摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

神魂神社(かもすじんじゃ:島根県松江市大庭町) ~古来、鑽火祭や国造火継式を斎行した古社が「延喜式」に載らない謎~

2020年04月11日 | 出雲

 

熊野大社から車で松江の方向に向かって15分程、意宇平野に入ったあたりの谷間の斜面にこの神社は鎮座しています。境内までのアプローチは重厚な雰囲気が有りましたが、大ぶりな石段は正直歩きにくかったです。

 

・駐車所から少し離れた一の鳥居。参道が長いです

 

【鎮座地と史跡】

この地域は、古代出雲の中枢部で、奈良時代より前は、出雲国造に率いられた集団が居を構え、熊野大神を祖神として崇めつつ、強力な意宇勢力を形成したと考えられています。付近には山代二子塚、山代方墳、大庭鶏塚、「風土記の丘」の岡田山古墳群らの大型古墳が並び、特に前方後方墳、方墳が密集している事が特徴となっています。奈良時代に入ると、平野部に出雲国庁が設けられ、中央政府から国司が赴任してきますが、出雲国造は(国造の名は意味をなさなくなったものの)郡司の役職を得てこれに謹仕しつつ、司祭権を保ちながら旧勢力を代表していたと理解されています。出雲国造がこの意宇郡を去り出雲大社に移ったのは、「国造郡領兼帯の禁」が出た798年以降ではないか、と一般には考えられているようです。

 

・駐車場前の二の鳥居。石標も

 

【ご由緒、ご祭神】

この由緒あるたたずまいの神社は、しかし、「延喜式」には見えません。文献の初出は、鎌倉時代の初期で、”神魂御領”や”出雲国大庭社”の名で登場し、有名になっていきます。なので現在の理解では、もともと神社ではなく、出雲国造家の大庭における祖神の斎場ではなかったか、と推定されています。

ご祭神は伊邪那美命。そして、伊邪那岐命を合祀します。神社のご由緒書によると、出雲国造の大祖天穂日命がこの地に天降り、出雲大神、出雲国の総産土大神として北島、千家両国造家が奉仕してきました。斉明天皇の勅令により出雲大社が創建されると、716年に杵築の地に移住しましたが、神火相続式と新嘗祭の執行時には現在もこの地に参向する、と書かれています。出雲大社の創建経緯や国造の移住年は、あくまで神社の主張でしょう。神魂(カモス)の読み方は、神坐所(カミマスドコロ)がなまったとか、ご祭神の二柱の神が夫婦の道を開きムスビ給いし故事(縁結)からとか、元々神皇産霊(カムムスビ)神を祀っていたからとか、諸説挙げられていますが、わからない、が神社の結論です。ただ、宮中三殿の中心、賢所は神坐所と共通した呼称だと強調されています。

 

・威厳ある大ぶりな石段。上に見えるのは拝殿

 

【祭祀】

当社は元々出雲国造家ゆかりの社だったので、重要な祭祀である新嘗会では北島、千家両国造が当社まで出向き、熊野大社から火鑽臼、火鑽杵の発遣を求めて鑽火祭を行いました。同じく国造家の代替わりの際に行う”国造火継式”でも国造が当社に出向き、新嘗会と同様の手順で祭儀を執行しました。明治時代以降は、古代に復するという意味で、千家国造家が熊野大社で行うようになっています。

 

・本殿

 

【宮司秋上氏】

この神社の神主は、古来より現代まで宮司家秋上氏が務めてきました。「秋上家文書」によると、此の一族の当主は、1443年時点では”代官”、1470年には”権現主”とあり、神領の代官を兼ねて、正神主の代理の立場だったようです。1523年になって初めて”神主”の表記になりますが、実質的には国造家の代官として揖夜神社や六所神社も裁量していました。近世になると、意宇六社(他は、熊野、揖夜、真名井、八重垣、六所)の筆頭となり、”大庭の大宮”と呼ばれるようになります。明治時代に入り、当社が独立た神社になったので、これを専掌して今に至っています。

