摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

宇佐神宮(宇佐八幡)2:上宮、菱形池 ~ 二之御殿下の卑弥呼の石棺伝承と誉田天皇の御霊水 ~

2019年10月12日 | 九州


先の”1”の記事で記載しました通り、神仏習合の元祖として歴史の表舞台に躍り出た宇佐神宮がいわゆる邪馬台国の中心地で、二之御殿のご祭神、比売大神は卑弥呼の事だとする説。奈良時代の有名な託宣を下したのが、女禰宜つまり女性シャーマンだった事も有名な事から、とても魅力あふれる説と言えるでしょう。宇佐公康氏によると、確かに二之御殿の下に石棺が有る事が確認されているようです。


・上宮境内

 

【二之御殿の石棺】

宇佐氏は著書「古伝が語る古代史」に、先代からの話として紹介されています。上宮の3つの本殿は一応横一列に並んでいるのですが、二之御殿となる真ん中の御殿のヒサシだけがひっこんでいて、そのかわりに申殿と呼ばれる拝殿のヒサシが、そのひっこんだ部分に割り込んだような形になっています。


・左側の一之御殿前から中央の二之御殿を拝見した図。

 

これには重大な言われがあって、古来、33年毎の式年造営にあたっては、「二之御殿の位置を動かすことは絶対にまかりならぬ」と口伝されてきたそうです。二之御殿の真下には御量石(みはかりいし)と呼ぶ、世の好不況で浮き沈みするとされる石があり、この石を中心に二之御殿が建てられているからです。そして、言うまでもなくこの御量石が、石棺の蓋石ということです。

 

1916から1918年にかけて当時の内務省による本殿改築工事が実施され、その神社局営繕課の角南技師という方が指揮監督にあたりました。その際、「三殿のヒサシが乱杭歯のようになっていては体裁が悪い」とヒサシを一様に並べる為に2m下げる設計をされました。


・百段。通行禁止です

 

対して当時の宮司、公康氏の父は口伝を楯に反対。一方、角南技師は口伝など信用せず、意見が対立してしまいました。そこで本当に御量石があるのか、旧御殿を取り壊し、真下を掘って調査する事にしました。すると、1mほど掘ると、かちんと音がして平らな石に掘り当たったのです。角南技師は「もうよい。わかった」と調査を中止、三殿の改修工事は原形を復元して完成したのです。

 

【宇佐家古伝での卑弥呼】

宇佐公康氏は、ここに埋葬されたのは卑弥呼ではない、とハッキリ否定されてます。そしてここは、宇佐氏の先祖、宇佐稚屋命またの名、宇佐津臣命の墳墓だとします。さらに、この御方の父上と御子が宇佐家伝承のポイントで個性的な所になります。つまり宇佐稚屋命は、(天種子命でなく)神武天皇と兎狭津姫の間の子であり、そして応神天皇の父だというのです。


・おめでたいご婚約カップルの写真撮影に遭遇。凄く暑い中ご苦労様です

 

宇佐家古伝では、神武天皇は実在するが、景行天皇の弟であり、系譜上もその位置にいた人だとします。日向から北上し、宇佐に来た時に、当時の服従の印として菟狭津彦から菟狭津姫を差し出されます。姫と東征を続けますが、安芸国(広島県安芸郡)で志半ばで病気で亡くなられたそうです。姫も先に亡くなられており、お二人は宮島町厳島の山上の岩屋に葬られました。そのお二人の宇佐での御子が、二之御殿の下に埋葬されているというのが宇佐家古伝の主張なのです。東征の時期は、和国を統一する志のものなので、ヤマト大乱の2世紀後半だと宇佐公康氏は推定します。そして、安芸国で神武天皇と菟狭津姫との間に生まれた別の御子、御緒別命の子か孫がヒミコであり、安芸国が邪馬台国だったとの説明でした。


東出雲王国伝承では、二之御殿の埋葬者について、ここには日向王国の東征勢力と連合した、豊国の姫巫女も祀られていると云います。その姫巫女は当初、東征を率いるも安芸国で病気になり亡くなります。遺骨は宇佐に戻され、奥山(御許山)に墳墓が造られたらしいです。となると、ほとんどの人が見た事がない事になります。そして、二之御殿創建時に遺骨の一部が遷されたとの説明になってます。

 

この姫巫女が、その後ヤマトに東征したトヨ(豊鋤入姫、真の名は豊来入姫)の母です。宇佐氏の姫であり、宗像氏から輿入れされた御方との話も有ります。お名前も特定されていますが、「古事記の編集室」「出雲と蘇我王国」「親魏倭王の都」などで確認いただくのが良いでしょう。


・上宮から菱形池へはこの階段を降りました。降りて見上げた図

 

【宇佐家古伝での宇佐八幡神】

そして、一之御殿。「延喜式」神名帳では八幡大菩薩宇佐宮、現在は応神天皇がご祭神とされています。「古伝が語る古代史」の記載は、844年の「八幡宇佐宮弥勒寺建立縁起」と1313年の「八幡宇佐宮御託宣集」を元にします。6世紀中頃、豊前国宇佐郡菱形池の付近に大神比義という神異の翁がいて、3年のあいだ殻を断って精進潔斎し、霊水の湧き出るこの菱形池のほとりに忌み籠って一心不乱に祈念していると、欽明天皇の32年(571年)「われはこれ、護国霊験威力神通大自在王菩薩、我が名は誉田天皇広幡八幡麻呂なり」と託宣して、竹の葉の上に立つ3歳の童子の姿となって現れた、というご由緒が元になっているようです。神社の公式Webでもこの話が記載されていますね。


・御霊水。頂けますが飲めない、と但し書きがあります

 

この誉田天皇の母上が、三之御殿に祀られる神功皇后だということになるのですが、宇佐家古伝ではそうはならないのです。宇佐家古伝においては、竹の葉の上に立った誉田天皇は神功皇后とあの武内宿祢の不義密通で生まれ、”4歳”で早世したというのです。そして真の応神天皇は、上記の通り宇佐稚屋命の子、またの名、宇佐押人命であると主張しています。


・菱形池

 

ここで一つ、東出雲伝承と一致する内容があります。神功皇后と武内宿祢(実際はその子孫)の間に生まれた実の御子が、早世している事です。


宇佐家古伝は、正直ちょっと理解しにくい所があるのですが、次回、その宇佐家古伝が主張する古代天皇系譜や対する出雲伝承との比較、そして亀山古墳説に触れたいと思います。


コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 今城塚古墳 が全国古墳ランキ... | トップ |  宇佐神宮(宇佐八幡)3:下... »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (ぴろしき)
2020-09-18 22:01:04
宇佐神宮では女性の神がいるため、カップルで行く時は鳥居の横を通らなければ別れると祖母から教わっていました。
地元では結構有名な話でして、祖母に昔誰から聞いたか興味本位で尋ねたところ、祖母が子供の頃、祖父に聞いたと言っていたので、卑弥呼でないにしても女性の神がいると言うのは本当でしょうね。
返信する

九州」カテゴリの最新記事