「レスター・レヴェンソンのリリーシング」- I'm trying to show you the entire way.

Lester:「私は、あなたに全ての道を案内しようとしています。」 2015-10-04-09:45JST

Hootless? について - 02 - 中道(ちゅうどう)とは

2013-08-25 06:34:47 | 参考-話題 (opinion)
Hootless? について - 02 - 中道(ちゅうどう)とは

前の内容:
Hootless? について - 01 

Hootless is word that Lester Levenson used to describe the state where we exist without having to hold all these often conflicting wants, desires, likes and dislikes in mind. When we are hootless about something we are beyond the attraction or repulsion. The struggle is over and we are free to create anything we have a preference for.

やじがない (Hootlessness:「やじを与えていない状態」) 、かつてはレスター・レヴェンソンが、私たちがこれらのしばしば矛盾する執着(要望)を、すべて保持する必要なしに存在する領域について記述したという言葉である、好きである、また心の中の嫌悪。
(Hootless は 、レスター・レヴェンソンが、これらすべてのしばしば相反する欲求、欲望、同類と心の中で好き嫌いを保持することなく、我々が存在する状態を記述するために使用した言葉である。)
何かに関してやじがない (Hootlessness:「やじを与えていない状態」) 場合、私たちは魅力か反発作用を超えています。
努力は終わりました。また、私たちは、そのために優先権を持っているものをすべて自由に作成することができます。
(闘いは終わっています、そして、我々は好きである何でもつくるために自由です。)

参考サイト:
中道 - Wikipedia

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注記:中庸との違いについて:
中庸 - Wikipedia
 「中庸」
「中庸」という言葉は、『論語』のなかで、「中庸の徳たるや、それ至れるかな」と孔子に賛嘆されたのが文献初出と言われている。それから儒学の伝統的な中心概念として尊重されてきた。だがその論語の後段には、「民に少なくなって久しい」と言われ、この「過不足なく偏りのない」徳は修得者が少ない高度な概念でもある。

古代ギリシャでは、アリストテレスの「メソテース」ということばでそれを倫理学上の一つの徳目として尊重している。また、仏教の中道と通じる面があるとも言われるが、仏教学者によれば違う概念であるという。

アリストテレスの倫理学:幸福と中庸 - 知の快楽 哲学の森に遊ぶ

幸福に関連してアリストテレスが提出する重要な概念は「中庸」である。何事も行き過ぎてはいけないし、また不足であってもならない。幸福な状態はその中間、つまり中庸にある。

たとえば不快なものに対しては、それを恐れてはいけないし、また侮ることも危険である。その中庸をわきまえて行動することが勇気といわれる。快楽については、耽溺と鈍感との中間が節度と呼ばれる。社会生活において節度を守ることは公正につながる。といった具合である。

中道 - Wikipedia
 大乗仏教
 中論・中観
ナーガールジュナ(龍樹)は、説一切有部らを論駁する形で、「八不」(不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去)に象徴される『中論』を著し、釈迦の中道(及び縁起)の概念を独自の形で継承した。

これを引き継ぐ形で、大乗仏教の一大潮流である中観派が生まれた。

 天台宗
ナーガールジュナの『中論』や中観の概念は、中国へは三論宗としてそのまま伝わる一方、天台宗の事実上の始祖である慧文もまた、『中論』に大きな影響を受け、その思想を中諦として引き継いだ。諦とは真理という意味である。

中国で説かれた中庸と同一視されることもあるが、厳密には別のものである。中庸の「中」とは偏らないことを意味し、「庸」とは易(か)わらないこと、と説明されている。中道の「中」とは偏らないことを意味し、「道」は修行を意味するとされる。
 
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中道(ちゅうどう)とは、仏教用語で、相互に対立し矛盾する2つの極端な概念に偏らない実践(仏道修行)や認識のあり方をいう。

苦・楽のふたつをニ受(にじゅ)といい、「有る」とか「無い」という見解を二辺(にへん)というが、そのどちらにも囚われない、偏らない立場を中道という。

釈迦

 苦楽中道

たとえば、厳しい苦行やそれと反対の快楽主義に走ることなく、目的にかなった適正な修行方法をとることなどが中道である。

釈迦は、6年間(一説には7年間)に亙る厳しい苦行の末、いくら厳しい苦行をしても、これでは悟りを得ることができないとして苦行を捨てた。これを中道を覚ったという。釈迦は、苦行を捨て断食も止めて中道にもとづく修行に励み、ついに目覚めた人(=仏陀)となった。

釈迦が鹿野苑において五比丘に対して初めての説法を行った際にも(初転法輪)、この「苦楽中道」を(四諦・八正道に先んじて)真っ先に述べたことが、パーリ語経典相応部の経典などに描かれている。

「比丘たちよ、出家した者はこの2つの極端に近づいてはならない。第1に様々な対象に向かって愛欲快楽を求めること。これは低劣で卑しく世俗的な業であり、尊い道を求める者のすることではない。第2に自らの肉体的消耗を追い求めること。これは苦しく、尊い道を求める真の目的にかなわない。
比丘たちよ、私はそれら両極端を避けた中道をはっきりと悟った。これは人の眼を開き、理解を生じさせ、心の静けさ、優れた智慧、正しい悟り、涅槃のために役立つものである。」

 琴の弦(緊緩中道)

また、パーリ語経典の律蔵・犍度・大品(マハーヴァッガ)においては、釈迦が、どんなに精進しても悟りに近づけず焦燥感・絶望感を募らせていたソーナという比丘に対して、琴の弦を例えに出して、中道を説いている。

