犬が死んで一週間。
大して泣いた訳でもないのに、会話中に突然涙が滲んだり、犬とすれ違うだけで切なくなっても、毎日仕事に行ってご飯を食べ、ジムに通っている。
意外と日常を上手に過ごせているようだ。
さすがにBlogを書く体力は無かったが、いつの間にかJリーグも開幕し、楽しみも増えた。
日常に溺れながら、悲しみを埋もれさせようかと思う。
それが手っ取り早い、自分と犬との上手な折り合いのつけ方なのだと思いついた。
開幕戦は途中まで、火葬場で見た。
ペットの火葬場は広島県F市には2つあり、自分が行くまでに父が下見をしたそうだ。
一つはタウンページでもカラーで載っている火葬場。
採掘場や、産業廃棄物処理場を抜けた山の頂上にあったという。
そこで焼かれたら、いくらなんでもペロが可哀想だと却下したらしい。
たしかに、産廃業者がやっていそうな火葬場なんて、行きたくも無い。
もう一つは人間の葬儀屋がやっている火葬場。
火葬場から下ろしたとき、雪が散らついていた。
半日経っても温もっている体を紙で出来た棺に入れ、知らないババアが焼却ボタンを押す。それだけで、母は泣きそうだった。
祖母が亡くなったとき、体はドライアイスで冷やされ死体になっていた。犬が死んだときは、毛皮があるせいか、それとも母が糞尿まみれだった体を熱いタオルで拭いて綺麗にした為か、もしかすると動き出すかもしれないと期待があった。
それでも、コークスで焼く音を聞いたらもう終わったのだと思い知らされた。
あの燃える音は忘れられない。斎場で祖母の遺体を焼いたときより、残酷な音だった。
そんな中でも骨になるまでの一時間、待合室でサッカーを見て、「今年のマリノスやばいかなー」と酷く冷静な自分がいる。
父のように動物に死に慣れている訳でもなく、母のように泣き暮れている訳でもなく、実に中途半端な自分が物悲しくすらあった。
一時間が経ち、いつの間にか雪は明けて綺麗な夕暮れが帳を下ろしている。
うちの犬はつくづくエンターティナーだと思った。
あれから一週間経った。
自転車で引っ張られているビーグル犬を見ると、もっと大切にしてやれよと思うのは前と変わらない。
以前と違うのは、どんな種類でも犬を見るたびに瞬時に脳裏をよぎる言葉があることだ。
「その犬、いつか死ぬんだぞ」
嬉しそうに子犬を抱える人にも、のんびり散歩をしている人にも、誰でも構わず言ってやりたくなる。
「死ぬんだから、今のうちにお別れの準備をしなさい」と諭したくなる。
絶対にお別れがくる。結局、自分はまだ名残惜しいのだと思う。
友人と先日話した時に気が付いたのは、どうやら自分は死に慣れていないという事だ。
友人の猫は三年サイクルで死んでしまうらしい。
慣れないとやっていけないということか。
自分の家は、一つの命に係わり過ぎている。
両親の愛情が重くて苦しくて、叫んで怒鳴って暴れる事は今の年齢でもちょくちょくある。
とどのつまり、自分も同じなのだ。
愛情を重くかけすぎている。
血は争えないのだと思うと、笑える。あんなに嫌っていても、親子で変わらない。
犬が死んで一週間。
涙は止まった。明日からは、こんなくだらない独白を書きたくない。
失礼しました。
大して泣いた訳でもないのに、会話中に突然涙が滲んだり、犬とすれ違うだけで切なくなっても、毎日仕事に行ってご飯を食べ、ジムに通っている。
意外と日常を上手に過ごせているようだ。
さすがにBlogを書く体力は無かったが、いつの間にかJリーグも開幕し、楽しみも増えた。
日常に溺れながら、悲しみを埋もれさせようかと思う。
それが手っ取り早い、自分と犬との上手な折り合いのつけ方なのだと思いついた。
開幕戦は途中まで、火葬場で見た。
ペットの火葬場は広島県F市には2つあり、自分が行くまでに父が下見をしたそうだ。
一つはタウンページでもカラーで載っている火葬場。
採掘場や、産業廃棄物処理場を抜けた山の頂上にあったという。
そこで焼かれたら、いくらなんでもペロが可哀想だと却下したらしい。
たしかに、産廃業者がやっていそうな火葬場なんて、行きたくも無い。
もう一つは人間の葬儀屋がやっている火葬場。
火葬場から下ろしたとき、雪が散らついていた。
半日経っても温もっている体を紙で出来た棺に入れ、知らないババアが焼却ボタンを押す。それだけで、母は泣きそうだった。
祖母が亡くなったとき、体はドライアイスで冷やされ死体になっていた。犬が死んだときは、毛皮があるせいか、それとも母が糞尿まみれだった体を熱いタオルで拭いて綺麗にした為か、もしかすると動き出すかもしれないと期待があった。
それでも、コークスで焼く音を聞いたらもう終わったのだと思い知らされた。
あの燃える音は忘れられない。斎場で祖母の遺体を焼いたときより、残酷な音だった。
そんな中でも骨になるまでの一時間、待合室でサッカーを見て、「今年のマリノスやばいかなー」と酷く冷静な自分がいる。
父のように動物に死に慣れている訳でもなく、母のように泣き暮れている訳でもなく、実に中途半端な自分が物悲しくすらあった。
一時間が経ち、いつの間にか雪は明けて綺麗な夕暮れが帳を下ろしている。
うちの犬はつくづくエンターティナーだと思った。
あれから一週間経った。
自転車で引っ張られているビーグル犬を見ると、もっと大切にしてやれよと思うのは前と変わらない。
以前と違うのは、どんな種類でも犬を見るたびに瞬時に脳裏をよぎる言葉があることだ。
「その犬、いつか死ぬんだぞ」
嬉しそうに子犬を抱える人にも、のんびり散歩をしている人にも、誰でも構わず言ってやりたくなる。
「死ぬんだから、今のうちにお別れの準備をしなさい」と諭したくなる。
絶対にお別れがくる。結局、自分はまだ名残惜しいのだと思う。
友人と先日話した時に気が付いたのは、どうやら自分は死に慣れていないという事だ。
友人の猫は三年サイクルで死んでしまうらしい。
慣れないとやっていけないということか。
自分の家は、一つの命に係わり過ぎている。
両親の愛情が重くて苦しくて、叫んで怒鳴って暴れる事は今の年齢でもちょくちょくある。
とどのつまり、自分も同じなのだ。
愛情を重くかけすぎている。
血は争えないのだと思うと、笑える。あんなに嫌っていても、親子で変わらない。
犬が死んで一週間。
涙は止まった。明日からは、こんなくだらない独白を書きたくない。
失礼しました。