横スカッとジャンパーズ

徒然なる侭に、主にマリノスと日常をくっちゃべります。毒にも薬にもなりません!

父と癌

2007年12月29日 00時29分03秒 | 雑記
年内に起きた事は、年内に片付けたいので。

何を片付けたいかと言うと、あくっまさんの個人的な気持ちだけで。
気持ちだけしか、片付ける事が出来ないので。



このブログにも出てきた父(オトン)。
見た目は怖いが、どこかとぼけた性格の、どこにでもいる父親だと思う。
特別悪い事もした事はない。
大昔はタバコを吸っていたそうだが、兄が生まれるときに「あくっま母が大変な思いで出産するのだから、アチキ(一人称)もタバコ止める!」と言ってその後禁煙。
以後28年間吸っていない。

ちなみにあくっまさんが誕生する前は「あくっま母が(略)、アチキも禁酒する!」と言って3ヶ月だけ禁酒したそうだ。
だからといって大酒飲みというわけでもなく、週に2~3回晩酌をする程度の、いたって普通の父親だ。




そんな父に出た結論。
オトンは末期癌だった。




11月14日、手術が行われた。
あくっま兄妹は会社を休み、父に付き添った。手術の説明を色々受けたが、日本有数の癌専門病院の消化器部長が「今年やった手術の中で十本の指で数えられるうちの一つになる、難しい手術でしょう」と言った。
オトンは「三本の指じゃなくて良かったね」と言って手術室に向かった。

あくっま家は手術の説明を受けながら、人工肛門(ストーマ)やら何やら難しい単語を初めてその時知った。
最悪の場合、手術中に死んでしまうかもしれないという話も聞いた。
それほど難しい手術だという覚悟をした。
手術中、家族はPHSを渡されて病院内の好きなところに待機しているのだが、執刀医はオカンに最後にこう説明したらしい。

「この手術は最低4時間かかります。4時間以上かかったら、うまく癌の手術が出来ていると考えてください。
2時間でPHSが鳴ったら、癌を取ることが出来なくてそのままお腹を閉じたと考えてください。それぐらい、ご主人の癌の進行状況は切迫しています」


あくっまさん達は、PHSを渡されて病院内に放流された。一時からの手術だったので昼時お腹はすいているはずなのだが、あくっまさんはお腹がすかなかった。
きっと皆そうだったと思う。
だが、全員日常のように振舞おうと、病院内の喫茶店で食事をし、暗い想像をしないように努めていた。


オトンは個室で入院していたので、あくっまさん達はオトンのいない個室で待った。
なるべくPHSが遅く鳴るのを待っていた。あの時ほど、時が早くすぎればいいと思ったことがない。だがそう思えば思うほど、時間はなかなか進まない。三人がデジタル時計を三分ごとに確認し、確認するたびにお互いの視線が合って慌てて普通の態度に戻す。
必死になって日常にしがみついていた。

あくっまさんは温もった病室でうとうとしながら、悲観論者のオカンは何事も無いように必死の形相で本を読みながら、兄はPSPをしながら待った。

そして3時間でPHSは鳴った。



手術の時、何故看護婦はPHSを兄に渡したのだろうか。
その場にはオカンというどうみても一家の主婦であり、権力者がいたというのに。


PHSが鳴った瞬間、あくっまさんの頭は沸騰してよく分からなくなった。
鳴っているのはPHSじゃないと思い込みたかったが、兄が出た。
兄が会話をしているのが怖かった。

オカンは悲鳴を上げて震えていた。
本当の恐怖になったとき、人間は涙なんて出ないんだとオカンを見ながら思った。
本当の恐怖の時、人間は震えるのだ。
オカンは本当に、震えていた。オカンが頭を抱えて真っ白になって震えていたのを今も思い出すと、苦しい。

兄は、冷静に執刀医の話を聞いていた。
今でも思う、あの時看護婦は兄にPHSを渡してくれて、本当に良かったと。


震えているオカンと頭が沸騰している妹に、兄は説明してくれた。


オトンを開腹した執刀医は、自分の予想以上に癌が進行している事に驚いたそうだ。
そして、そのまま腹を閉じたと。

何もしてくれなかったのか。
何も出来なかったのか。
その時はよく分からなかったが、後に自分で勉強したりインフォームド・コンセントをしてもらって得た知識を総合すると、オトンの癌の進行は非常に特殊なケースで、手術が出来なかったのだと思われる。