弦は、締め過ぎても、緩め過ぎても、いい音は出ない、程よく締められてこそいい音が出る、比丘の精進もそうあるべきだと釈迦に諭され、ソーナはその通りに精進し、後に悟りに至った。

 流れる丸太

また、パーリ語経典相応部のある経典では、釈迦が中道をガンガー河に流れる丸太に例えて説いている。

そこでは、釈迦が丸太を比丘(出家修行者)に例え、その流れる丸太が

こちらの岸に流れつかず (六根(六内処)に囚われることなく)
向こう岸に流れつかず (六境(六外処)に囚われることなく)
中流で沈みもせず (悦楽・欲望に囚われることなく)
中州に打ち上げられもせず (自我の妄執に囚われることなく)
人によって持ち去られもせず (社会性・人間関係(付き合い・同情)に囚われることなく)
人でないもの(鬼神)によって持ち去られもせず (神秘主義に囚われることなく)
渦に巻かれることもなく (五感による欲望にまきこまれることなく)
内部から腐敗していくこともない (偽り・欺瞞を隠して生きることがない)

ならば、海(悟り、涅槃)へと到達するであろうと説かれる。
 

参考サイト:
 過去記事:
 page=19 - Www.markettorrent.com について 
  2013-08-12 21:48:15 | 話題 (opinion) 

Chapter 8 - Setting and Attaining Your Goals
第8章 - あなたのゴールを決めて、遂げること
(第8章 - あなたのゴールをセットして、そして実現します)

Becoming “Hootless”

「Hootless」になること

We all spend much of our time either moving away from, or moving towards, the actual or potential contents of our lives as a result of our attachments and aversions. These are the real or imagined objects that we hold in awareness and grant the power to bestow or take away our natural state of happiness. Attachments are those things that we desire to hold close. Aversions are those things that we desire to hold away. In both cases, the operative word is “hold.” Since they are the leading cause of our unnecessary suffering, a primary definition of freedom would be having no attachments and no aversions.

みんなは、我々の執着と嫌悪の結果としての我々の命の実際であるか潜在的内容から離れて感動的であるか、感動的な我々の時間の多くを過ごします。
これらは、我々が認識で持って、それを幸せの自然の状態を用いるか、取る力に与える本当であるか想像された物です。
執着は、我々が親しいままでいることを望むというそれらのことです。
嫌悪は、我々が離れて保つことを望むというそれらのことです。
両方の場合とも、働いている語は、「把握」(「ホールド」)です。

それらが我々の不必要な苦しみの主要な原因であるので、自由の主要な定義には執着と嫌悪がありません。



When you set a goal and use releasing to achieve it, you bring up into your awareness the attachments and aversions that you have about that particular issue. Then, as you release your attachments and aversions to the goal, you’ll either achieve it or you won’t. But, either way, you’ll have lightened your load of suffering. You’ll become free.

それを達成することをリリースしているゴールと使用をセットしたとき、その特定の問題についてある執着と嫌悪を、あなたは認識にあげます。
それから、執着とゴールに対する嫌悪をリリースして、あなたはそれも達成します、または、あなたはそうしません。
しかし、どちらの方法ででも、あなたは苦しみの荷を明るくしました。
あなたは、自由になります。
(ゴールをセットし、それを達成するためにリリースを使用する場合、意識へ特にその問題に関して持っている執着および嫌悪を表に出します。
その後、ゴールへ執着と嫌悪をリリースするとともに、それを達成するでしょう。あるいは、達成しないでしょう。
しかし、一方の方法、苦痛の負担を明るくしているでしょう。
暇になるでしょう。)



The way results are achieved is by reaching an internal feeling state that Lester called “hootlessness.” Hootlessness is when you do not give a hoot whether you achieve a particular goal or not. Contrary to popular belief, you do not attain your goals when you desire them strongly enough. In fact, if you honestly examine your past experiences, you’ll discover that most of the goals you’ve achieved are the ones that you let go of wanting―even if not by choice. Most people focus on the struggle that leads up to the letting go and then attribute their results to the struggle rather than the release. They miss the point.

結果が達成される方法はレスターが「hootlessness」と呼んだ内部感覚状態に達することによります。
Hootlessnessは、特別のゴールを達成しても達成しなくても、いつ気にしないかです。
ポピュラーな確信に反して、それらを十分に強く望む場合、目標を実現しません。
実際、正直に過去の経験を検討すれば、達成したほとんどのゴールが不足に行かせるものであることを発見するでしょう?
選択によってなくても。
ほとんどの人々は、リードする努力に注目します、まで、行き、次に、それらの結果がリリースではなく努力に起因すると考えることをさせること
それらは的を外れています。

(レスターが「やじがない」と言った内部の感覚状態に達することによって、結果が成し遂げられる方法は、あります。Hootlessness は、特定のゴールを達成するかどうかにかかわらず、あなたがやじをあげない時です。
一般に考えられているのとは逆に、十分に強く彼らを求めるとき、あなたはゴールを遂げません。
実際、過去の経験を正直に調べるならば、達成した大部分のゴールがたとえ選択の余地によってないとしても、あなたが―を望むことで行かせた人であるということを、あなたは発見します。
それから、することまでの前例が彼らの結果の原因をリリースよりもむしろ闘いにあると考えに行く闘いに、大部分の人々は集中します。
彼らは要点をとらえそこないます。)


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