「レスター・レヴェンソンのリリーシング」- I'm trying to show you the entire way.

Lester:「私は、あなたに全ての道を案内しようとしています。」 2015-10-04-09:45JST

抵抗を手放す-10-観照者として生きる

2020-09-20 12:39:22 | 目次付きの記事(1~10)
抵抗を手放す-10-観照者として生きる 

 今回のテーマは、「観照者として生きる」についてです。 
 「観照者として生きる」には、「ものごとを、ありのままに見る。」という意味の、ヴィパッサナーを実践することです。「ものごとを、ありのままに見る。」には、「私は在る」に視点をあわせています。 

 ヴィパッサナーは、自己観察による自己変革の方法です。「今」に焦点をあわせて、過去や未来に焦点をあわせません。

1. ヴィパッサナー瞑想 

 ヴィパッサナー瞑想とは何ですか? 「ものごとを、ありのままに見る。」という意味のヴィパッサナーは、インドの最も古い瞑想法のひとつです。  

 これは、ただひたすらに、実践を続けることです。 
 ヴィパッサナーは、自己観察による自己変革の方法です。「今」に焦点をあわせて、過去や未来に焦点をあわせません。  

2. 全てを知っている領域 

 観照者 (かんしょうしゃ:注記:「実行者 (行為者) ではない」と、自覚します。) として生きることで、「全てを知っている領域」に繋がります。「全てを知っている領域」は、自然な状態 (サハジャと呼ばれる状態) です。全てであり、完全で完璧です。充足・充満していて、欠けているものは、ありません。幸福で平和です。(注記:「全てを知っている (私は在る)」と自覚します。) 

 レスター・レヴェンソンのリリーシングでは、この自然な状態 (サハジャと呼ばれる状態) を、トップステート (最高の状態、完全な自由、不動心) と表現しています。 

 レスター・レヴェンソンの講演では、レスターの生徒が、トップステート (最高の状態、完全な自由、不動心) にいる前提で話しています。この時物事は、自然に起こります。宇宙と自己は、一体です。制限 (注:制限のある思考) は、ありません。 

注記:レスター・レヴェンソンは、生徒の質問に答えて、 
 「生徒が、トップステート (最高の状態、完全な自由、不動心) にいれば、結果はすぐに起こる (現象として現れる)。しかし、生徒に制限のある思考があれば、それなりに本人の努力が必要だ。」と話しています。  

A whole and complete being has no limitations ― so therefore has no problems. 

全体で完全な存在には、制限がありません ― したがって、問題はありません。 

Problems only exist in our belief that we are not a whole and complete being. 

問題は、私たちが、全体で完全な存在ではない。という信念の中にのみ存在します。
 

Wanting is based on a lacking experience ― whether inner or outer. Wanting is based on the idea that you are not inherently whole and complete. 

 欲望は、内的であれ外的であれ、不足している経験に基づいています。 
 (欲望は、不足している経験に基づいています ― 内的であれ外的であれ。) 
求めること (欲求、欲望、願望) は、本質的に全体で完全ではないという考えに基づいています。 

For if you really knew you were whole and complete, you would not experience a lack of anything ― for by definition, being whole and complete means you lack nothing. 

 あなたが、全体で完全であることを本当に知っているなら、あなたは、何の不足も経験しないでしょう ― 定義上、全体が完全であることは、何も欠けていないことを意味します。 

So, I can see clearly now that this whole idea of wanting (whether it’s wanting approval, control or security) is all based on the (false) belief that you are not already whole and complete. 

 ですから、この (承認、制御、または、安全のいずれを必要とするか) に関するこの思考 (アイデア) 全体は、すべてが全体で完全ではないという (誤った) 信念にすべて基づいていることがはっきりとわかります。 

注記:「承認、制御、または、安全のいずれを必要とするか」について、 
 これは、思考と感情の根底にある、基本的な4つの欲求である、「承認の欲求、制御の欲求、または、安全の欲求のいずれを必要とするか」になります。 
 「分離と一体の欲求」は、承認、制御、または、安全のいずれかを手放すと自然に解放されます。  

3. 無自我の経験の背後にある真実 

 以下の質問を自分に問いかけます。  

During the first couple of days I asked internally: 

1) Do I have a Self?’ 
2) Where is my centre? 

