摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

鴨都波神社(かもつばじんじゃ;下鴨社:御所市宮前町)~葛城鴨氏の本貫地と大加茂都美の系譜

2020年10月03日 | 奈良・大和

 

葛城地域において、ここより南方に鎮座する高鴨神社と共に、京都の上賀茂・下鴨はじめする全国の賀茂社の源流の一つとして著名な、古代豪族、鴨氏の氏神社です。京都の加茂さんよりコチラが元祖ということです。高鴨社が上鴨社なのに対し、鴨都波社下鴨社。そして、鴨社が御歳神社なります。

 

・国道側の鳥居。うっそうとした社叢が出迎えてくれます。反対側にも鳥居があり、本来の正門でしょう

 

【呼称】

「延喜式」神名帳の葛上郡十七座の筆頭に゛鴨都波八重事代主神社二座゛とある他、同書でも゛葛城鴨社゛とか゛鴨神社゛などに略されています。地元では鴨の宮、葛城鴨社、鴨明神とも俗称されてるよう。読み方は、以前は゛かもつわ゛が正規だったようですが、奈良県の公式サイト「なら旅ネット」では゛かもつば゛となっています。

 

・荘厳な雰囲気の漂う社叢

 

【ご祭神、ご由緒】

ご祭神については社伝では積羽八重事代主命と下照姫の二座を主神として祀っていますが、谷川健一氏編「日本の神々 大和」で木村芳一市は、異説も有って確かでない、と言われます。「新撰姓氏録」や近代の「大和志料」の記載では、崇神天皇の御世に大神神社最初の神主、太田田根子命の孫である大加茂都美命がこの地に事代主命を奉斎したのが当社の始まり、となります。神神の別宮という位置付けです。また、「令義解」では、その大神、そして大倭出雲大社と共に地祇と定義されます。対する天神は、伊勢山城鴨、住吉出雲熊野大社ですね。

 

・社叢を抜けると、左側より社殿前に出ます

 

木村氏は、ご祭神の下照姫には疑問を持たれています。国史大系(明治時代に古典籍を集成し、校訂を加えて刊行した叢書)の「延喜式」の当社の社名に゛貞改号コ゛の頭注があり、最古の金剛寺本によって、貞観年間に゛鴨都波八重事代主神社゛と改められた事が知られています。そして元は゛鴨都弥波(ツミハ:鴨の神)゛または゛鴨弥都波(ミツハ:鴨の水ぎわの神)゛ではなかったかとの指摘が以前から存在するそうです。当社が葛城川と柳田川の合流地点に近い事や本殿西側に井戸が祀られている事、旱魃のときには「鴨下りの水」と称してここの水を分けてもらったという故事が有る事などから、祭神が水の神である事が暗示され、それは葛城の土地神なのだから、二座は鴨の神と事代主命だとすべきだ、と述べられています。

 

・拝殿。側面の扉も開放されて中もよく拝見できます

 

【鎮座地、発掘遺跡】

境内から南側の青翔高校にかけての範囲が、弥生時代前期から古墳時代後期まで続いた事が分かっている、有名な鴨都波遺跡にあたります。神社は、元々高鴨神社付近を本拠としていたのが、水稲農耕に適したこの地に移って来た、と説明しています。神社鎮座地の下層は、弥生時代前期から後期に至る拠点的な大集落遺跡で、大規模なV字型溝、掘立柱高床建物、竪穴式住居、多量の土器や石器、木製品、炭化米、瓜、ひょうたん、クルミなどが出祖しました。

 

・本殿。千鳥破風と唐破風の2つを持ちます

 

また、神社西方では弥生時代中期前半の浅い溝が取り巻く中、方形周溝墓から古墳時代の方墳、墳丘のない木棺墓、埴輪棺墓などの多くの遺構、遺物が検出されました。つまり、弥生時代中期前半から古墳時代中期まで継続的に利用された、鴨都波遺跡の墓地、墓域と考えられ、ここを拠点とした集団が途切れることなく存続した事を意味する、と平林章仁氏が「謎の古代豪族葛城氏」で述べておられます。中でも特に注目なのが、古墳時代前期の鴨都波一号墳。そこで検出された高野槙の木棺と、その内外の四面の三角縁神獣鏡や多量の鉄製品の副葬は目を見張るものが有り、被葬者は古い起源を持つ葛城の鴨氏に連なる人物である事は間違いない、と平林氏は結論づけられています。

 

・本殿向かって右の摂末社。祀るのは奥から、菅原道真公、猿田彦大神、そして金山彦命。いずれも出雲に関連・・・

 

【神階・奉幣等】

鴨都波神社は、名神大社として多くの神戸を有するなど手厚く祭祀されましたが、神階や臨時の遣使奉幣に関して正史に全く記録されていません。「三代実録」859年でも、御歳神、高鴨阿知須来高彦神、そして高鴨神が共に従一位へ昇っているのに、当社については記述がありません。木下芳一氏も、不思議だと首をかしげておられました。

 

(参考文献:谷川健一氏編「日本の神々 大和」、平林章仁氏「謎の古代豪族葛城氏」)

 

・神農社と社叢。ご祭神は少彦名大神

 

 

【伝承】

東出雲伝承によれば、紀元前三世紀終わり頃、東出雲王国に嫁いでいた活玉依姫(三島溝咋姫)が、津三島に帰りました。ついて来ていた天日方方は成長した後、同行していた踏鞴五十鈴姫、五十鈴依姫と大和を目指し、まずこの葛城に住みます。東出雲王国の富氏から登美氏として分かれたのです。そして、その地に、父、八重波都身(ヤエナミツミ:事代主命の本名)を祀る為、その名を取ってこの神社を建てたと云います。つまり、高鴨神社よりこちらが先だとの主張になります。今回の参拝は、我が高槻市から行ってるので、この伝承と同じ移動をしたことになります・・・そして、登美氏はこの後、三山・磯城方面へ発展していったらしいです

 

・ご神木のイチイガシ。樹齢350年と云われます。社殿向かって右側の社叢

 

公式のご由緒で創建したとされる大加茂都美について、出雲伝承の説明は一定しないように見えます。「出雲王国とヤマト政権」では、この御方は鴨建津乃身と同じ人であり、の御方の処か美(トミ、トビ)氏が加茂氏と太田氏に分かれたと云います。もう一方が陶邑にいた分家、太田田根子です。一方、「古事記の編集室」では、鴨建津乃身と大加茂都美は別の御方で、確かに大加茂都美は大田田根子の後の人だとしています。また、八咫烏がどの御方かについても、説が分かれています。下記のまとめておきます。

 

 書名         著者    鴨建津乃身   太田田根子   大加茂都美    「八咫烏」

出雲と大和のあけぼの  斎木雲州   七代      九代       -      大鴨建津乃身

古事記の編集室     斎木雲州   (先)     九代      (後)     賀茂建津之身

親魏和王の都      勝友彦     -      九代      十一代     大御気主

出雲王国とヤマト政権  富士林雅樹  (同)     (同)   (=鴨建津乃身)  太田田根子(本当はタネヒコ)

 ※代は、奇日方(櫛御方命)を第一代とした代数

 

「出雲王国とヤマト政権」では、大加茂都美は現在の木津川市加茂町に移住し、その子孫が後に京都の鴨川のほとりに移住したと書いています。どの大元出版本にも、この御方が葛城に来て神社を建てた、という話はないです。あと、神階がなかったのは、この氏族の血を引いた御方が、後に゛蝦夷゛になったからでしょうか・・・

 


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