定の建造物になっています

 

【吉見丘陵に密集するその他の式内社】

古文献等からは上記のとおり朝鮮系の影響が見てとれるようですが、地元ではまた違った話が語られているようです。このかつての横見郡は三郷の小さな郡ですが、当社を含めて近くに式内社が三社集まっています。一つが、入間郡の出雲伊波比神社、男衾郡の出雲乃伊波比神社とともに武蔵国出雲イワイ系神社とされる伊波比神社です。そしてもう一つが高負彦根神社で、これら全てが出雲系と考えられ注目されてきたと、「出雲を原郷とする人たち」で岡本雅亨氏が書かれています。さらに岡本氏は、゛古代この地が出雲系の勢力下に有った事はあきらか゛゛住民には出雲系の血が濃く、生活文化の伝統にも大和と異質のものが強く流れていた゛という「吉見町史」の説明も紹介されています。公式な町史でここまで表現するとは、相当に強い確信があると感じます。

 

伊波比神社 入口鳥居

 

高負彦根神社の鎮座地、玉鉾山の通称は「ポンポン山」と呼ばれています。社殿後方にある頂上付近の地面を強く踏み鳴らすとポンポンと響く事からそう呼ばれたらしく、「武蔵国風土記稿」にも゛鼓のように響く玉鉾石゛と出てくるようです。神社名は、「和名抄」が記す゛高生゛から来ていて、今の字名゛田甲゛は転訛したものとみられます。大阪の高槻市にもハイキング。コースとして有名な山になるポンポン山がありますが、その語源については同じような説明です。ポンポン山という地名は、ザっと調べた程度ですが、後は北海道くらいしか出てきません。

当社西側の吉見丘陵は、海抜40~80メートル程度と低く平らで、八丁湖などの沼地が丘陵下の水田を潤してきました。その八丁湖付近には、古墳時代後期の黒岩横穴墓群や茶臼山古墳などの遺跡があります。そして、丘陵の南西側にも吉見百穴があるのです。

 

伊波比神社 境内。吉見丘陵の麓にあり、こんもりと良い雰囲気の空間でした

 

【吉見の百穴(ひゃくあな)】

吉見町で最も有名な観光史跡とえいるのが、吉見丘陵の西側にある吉見百穴です。古墳時代後期~終末期に、吉見丘陵の岩山斜面に造られた横穴墓群です。明治20年の発掘時点では237基存在していましたが、先の戦争時の地下軍需工場の建設で一部が破壊され、現在は219基になっています。横穴墓は、棺を納める奥の広い部屋である玄室と、入口から玄室に至る細長い通路である羨道からなります。吉見百穴を研究してきた池上悟氏によれば、その初期型は玄室が方形で、左右の側壁沿いに縁取りされた二つの棺座を敷設し、それに対し直角に羨道が付くことが特徴で、出雲意宇型に系譜をもつ出雲系横穴墓だとされています。

 

吉見百穴。軍需工場入口の大きな穴も有りますが、この方向からは見えません

 

5世紀後半に北部九州で出現した横穴墓が6世紀半ばに出雲に伝搬し、出雲の横穴式石室構造を応用した横穴墓が6世紀後半にさらに東方へ伝播したとされています。これは、東海から南関東にかけて畿内・河内系横穴墓が分布する中で、北武蔵の吉見百穴が出雲系なのは異彩を放つと池上氏は考えられていると、岡本氏が先の本で紹介されていました。なお、現地での掲示説明(かなり以前のものでしょう)では、棺座が一つのものや無いもの、また複数でもいろんな位置のものがあり、玄室には7種類の配置がある事や、玄室の形もさまざまだと説明されており、一部の内部を見学できるものでもそれらが確認できました。

 

一番上まで登れて、一部の穴は中に入れます

 

この付近には、山陰もしくは北陸系の土器(五領遺跡、東松山市代正寺遺跡)や、関東では珍しい玉作工房跡が検出(反町遺跡、前原遺跡)された、いずれも古墳時代前期の遺跡が発見されているようです。これらより、武蔵北部には、4,6,7世紀、確実に出雲からの人と分化が存在していたと考えられています。

 

出雲系横穴墓と思しき穴内部

 

【「高負彦」伝承とポンポン山】

高槻市による「高槻市史」には、「和名抄」の島上郡に五郷が載り、おそらくこれは8世紀ごろも同じだっただろうとしています。その五郷とは、濃味、児屋、真上、服部、高上なのですが、高上郷については奈良時代の文章に゛高於郷゛と書かれ、位置的には島下郡(およそ茨木市)との郡界近くに求めることができ、現在の氷室、奈佐原の地であろうか、と述べられています。一方、東出雲王国伝承を語る勝友彦氏は「親魏倭王の都」で、奈佐原にある阿武山(阿武山古墳がある)の所在地は、゛高生郷゛だったと書かれています。

 

高負彦根神社 入口鳥居

 

勝氏は、阿倍氏の祖、大彦が2世紀末頃の高生郷に住んでいて、ここに居たときに東出雲王国に支援を求めに赴いたと書かれています。大彦は当時の初期大和勢力(東征勢力前)のいわゆる皇太子にあたるような存在であり、その初期大和勢力は東出雲王家の血筋がつながる親戚だからです。大彦はその後、近江~北陸へと移動していきましたが、勝氏の語る伝承によると、阿倍氏の中にはその高生郷で生まれた人がいたらしく、彼は郷名の「タカウ」の字を変えて、「高負彦」と名乗ったといいます。その人は東国に移住してそこで亡くなり、その名残として武蔵国横見郡の高負彦(根)神社の名を出されていました。ただ、高負彦がいつの時代の人かは触れられていません。出雲伝承が語る、3~4世紀の出雲軍の東国遠征の時期なのでしょうか。

 

高負彦根神社 拝殿

高負彦根神社 拝殿と本殿。平成の時代の改築

 

ここでやはり気になるのが、吉見町の高負比古神社の鎮座地「ポンポン山」と、高槻市と京都府の境の山「ポンポン山」です。前者は地方の小神社の鎮座地で御神体、後者は地域ではそこそこ有名なハイキングコースで、それぞれローカルな地名でありあまり共通性もないので、対比して語られることもないように見受けられます。ただ、今は忘れられてしまったけれども、もしかして大昔、高槻市から吉見町に移住した人たちの痕跡なのかもしれないと思うと、ロマンチックな気分になります。

 

本殿すぐ後ろのポンポン山。岩山です。絶景が堪能できます

吉見丘陵(右)と広がる農地

 

(参考文献:吉見町公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 関東」、三浦正幸「神社の本殿」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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