一般に日本の最も古い゛歴史書゛と言われる「古事記」「日本書紀」で、万世一系の系譜を持たれる皇統の始祖、初代天皇とされている神武天皇の陵墓(宮内庁が管理する皇室の先祖の墳墓)です。写真の通り、ものすごく高い杉の整然とした林に挟まれた、玉砂利が敷かれた長い参道のアプローチが神威に溢れ、とても広大な敷地(東西500m、南北400m)には圧倒されます。さらにこの陵墓の拝所にはご丁寧に手水舎もあり、特別な信仰の場である事が感じられますが、木々が繁っているのみで墳丘らしき築造物は見えません。
・入口から威厳ある空間で立派です
この墳墓の場所について、「古事記」は゛畝傍山の北側の白檮尾のほとりにある゛とし、「日本書紀」は゛畝傍山の東北゛、そして「延喜式」神名帳では゛大和国高市郡に在る。兆域東西一町。南北二町。守戸五烟(墓守が5軒)゛と書かれています。古代墳墓・古墳は律令制の衰退で荒廃していきますが、江戸時代になり起こった勤皇思想を背景に、幕府による陵墓の補修工事が4回(元禄、享保、安政、文久年間)行われました。中でも文久の修陵(1862-1865)が最も大規模で、この畝傍山東北陵もその時に整備されました。
・杉林の絶壁の中、折れ曲がると陵が遠くに見えてきます
文久の修陵に際し、その陵墓の特定で゛随分議論が交わされ、簡単に説明できないほど事が入り組んでいる゛という春成秀爾氏の話を、「天皇陵の謎」で矢澤高太郎氏が紹介しています。当時は以下の候補地が有ったそうです。
- 丸山 : 畝傍山の北東の裾。御殿山と呼ばれる尾根の上。「古事記」の記述に一致。
- ミサンザイ(現在地) : 畝傍山の北東約600m。「神武田」と呼ばれる水田。残丘のような二つの土饅頭がある。ミサンザイは御陵を意味する関西地方の方言。「日本書紀」の記述に一致。
- 塚山(現綏靖天皇陵) : 元禄の修陵時から神武天皇陵とされていた。地元の四条村には神武天皇陵の伝承があった。その時の報告書「諸陵周垣成就記」には明確に古墳が描かれている。また、山稜絵図「廟陵記」には神武帝と明記される。「日本書紀」の記述に一致。
- スイセン塚古墳 : 本居宣長が「菅笠日記」で、塚山古墳説を批判し、こちらがふさわしいと主張。「東北陵」は方角を間違えており、「古事記」に合うのは当時の綏靖帝陵の「すいぜゐ塚(スイセン塚)」だと説明。
(本説は、今尾文昭氏「天皇陵古墳を歩く」より。「天皇陵の謎」では、本居宣長は1説を支持、とあり)
・拝所も御陵の幅いっぱいにひろがります
「天皇陵の謎」で矢澤高太郎氏は、この神武天皇陵の治定は慌ただしく決められたとの、春成氏の説を紹介しています。この論争の最中に、時の孝明天皇の大和への行幸と神武陵参拝計画が決まり、短期的に整備出来る水田の地(人糞を用いる糞田でもあったとのこと)が決められたろう、というお考えです。しかし、「天皇陵古墳を歩く」で今尾氏は、上記の1説と2説を朝廷に提出し、孝明天皇の勅裁でミサンザイに決定した、と書かれていて、ニュアンスが異なります。一方、元神武天皇陵だった塚山は、明治11年になって綏靖帝陵に治定されました。
・北参道から橿原神宮に入りました
文久の修陵には莫大な費用がかけられましたが、とくに神武帝陵は力が入っていたようで、「皇陵史稿」によれば15,062両、現在の金額では2億5617万6000円くらい。実に全体の三分の一が当てられました。同時期では、応神帝陵が3050両、雄略帝陵が2386両ですから、いかに神武帝陵が重視されたかが分かりますし、他の陵墓も金額としては相当な額ですから、当時各陵墓に相当手が入れられたと理解した方が良いでしょう。
・こちらもスケール大きい境内。背後に畝傍山が控えます。神社創建は明治23年
記紀で神武天皇陵が登場するのは、埋葬記事以外では「日本書紀」の壬申の乱の場面のみです。つまり、大海人皇子(天武天皇)が神がかりした高市県主許梅を神武天皇陵に遣わして、祭り拝ましめて馬及び兵器を奉った、と書かれます。先の矢澤氏は、神武帝を架空の人物と想定されていますが、この記述から神武天皇陵は壬申の乱の時期に存在した事は間違いないと考えておられました。また、神武帝に関する言及は、同天皇の項は別として、他では「日本書紀」の継体帝二十四年の条ただ一つなので、先の春成氏は継体帝の時代に神武天皇像が生まれ、宣化帝或いは欽明帝の時期に最初の神武天皇陵が造られたと推論されています。
