8月4日に父を看取った。
毎日見舞いに行って、一向に改善しなかった。それでも見舞いは習慣化し、このままいつまでも一緒にいられると思っていた。
8月3日の日曜にも見舞いに行き、夜に帰宅してから一時間後。母から焦った電話がきたので、慌ててタクシーに乗った。
タンクローリー炎上事故の煽りを食らって病院までの道は混んでいたので、裏道をお願いして病院へ。病室で父は本格的な酸素マスクをつけていた。母が父の体をさすりながら、必死に呼び掛けていた。
私が父をさすって目を覗き込むと、父はパタパタと足を動かした。意識はあるようだ。
その日の夜は峠だと言われ、父の弟夫婦(例の叔父)と近所に住む母の妹夫婦(叔母)がきた。その時も父は足を動かした。
前の晩、兄は友人とゴルフに行くのを悩んでいたが、父が行けと言ったので兄はまだ北関東の高速にいた。しかし母からの連絡を受けて、一時間でやってきた。
するとそれだけで父の脈拍と呼吸数は安定。兄が来ただけで安心した。
その日の夜はそのまま家族全員で病室に泊まり、翌日私は出社、兄は夏休みなので帰宅した。
出社したら、さすがに上司に父が危篤だと告げた。病院に行かなくていいのかと言われたが、いつなのかわからないので、今日は出社したと話した。
上司と会話して二時間後、母から電話があった。父の様態は安定しているが、看護師は家族がそばにいたほうが良いと言うらしい。私は上司に一言告げ、会社を出た。
途中で母から急げと焦った声の電話が入った。電車とタクシーを乗り継いで父の病室に飛び込むと、父の脈拍は低下していた。母と二人で泣き叫びながら、兄が来るまで待ってくれ、頑張ってくれと父の体をさすった。
母は、このまま間に合わなければ、兄は一生後悔する、あんたの自慢の息子だろう、お願いだからと泣いた。
二人で頑張って、頑張ってとずっと叫んだ。
警報アラームがずっと鳴り響いたままだった。父は最後に二回、歯を食い縛った。
兄はタンクローリー事故の余波を受け、予定より遅れてついた。兄が部屋に駆け込んで父に呼び掛けると、呼吸数が上がった。
だが、すぐに0になった。
8月4日13時03分、父は死んだ。
晴れ男にふさわしい、夏の晴天だった。
お通夜の晩は斎場に泊まってお守りして、告別式も終えて父と一緒に帰宅した。
どこかで四のつく日に亡くなった人はお地蔵さんになると聞いた。ずっと巣鴨のとげぬき地蔵に祈っていたからだろうか。
百度参りなんて数をとうに越えて祈ったのだから。
余命二年の宣告を、あんなに慎重に検査して、勉強しても10ヶ月にしてしまったのだから、神も仏もまだ祈り足りないというのだろうか。お地蔵さんにしたのは、せめてもの慈悲なのか。
まだ父がいなくなったことを実感出来ず、厳しい闘病生活だったので痩せこけて最期は目蓋も閉じられないほど目が落ち窪んだ父の姿が目に焼き付いたためか、遺影の頃の父を思い出せず他人を見ているようだ。
まだごく親しい友人や、こんな急に逝ってしまうとは思わなかったので遊びの予定を入れていた友人にしか、父の事を告げていない。
そんな中で葬儀に駆け付けてくれた友、弔電や香典を送ってくれた友、手紙や私の好きなものを送ってくれた友、改めてありがとう。
もう少し元気になったら、また会って欲しい。今の私は、母を一人に出来ない。
もっと気力がわいて整理が出来たら、父の事をたくさんの人に伝えないといけない。
ただの健診の事故からすべて始まったなんて、信じられないでしょ。
そんな人を増やしてはいけない。
毎日見舞いに行って、一向に改善しなかった。それでも見舞いは習慣化し、このままいつまでも一緒にいられると思っていた。
8月3日の日曜にも見舞いに行き、夜に帰宅してから一時間後。母から焦った電話がきたので、慌ててタクシーに乗った。
タンクローリー炎上事故の煽りを食らって病院までの道は混んでいたので、裏道をお願いして病院へ。病室で父は本格的な酸素マスクをつけていた。母が父の体をさすりながら、必死に呼び掛けていた。
私が父をさすって目を覗き込むと、父はパタパタと足を動かした。意識はあるようだ。
その日の夜は峠だと言われ、父の弟夫婦(例の叔父)と近所に住む母の妹夫婦(叔母)がきた。その時も父は足を動かした。
前の晩、兄は友人とゴルフに行くのを悩んでいたが、父が行けと言ったので兄はまだ北関東の高速にいた。しかし母からの連絡を受けて、一時間でやってきた。
するとそれだけで父の脈拍と呼吸数は安定。兄が来ただけで安心した。
その日の夜はそのまま家族全員で病室に泊まり、翌日私は出社、兄は夏休みなので帰宅した。
出社したら、さすがに上司に父が危篤だと告げた。病院に行かなくていいのかと言われたが、いつなのかわからないので、今日は出社したと話した。
上司と会話して二時間後、母から電話があった。父の様態は安定しているが、看護師は家族がそばにいたほうが良いと言うらしい。私は上司に一言告げ、会社を出た。
途中で母から急げと焦った声の電話が入った。電車とタクシーを乗り継いで父の病室に飛び込むと、父の脈拍は低下していた。母と二人で泣き叫びながら、兄が来るまで待ってくれ、頑張ってくれと父の体をさすった。
母は、このまま間に合わなければ、兄は一生後悔する、あんたの自慢の息子だろう、お願いだからと泣いた。
二人で頑張って、頑張ってとずっと叫んだ。
警報アラームがずっと鳴り響いたままだった。父は最後に二回、歯を食い縛った。
兄はタンクローリー事故の余波を受け、予定より遅れてついた。兄が部屋に駆け込んで父に呼び掛けると、呼吸数が上がった。
だが、すぐに0になった。
8月4日13時03分、父は死んだ。
晴れ男にふさわしい、夏の晴天だった。
お通夜の晩は斎場に泊まってお守りして、告別式も終えて父と一緒に帰宅した。
どこかで四のつく日に亡くなった人はお地蔵さんになると聞いた。ずっと巣鴨のとげぬき地蔵に祈っていたからだろうか。
百度参りなんて数をとうに越えて祈ったのだから。
余命二年の宣告を、あんなに慎重に検査して、勉強しても10ヶ月にしてしまったのだから、神も仏もまだ祈り足りないというのだろうか。お地蔵さんにしたのは、せめてもの慈悲なのか。
まだ父がいなくなったことを実感出来ず、厳しい闘病生活だったので痩せこけて最期は目蓋も閉じられないほど目が落ち窪んだ父の姿が目に焼き付いたためか、遺影の頃の父を思い出せず他人を見ているようだ。
まだごく親しい友人や、こんな急に逝ってしまうとは思わなかったので遊びの予定を入れていた友人にしか、父の事を告げていない。
そんな中で葬儀に駆け付けてくれた友、弔電や香典を送ってくれた友、手紙や私の好きなものを送ってくれた友、改めてありがとう。
もう少し元気になったら、また会って欲しい。今の私は、母を一人に出来ない。
もっと気力がわいて整理が出来たら、父の事をたくさんの人に伝えないといけない。
ただの健診の事故からすべて始まったなんて、信じられないでしょ。
そんな人を増やしてはいけない。