執刀医はオトンの腹膜ヘルニアを治すだけしてくれて、後はすぐ化学療法にうつれるよう、体力を失わせないように縫合をして手術を終えた。
その手術が、3時間だった。

何も切っていないので、オトンは術後すぐに目覚めた。
執刀医は癌の外科手術が出来なかった事は明日伝えるから、今日はショックが大きいから伝えないようにと言われた。
あくっま家はオトンにかわるがわる話しかけたが、あくっまさんの番になってオトンは掠れ声で尋ねてきた。

「今何時だ」

勿論オトンも手術時間と手術内容の関係を知っている。あくっまさんは動揺して、聞こえないフリをしてしまった。
だが、KYな兄があっさり「四時だよ」なんて答えてしまっていた…。



今日はこれで終わり。
思い返す作業は、苦しい。
でも忘れてしまうのは怖い。
あの時の怖さを忘れて、このままいつまでも家族みんなでいられるんじゃないかという幻想を、見てしまいそうになる。
かりそめだというのを忘れてしまいそうになる。

癌の事を知るのは怖い。
学ぶのは怖い。
でも勉強しないと、一緒に過ごす時間がどんどん短くなる。
だから、恐怖に突き動かされて知識を蓄え続けられるように、この事を整理しないといけない。
あくっまさんは悲観論者だ。
怒りや悲しみが行動力になる。だからたとえ世間から「ネガディブ発想だ」と言われようとも、その発想力を利用しながら動き続けないといけない。


オトンは自分の体のことを学ぼうとしない。きっと怖いのだろう。
オトンと毎日一緒にいるオカンは、学ぶのを止めてしまった。
オカンはあくっま家一の知識人だが、あくっま家一の悲観論者でもある。一緒にいて、知るのを拒否するオトンに情報が伝わるのを恐れているのだ。
あくっま兄は12時帰りなので、勉強する暇は無い。

というわけで、あくっまさんが今一番あくっま家で勉強しているという珍妙な事態になっている。
そして、学べば学ぶほど、現実が先細っていくのを知ってしまった。


医者は言った。

「あくっま父は、学会に報告しないといけないケースです」
「これからの大腸癌の医療の為に、あくっま父のような方がいらっしゃる事を知らせないといけません」


でもね、と家族は思う。
なんで、オトンがそんなケースになってしまったの?



これ以上は感情的になるので、今日は本当にこれで終わり。
明日帰省するので、それまでに年賀状を書いてしまわないと。


ここまで書くのに、あくっまさんは何度か泣いた。
思い出す作業は、自分の想像以上に感情と涙腺を刺激する。
それなら何故書くのか。

一つは恐怖を忘れない事。
そしてもう一つは、説明の手間を省く事。


このブログはネットの世界の片隅で公開している。
ほとんどが通りすがりの方々だと思うが、ごく親しい友人はこのブログの存在を知っている。
その親しい友人に、現在のあくっまさんの毒にも薬にもならない状況を伝える為に、書いたのだ。

あくっまさんは11月からほとんど連絡が取れない状態になっていたが、現状は家族の事で手一杯になっている。
そして友人と実際に会った時、話すという作業が非常に骨の折れる作業なので、その苦しい作業を省く事を許して欲しい為に、書いた。


文章に起こす作業でこれだけの労力が必要なら。
実際に友人を前にしたら、あくっまさんは箍が外れてしまい、どうなるか自分でも分からない。
きっと優しい友人を困らせ、その行動を思い出した自分自身も困惑してしまうだろう。
だから優しい友人達に期待したい。
今のあくっまさんに会っても、オトンの病状やあくっま家の話を尋ねないで欲しいと。
何も尋ねないという行為の優しさに、甘えさせて欲しいと。
このブログを読んだ感想や安否を尋ねるメールも、出来るだけ控えて欲しい。
いま、家族に関する内容のメールを返すだけの気力は無い。勿論他の事は喜んで返事するが。

甘えてばかりでごめんなさい。
皆の目の前では、元気なあくっまさんでいさせて。