・昭和14年完成の外拝殿。昭和の神社建築の粋、と言われるもの
東出雲伝承を語る大元出版の本は、一般の街の本屋さんで見かける事はありませんが、そういう場でもよく見かけた古代史伝承話に、竹内睦奏氏の゛正統武内文書゛伝承があります。ご本人は2020年にご急逝されてしまったそうですが、最近、竹内氏に取材し続けて来た布施泰和氏の「卑弥呼は二人いた」をいくつかの本屋で見かけ、タイトルが興味深かったので入手しました。竹内氏の伝承を作者なりに整理されたという内容で、タイトルはあまりポイントではないようでした。なお、ここでの卑弥呼二人説の内容は東出雲伝承とは全く異なり、あまり新鮮味はありません。
・内拝殿と回廊。千木が見えるのは幣殿。元京都御所の賢所だった本殿(重要文化財)は見えません
竹内氏の語る伝承は、あくまで記紀の話をより現実的に受け取る為の注釈・指南、というもののように感じました。竹内睦奏氏がどのような系譜の方なのか、そもそもの「帝皇日嗣」伝承を持つ正統竹内家の長老十二家が武内宿祢の後裔とされる各古代氏族(葛城、平群、巨勢、平群、石川等)とどういう関係なのかは触れられておらず分かりません。その伝承で個人的に特にピックアップしたい話が、一つは賀茂建角身命と阿遅志貴高日子根命(アジシキタカヒコネノミコト)が同一人物である事、もう一つがウガヤフキアエズと天香語山が近く、同一人物の可能性がある事、です。これら(出雲伝承からするとトンデモナイ話)を認めると、神武天皇と天村雲命そして天日方奇日方命が近づいて来て(布施氏は御三方が同世代であり、天村雲命は五瀬命と同一人物の可能性も言及)、さらに加茂建角見命(つまり八咫烏)が大和の初代大王のちょっと前に入ってきて、記紀のストーリーを補強する形になるのです。正統竹内家の長老十二家は、従来の竹内文書の不正確さへの危機感から竹内睦奏氏に伝承を継承(一部だけらしいですが)させたそうですが、武内宿祢とその後裔は大和王権の主要メンバーです。その位置づけからすると、記紀の本筋から逸脱しない話に留まるのは当然と理解できます。
・南神門
あと特筆したい話として、竹内睦奏氏の「古事記の邪馬台国」でも触れられていた、神武東征後に一度ヤマト王権自体が九州に戻っている話。本書でもより詳しく述べられていますが、最初はとても安直な話のようにも聞こえました。しかし、出雲伝承でも確かに゛大和大乱゛の時期に一旦東征した有力な一族や有能な人たちが日向に移り(戻り)住み、再び東征した話はしていますので、このあたりの大まかな流れは共通しているのかなと思いました。
・第一鳥居と表参道
「卑弥呼は二人いた」は元々ビジネス肌の筆者が精力的に竹内氏を取材した話から書いておられるもので、筆者の論考の正統感が読んでて不安になる事があったり、考古学的な遺構・史跡への言及がほとんどない事が心もとなく感じました。対して出雲伝承も伝承なので根拠は明らかにしませんが、現存する神社・遺跡を事あるごとに取り上げ、現在に残る史実の痕跡として確固たる信念で語っているように取れます。神社にとっては今の公式な御由緒と違う話をされるわけで、もしかしたらご迷惑されてるのかもしれませんが、それでも良いから出雲伝承を語っておきたいという強い思いを感じるのです。
(参考文献:中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、矢澤高太郎「天皇陵の謎」、今尾文昭「天皇陵古墳を歩く」、谷川健一編「日本の神々 摂津」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、平林章仁「謎の古代豪族葛城市」、梅原猛「葬られた王朝」、佐伯有清「日本古代氏族事典」、布施泰和「卑弥呼は二人いた」、竹内睦奏「古事記の邪馬台国」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、金久与市「古代海部氏の系図」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」、富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)