摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

大和国一之宮 大神神社(三輪明神:桜井市三輪)- 天皇霊が依る日本国家の守護神だった出雲の神 -

2019年06月22日 | 奈良・大和


山の辺の道は、この大神神社が近くなると、迷路のようになり、近辺の多くの摂社につながっています。狭井神社から南に歩いていくと、おもむろに大神神社の境内前に出ました。タイトル写真は後で大鳥居の前まで行って撮ったものです。

 

【鎮座地、神階】

今回拝見して、その整ったシルエットに改めて感動した神奈備山、三輪山の西麓に西面して鎮座します。拝殿後の三ツ鳥居(拝見するには参集殿で申込が必要)を通して直接三輪山を拝む形になってる事は有名。延喜式神名帳では、大神大物主神社。神階は、859年に正一位の極位を受けています。ご由緒は、記紀説話を拠り所とする以下の話が一般には知られています。


・境内入口。境内は”史跡”です

 

【ご祭神、ご由緒】

主祭神は大物主大神で、大己貴(大国主)神と少彦名神を配̪祀します。ご由緒は、記紀両方に記載されている、大国主命のもとに海を照らして依り来て、三諸山(御諸山)に住まわれた神です。つまりは、大物主神は大己貴(大国主、大穴持)の和魂(幸魂、奇魂の総称)となるようです。その一方で、モモソ姫の箸墓伝説では三輪山の神は蛇神であったり、また雷神としての性格も有るとされています。これは三輪の神が大物主神として人格化される前の姿を伝えていると考えられます。

一方、その神を祀る初代神主として記紀に登場するのが、大田田根子です。つまり、崇神天皇の時代に疫病が流行、民が死に絶えようとしたとき、天皇の夢に大物主大神が現れ、「大田田根子に我が御前を祭らしめたまはば、神の気起こらず、国安らかに平らぎなむ」とのお告げを受け、茅渟県陶村から探し出され、結果、疫病が止んだというお話。


・拝殿

 

【祭祀氏族】

大田田根子については、”記”は「大物主大神、陶津耳命の女、活玉依姫をめとして生める子、櫛御方命の子、飯肩巣見命の子、武甕槌の子」で「神(ミワ)君、鴨君の祖」となってます。”紀”は大物主、活玉依姫のみ記載で「三輪君等が始祖なしり」となってます。

これら記載は、三輪山が神山としていかに古代王権に重視されていたかを物語っていて、この後も、神功皇后が新羅出兵の折、大三輪社を祭ったら軍士が集まったとか、敏達期に辺境で争乱を起こした蝦夷に三諸山に向かって服従を誓わせた等、単に大和国一国の守護神から、天皇霊の依る国家の守護神の地位を持つに至ったと考えられます。


・祈祷殿。この日の御朱印は、このテントの仮説御朱印所で頂きました

 

【中世以降歴史】

律令時代に入っても当社は朝廷に重視されましたが、中世になるとさすがに往時の盛況は失いました。しかし庶民の信仰に支えられて大和神社や石上神社ほどの著しい衰退はなく、織豊時代から再び社領が確定し、江戸幕府からも朱印陵60石を安堵されていたようです。明治維新後は官幣大社になりました。

 

【三輪山の祭祀磐座と遺物】

ご神体の三輪山は古くから禁足地であり、現在も基本は変わってなく勝手に立ち入れません。その山中には特に3カ所の重要な磐座があり、調査の結果でも拝殿直後から頂上までの一直線上に、三カ所の起伏が確認されており、各頂上の露出した自然石に対して、上から奥津磐座(大物主命)、中津磐座(大己貴命)、辺津磐座(少彦名命)と呼ばれています。この他にも山中には顕著な磐座が存在するようです。


・これも有名な「巳の神杉」

 

また、山中から山麓にかけては多くの祭祀遺物が出土していて、宝物収蔵庫で見学できます。祭祀遺物の分布地としては、山麓一帯が祭祀遺跡だと言ってよいほどではありますが、大神神社禁足地(ここでは拝殿のすぐ後方一帯)、狭井神社下の開墾地、そして馬場の山ノ神(出雲屋敷)遺跡の三カ所が特に著しいです。多くの遺物の中で、最も注目されるのが子持勾玉です。この地で盛大な祭祀が営まれたのは3~8世紀にかけてですが、馬場山ノ神からはそれ以前の遺物も出土していて、禁足地の発掘が許されれば弥生期の祭祀が確認されるのではないかと言われてます。

なお、当社に古来本殿が無かった、というのは誤りで、「神祀志料第九巻」に「中古以来、神を祀る事が甚だしく衰えた事により、神社も破損し、自然にこのようになって来た事がはっきりしている」と書かれているそうです。

(以上、参考文献:谷川健一編「日本の神々 大和」)

 

・拝殿前境内

 

【伝承の語る三輪明神】

東出雲王国伝承では、この地は、東出雲王国の分家となる登美氏が、”登美の里”の地名のある摂津三島を経由して、葛城に一時住んだ後、最終的にこの三輪山の山麓に落着き、神奈備山として遥拝した所と説明します。紀元前2~3世紀頃です。古事記で説明する大田田根子までの家系は、いうまでもなくこの出雲系登美氏の家系であり、それを古事記がきっちり説明した、という事になるという主張です。

そして、この三輪山に出雲の信仰だとするサイノカミ三神(いわゆるチマタの神)の幸姫命(別称八衢比売)が祀られ、その初代祭主となったのが、櫛御方命(奇日方命)と共に摂津三島を経てこの地に入った踏鞴五十鈴姫だったらしいです。姫の住まいが出雲屋敷です。拝殿奥の"三つ鳥居"は、サイノカミ三神にちなんでいて、出雲の長浜神社にもあります。

大神神社の入口には夫婦岩がありますが、これは出雲の松江市宍道町にある女夫岩と同じ形だと、「出雲王国とヤマト政権」で富士林雅樹氏は書いていて、女夫岩の形状の意味も詳しく説明されています。またその最新刊では、大田田根子が実質的には大王だった事、そしてこの御方の古墳についての伝承が紹介されています。


次回は、この大神神社の重要な摂社を主題に、そのご祭神を巡るひと悶着や、三輪と伊勢の神は同体という話をまとめます。


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