This is what I wrote: 

最初の数日間、私は内部的に尋ねました: 

1)私の自己はいますか?」 
2)私のセンターはどこにありますか? 

これは私が書いたものです:  

4. 観照の姿勢を発達させなさい 

I Am That - ニサルガダッタ・マハラジ - 「41 - 観照の姿勢を発達させなさい」より抜粋。  

M: The causes of perversity are also natural -- heredity, environment and so on. You are too quick to condemn. Do not worry about others. Deal with your own mind first. When you realise that your mind too is a part of nature, the duality will cease. 

M:倒錯の原因も自然です -- 遺伝、環境など。あなたは、非難するには速すぎます。他人のことを心配しないでください。最初に自分の心に対処してください。あなたの心も自然の一部であることに気づくと、二元性はなくなります。  

M: Develop the witness attitude and you will find in your own experience that detachment brings control. The state of witnessing is full of power, there is nothing passive about it. 

M:観照の姿勢 (態度) を発達させれば、あなたは自分の経験から、無執着 (分離:detachment) が、制御 (支配) をもたらすことがわかります。観照している状態は、完全な力に満ちており、それについて何も受動的なことはありません。 

注記:detachment - the state of being objective or aloof. 
 客観的または孤高な状態。   

5. 参考サイト:マントラを唱える 

  • 「私は在る (I AM)」 
    3-2-1 Shadow Process+目撃者 - ウィルバー哲学に思う 2010-01-05
  •  「統合」の哲人ケン・ウィルバー 
     ウィルバーのIntegral Life Practiceのコア・モジュールの1つであるシャドウ・モジュールを読み終えました。読み応え、十分!という感触です。  
     前半は、影の説明と3-2-1 Shadow Processを使ったシャドウ・ワークが、3つの具体例を織り交ぜながら解説されていました。私も実践する中で、自分がマズローの第4段階欲求をやや抑圧していたことに気付きました。  
     後半は、これぞILPの真骨頂!というところを見せてもらいました。それが今回書きたい、『3-2-1 Shadow Process+目撃者』です。これははっきり言って、すごいです。読んでいて、「そう来たか」「さすがやね〜」「これはほんま、すごいわ」などと、何回も感じました。 

 「マントラを唱える」という、古代からの方法があります。「I am that I am.」、 「オーム・サイ・ラム」、「南無大師遍照金剛」などのマントラを唱えていると、根源 (ソース) に融合 (溶けて入る) します。  

 「I am that I am.」 「わたしは、在って在るもの」「私はそれで在るもの」「私は在る (I AM)-注:I AM は、観照者 (観照するものであり、観照されるもの)をさします」 
 シナイ山でモーセに告げられた主の御名—「わたしは有る者」— 
 「モーセは神に言った,『わたしがイスラエルの人々のところへ行って,彼らに「あなたがたの先祖の神が,わたしをあなたがたのところへつかわされました」と言うとき,彼らが「その名はなんというのですか」とわたしに聞くならば,なんと答えましょうか。』 

 神はモーセに言われた,『わたしは,有って有る者』。また言われた,『イスラエルの人々にこう言いなさい,「『わたしは有る』というかたが,わたしをあなたがたのところへつかわされました」と。』」(出エジプト3:7-8,13-14)  

 「オーム・サイ・ラム」「シルディ・サイババを称える」言葉 (真言、マントラ) です。  

 「南無大師遍照金剛」は、「空海と大日如来に帰依します」という、短いお経 (お題目、マントラ) です。 
 南無大師遍照金剛の南無は、帰依します。大師は、弘法大師空海です。遍照金剛は、大日如来 (だいにちにょらい) です。 

 遍照金剛は、「太陽のごとくすべてを照らす慈悲と、人を幸せにする仏さまの砕けることなき智慧の持ち主」という意味で、大日如来の別名です。 

 八十八箇所の歩き遍路をする人が、「南無大師遍照金剛」を唱えるのは、自分の後ろには、大日如来が控えている。弘法大師と二人で同行して、お遍路を歩く (同行二人) という意味があります。  

-----
2020-09-02 07:53:44〜2020-09-20 12:41:57 記述しました。
注記:HTML を記載したテンプレートを、使用して書いた記事です。 
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 抵抗を手放す-9-今ここに実在... | トップ | 真我を意識する-1-真我を見る »
最新の画像もっと見る

目次付きの記事(1~10)」カテゴリの最新記事