摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

百舌鳥古墳群散策1 ~和泉に出現した大山古墳(仁徳天皇陵)など巨大古墳群造営の謎~

2018年12月22日 | 大阪・南摂津・和泉・河内


だいぶ前、春のいい天気の日に、百舌鳥古墳群を歩いて廻りました。
その時の写真を中心に、2回に分けて記事にさせていただきます。
古市古墳群と共に、世界文化遺産の国内推薦が決定し俄然注目が
集まっているのが古代史ファンにはうれしいところ。ただ、午後から
堺博物館見学も含めて散策したので、古墳巡りとしては、大山古墳、
いたすけ古墳、そして御廟山古墳だけです。。。


まずは、南海高野線、堺東駅から徒歩で堺市役所へ。このビルの21
階が展望ロビーとして休日も無料開放されているのです。とにも
かくにも、南方向、大山古墳(仁徳天皇陵)とミサンザイ古墳(履中
天皇陵)方面が必見。ただ、やはりこの高さでは前方後円墳の形はわ
かりません。なお、この両古墳の間にある大仙公園の中にある塔は、
先の戦争で亡くなられた方々を慰霊する平和塔で、展望塔ではありま
せん。



右の遠い方のミサンザイ古墳は、3段の墳丘構造で、長さ365m、
前方部幅235mの全国でも3位の大古墳です。一見、西側だけしか
造り出しが見えませんが、濠の水位が下がれば東側にも確認できます。
1600年余り前の築造時の墳丘がよく保たれていて、「土の企画美」
として高く評価されています。大山古墳より前の5世紀初期の築造で
あることが確認されていて、靭(ゆき)形や家形の大型の形象埴輪が
出土したことが特筆されています。特に靭形は高さ1.4mもある超
大型と言えるものです。埋葬施設の構造や副葬品は分かっていません。


北方向は、大阪市内のビル群が見えます。一番高く目立つのが、あ
べのハルカス。無料でこの景観は、なかなかお得と思います。




東側が、田出井山古墳(反正天皇陵)。こちらは長さ148m、前方部
幅110mと大王墓比定にしては小ぶりな古墳です。濠内から築造当時
の円筒埴輪や形象埴輪が出土し、これらから5世紀中頃の築造と考えら
れています。やはり埋葬施設の構造や副葬品は、陵墓ということもあり
分かっていません。堺市役所からは一番近いですが、見え方はこんもり
とした小山という感じまでで、美しい形状まではわかりません。それを
見たかったら、ヘリコプターのツアーで見るしかないですね。それでも、
”倭の五王”の初期3王の陵墓とされる古墳群を眼下に眺めることので
きるこの展望ロビーは必見と思います。



世界文化遺産推進室が出しているウォーキング・マップでは、この
堺市役所から線路を渡って反正陵を見て、写真で陵墓の向こうに
見えるけやき通りを通って、仁徳陵へ向かうコースを薦めていま
したが、この時は時間を考えて、涙を呑んで反正陵はパスし、竹内
街道を通って仁徳陵に向かいました。


先のマップでは、永山古墳近くの歩道橋から仁徳陵が見える、とピ
ックアップしていますが、とにかくデカい緑の山に見えます。



仁徳陵の外周は遊歩道として整備されていて、その西側を歩きまし
た。その途中の、外濠の中にある、桶の谷古墳です。



遊歩道はこんな感じの公園風。写真を忘れましたが、このあたりに
仁徳天皇皇后の磐之媛命の万葉歌碑があります。



ようやくたどり着いた、南側中央の拝所入口から、西方向の外濠を
望んだ様子です。西端がはるか遠くで、その”広さ”が改めて実感さ
れました。



入口からの、拝所と陵墓の前方部の様子。墳丘の巨大さと、その木々が
風で悠々と揺らめく姿に、凄みを感じてしまいました。墳丘長486m、
濠を含む全長は840mを図ります。この古墳の埋葬施設が、前方部
及び後円部ともに確認されているのは、以前この陵墓を取り上げた記事
の通りです。墳丘や周濠から人物、馬、家、円筒など各種埴輪が、造り
出しからは須恵器の甕が見つかっています。特に女子頭部の埴輪はこの
古墳を代表する形象埴輪でよく写真を見ますね。



試算によれば、この大山古墳は一日最大で2000人が従事して15年
8カ月、延べ680万人が動員されたと推定されています。当時の人口
が数百万人と言われていますから、まさに国家的事業だったという事で
す。東出雲王家伝承では、この時期に巨大古墳群が造営できたのは、神功
皇后の新羅制覇の成功で、外国からの貢物が得られるようになり、財力
が豊かになったから、としています。和歌山市で発見された鳴滝遺跡はそ
の貢物を保管した場所だったと云います。つまり、神功皇后が実在しなけ
れば、百舌鳥・古市古墳群はあり得なかったという事です。これは、神功
皇后の先祖である、韓国から来られたヒボコ命の子孫、神床氏の伝承とも
一致しているそうです。

その新羅制覇ですが、記紀で同行したと書かれる武内宿祢は、先の出雲
武内神社や神原神社の記事の通り、邪馬台国の時代の人ですから、
神功皇后とは時代が合わない事になります。つまり、武内宿祢の子孫が
同行したという事です。その御方は記紀にも登場しますが、家系自体が
5世紀末に滅亡したせいか、本当は大王級の成果を上げられたのに、良
くない話ばかり書かれてしまっているようです(「出雲と蘇我王国」等)。


ひとまず今回はここまでにさせていただき、続きは”2”として
アップ
致します。

(参考文献:「堺の文化財 百舌鳥古墳群」堺市文化観光局)


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