摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

溝咋神社(茨木市五十鈴町) ~神武天皇の皇后を祀る社と関連する伝承~

2018年11月17日 | 高槻近郊・東摂津

★ここでの写真は2017年に撮影したもので、大阪北部地震の前です。
 2019年、大阪北部地震の後に訪れた時の記事も掲載しました

 

茨木市五十鈴町の住宅街の中にひっそりと鎮座する、古代史好きは気に
なって仕方のない神社です。もちろん延喜式神名帳に記載のある
式内社。住宅密集地のど真ん中なのに、この参道の長さは特筆です。




まずこの神社の主要なご祭神を記載します。

主祭神
・玉櫛媛命 (タマクシヒメ)
・媛蹈鞴五十鈴媛命 (ヒメタタライスズヒメ)

相殿神
・溝咋耳命 (ミゾクイミミ)
・天日方奇日方命 (アメノヒカタクシヒカタ)

摂社 事代主神社
・事代主命


記紀に、蹈鞴五十鈴媛が初代神武天皇の后となったことが記されて
いて、その祖父の溝咋耳、母の玉櫛媛、そして兄弟の奇日方らの溝咋
一族を祀った古社と理解されています。また、玉櫛媛は、記紀や先代
旧事本記などでは別名でも呼ばれていますね。以下はすべて同じ御方
です(古代の人は実名を使うことは無く、一人で複数の名を持つ事
が珍しくない事は、古代史研究者の方々もよく説かれています)。

- 三島溝咋姫
- 勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)
- 活玉依毘売(イクタマヨリビメ)

そして、この姫の夫が、大物主であるとか、或いは事代主である等
と記紀などに記されていて、それぞれの夫婦の神話めいた話が語ら
れているのです。



大元出版本
の出雲古伝では明確に主張されています。つまり、玉櫛媛

は摂津三島の溝咋耳の元から、東出雲王国の富氏・事代主命に輿入れ
されました。しかし、事代主を失った後、息子の奇日方、娘の蹈鞴五
十鈴媛、そしてもう一人の娘、五十鈴依姫らを伴って、摂津三島に帰
ったというのです。その地に、登美の里の地名が付いたとされていて、
その場所は上宮天満宮が説明している地と思われます。

この時、大勢の出雲人も同行したので、三島は東出雲王家、富氏の領土
のようになったと言います。紀元前3世紀末頃の事のようです(出雲人
の高槻移住状況については、阿久刀神社の記事で思いをめぐらせてみま
した)。

さらに奇日方の発案で、この一行が三島の人も連れて奈良の方へ移動し
たのが、後の大和朝廷につながるヤマトのクニの始まりとなりました。
最初に落ち着いた地は現在の葛城地域。そこで、父、事代主を祀る鴨都
波神社
を建てましたが、しばらくして磯城地域(纏向~三輪あたり)に
移りました
。この奇日方が、先日の「登美の里」の記事で記しました、

登美氏の始祖となります。当時はトビと呼んだそうです。奇日方の何代
か後には、あの太田田根子が現れ、さらに後には、賀茂氏、大三輪氏へ
と続いていったと云います。

溝咋神社は、現在の登美の里の2km程南に位置していますが、古伝
では触れられておらず、これらの関係はわかりません。安威川をはさ
んだ東側に「溝咋遺跡」が発掘されており、弥生時代後期~古墳時代の
画期が確認されています。特に古墳時代前期の集落からは、関東、瀬戸
内、播磨、近江、河内などの土器が見られ、ここが物資の集積地だった
事がわかるそうです。この時期に社も現れたのなら、社伝の"崇神天
皇の頃に創建"との表現は合っているという事になりますね。



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