 

 

 

【社殿】

本殿は、昭和23年からの修理の際、主柱上部の突起に”正平元年”(1346年)の墨書きが発見され、出雲大社の改築よりも約400年古い事がわかりました。天地根元造の形態を有する大社造。内部は神座が出雲大社と反対に東向きになっており、神社は女造と呼んでいます(出雲大社が男造)。殿内は畳敷きで、一般の神社と異なり段差がありません。狩野山楽土佐光起の筆と伝えれれる大壁画九面に囲まれ、天井には九重雲が描かれ、出雲大社本殿の七重雲と補完しあい、強い関係を物語っています。

(参考文献:神魂神社案内書、谷川健一氏編「日本の神々 山陰」)

 

 

 

【伝承】

東出雲王国伝承では、そもそもは意宇地域は東出雲王国の中心地であり、神魂神社はその王家、富氏(向氏)の宮殿だったと主張します。大和の分家、登美氏(後の三輪氏、加茂氏へ)は、この地から、まずは現在の高槻市登美の里(個人的には古代゛濃見の郷゛とされる、今のJR高槻駅近辺と推定)へ移住したというのです。記紀では出雲王国が神話のように書かれた事から、現在では、古代の出雲を支配したのは出雲国造家だと説明されますが、”国造”のですから、せいぜい古墳時代から後だと考えるのが自然でしう。ただし、出雲国造家の古墳は存在しないらしく、山代二子塚な古墳の多くは富氏系のものとのこと。また、鑽火祭や火継式を出雲国造が斎行する理由は、熊野大社の記事に記載ました。

 

出雲大社は、神主の国造家と、富氏など複数の旧王家などからの官によって経営されたと伝承は説明します。その上官に属し、鑽火祭(新嘗会)や火継式で使う火鑽臼、火鑽杵を管理する役目だった別火氏について、向氏(富氏)の保管する古文書に説明が有ります。”この家は大国主の子孫か、十千根命の子孫のどちらか”。「出雲と蘇我王国」には、その文章の写真も載せられており、確かに十千根命の文字が確認できます。十千根命とは、どう考えても物部十千根でしょう。つまり出雲では、物部十千根は、出雲の神宝を検校しに一時訪れた、ではなく、子孫を残すほど根を張った存在だった、と言っているようです。

 

・神籬。古代出雲で、熊野山頂のヒノキになきがらを一時隠した風葬の再現だそう

 

東出雲伝承では、この物部十千根が、3世紀の九州東征勢力における出雲征服軍の司令官であり、その子孫が秋上氏だと説明します。そして天穂日命の子孫、日狭がそれを支援したのです。征服後は物部十千根が神魂の宮殿を接収、日狭もその近くに住み秋上に仕えます。しかし、日狭の息子、宇加都久奴が国造の座を得たので立場が逆転し、次第に国造家は秋上氏を圧迫するようになった、という説明がされています。また、大国主の子孫の西出雲王家と秋上氏は嫁を迎え合っていたから、西出雲王家出身の別火氏について上記のような記録になった、と解説されています。

 

「延喜式」に当社がのらない不思議に関しては、その作成過程の中で出雲大社と神魂神社がもめた事が要因のようです。後になって国造家は、”神魂神社は国造家の邸内社だ”と説明するようになり、これに対して斉木雲州氏はその経緯を説明したうえで”とんでもない説明”と「出雲と蘇我王国」で怒っておられました。神魂神社が神社となるのはワカタラシ大王死後の時期であり、出雲大社より格段に古いからです。3世紀終わりから4世紀前半の間くらいの創建と思われます。その時に、もともとの出雲の神の名前を現在のご祭神名に変えたと、斉木雲州氏は説明しています。

 

・小泉八雲さんも来られています


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