摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

最近の今城塚古墳 (継体天皇陵、いましろ大王の杜)

2018年10月29日 | 高槻近郊・東摂津


●今城塚古墳が全国の古墳ランキングで1位になり、講演会が催されました
●「その2」として、墳丘内を散策した様子もコチラに記事にしてます


今城塚古代歴史館での講演会聴講の機会に、久々に今城塚古墳の方に
足を向けてみました。2011年に公園として整備して直後の、子供が
まだ小さかったとき以来です。その時は、しっかり子供を水鳥や
馬の埴輪のレプリカに乗っけましたね。



はにわバルコニーから後円側を望む

今となっては、Googleマップにも明記されるほど、第26代、継体
天皇陵として一般に認知される、北摂屈指の前方後円墳です。ただし、
宮内庁が同天皇の陵墓としているのは、西にある茨木市の太田茶臼山
古墳
。でも、昭和61年に、太田茶臼山古墳の外提の内側から5世紀
中葉の円筒埴輪が発見されてたり、墳墓の建築規格も誉田山古墳等と
同じと判断されてたりで、6世紀初頭に亡くなった継体帝の陵墓と考
える人はいません。

古墳の比定は、平安時代の「延喜式」の記述を頼りにする事が多いよう
ですが、そこでも所在地として今城塚古墳のある"嶋上郡"と記載され
ていて、"嶋下郡"にある太田茶臼山ではないはず。嶋上・下の条理制
が整備されたのは奈良時代末期だから、「延喜式」の記述の精度は
問題ないとされています。


後円側の内濠は芝生公園に。墳丘にも入れます

ではなぜ太田茶臼山が継体陵と言われるようになったのかというと、
江戸時代の事らしいです。17世紀末に、松下林見が「前王廟陵記」
に、"嶋上と嶋下の界で太田村にある"としたことが始まりのよう。
今城塚の地は戦国時代に三好長慶が城として利用しており、それが
名前の由来にもなっているのですが、どうも、江戸時代には荒れすさん
でいたことから継体帝とするに忍びなかったのでは、と「天皇陵の
謎」で矢澤高太郎氏は述べられています。確かに最近まで、畑が有
ったり、墳墓は雑木林のようだったのをかすかに記憶してます。


はにわバルコニーから前方側を望む

1997年から高槻市によって発掘調査が進められ、真の大王墓の発掘
ならではの多くの成果が得られましたが、あの形象埴輪の祭祀場と
並んで特筆すべきが、2007年の横穴式石室の基礎となる石組み遺構
の発掘でした。これほど大規模で、しかも大王墓級の前方後円墳で
は初でした。現在は歪んで崩れていますが、それが1596年の慶長
伏見地震による事も解明されています。

しかし、先の「天皇陵の謎」でも述べられていますが、肝心の石室
について、破片は確認されたものの、構成している石が全く出てい
ない事が、残った謎でした。持ち出されるなんてあり得るのか??
と言われていたのです。それが2016年になって、確かに持ち出され
ていたことが判明しました。

今城塚古墳から西に800mほどの観音寺跡で直方体のピンク石が石碑の
ごとく祀られているのが発見されたのです。発見の経緯は高槻市のホ
ームページ
に詳しいですが、元々は石橋として使われていたが、おば
さん達がしょっちゅう足を滑らせて怪我するので、運び出した古墳の
祟りだろうと観音寺横に祀ったのが昭和30年ころだ、と伝承されて
いたようです。やはり"伝承"は侮れないですね。。。



内堤北側に再現された祭祀場

もう一方の大きな成果である、形象埴輪の祭祀場は、現在レプリカ
埴輪を使って北側内提張り出し部に、造成当初の様相で配置されて
います。これは大王亡き後、殯宮における諸儀礼の場面を表している
と考えられており、人物、動物、宮殿、そして奈良・平安時代に至る
まで儀式の威容を整える為に陳列された"威儀物"等を模擬した埴輪
が塀形埴輪によって4区画に区切られて並んでいるのです。


1~3区は近寄れません

ただ、まとまって発掘されたとはいえ、各埴輪の位置が簡単に分かる
わけではないそう。年月の経過により倒壊して破片になるのはもち
ろんですが、この張り出し部の北辺は崩落して埴輪が転落していた
り、上面でも東西及び南北方向に溝状の攪乱があり、その部分の
埴輪は失われています。また人為的に移動されてる物もあるのです。
そんな中で、配置を精度よく解明するために、接合関係の確認と出
土位置・層位の調査が現在でも継続されているようです。

200体以上と言われる埴輪の中で、巫女埴輪について触れておき
ます。人物埴輪の中で12体と最も多いですが、土台の円筒基台か
ら体部まで一連で復元できたのは1体だけです。あとは円筒基台
が6体出土しており位置が確認できてます。今城塚の巫女は両脚ま
で表現していますが、全国で見つかった他の同様な4例とは異なり、
女性器は表現されていません。




継体帝にまつわる興味深い古伝がありますが、また機会を改め
たいと思います。

(参考文献:「天皇陵の謎」矢澤高太郎氏、今城塚古代歴史館
 祭祀場埴輪関連企画展図録)


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