「レスター・レヴェンソンのリリーシング」- I'm trying to show you the entire way.

Lester:「私は、あなたに全ての道を案内しようとしています。」 2015-10-04-09:45JST

バガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシ

2012-06-15 20:52:14 | KEYS TO THE ULTIMATE FREEDOM
バガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシ

  「心が、絶えずその本性を識別し探究すると、
   心というものはない、ということが知られるようになる。
   外へ向けられた心は、想念と対象物に帰着するが 
   内に向けられた心はそれ自らで、真我になる
     バガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシ

 日本ラマナ協会 - 日本ラマナ協会公式Home 

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 自我 - 分離の概念 - 個である - 私

 身体と心を通して機能している私(個人)が存在するという観念をただ捨て去る

 身体と心を通して機能している私が存在しない。

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 「真我の自覚と無知」の章で、シュリー・ラマナは、身体と心を通して機能している個人が存在するという観念をただ捨て去るだけで、真我の実現は起こりうると主張しつづけている。 ほんのわずかな熟達した帰依者たちだけがこれをすばやく容易に為し遂げたが、他の者たちにとって、何らかの形式の霊的修練を積むことなしには、それはほとんど不可能に見えた。 シュリー・ラマナは彼らの苦境を理解し、真我の自覚を促す霊的修練を指導するように頼まれたときは、真我探究(ヴィチャーラ)と呼ばれるテクニックを勧めたのだった。 この修練は彼の実践的哲学の礎となっている。

 あるがままに♪ BE AS YOU ARE(あるがままに)-5 
 第4章 真我探究-理論

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 ポール・ブラントンはシュリ・ラマナ・マハリシの様子を描いている。マハリシは毎日何時間も瞑想し、五感でとらえるこの見たところ明白な現実から離れた、どこか遠いところに意識の焦点を当てているのが常だったというのだ。マハリシがこのような瞑想で彼の周りに作り出すエネルギーの場に座るだけで、ブラントンが言うには、彼自身もすべてと『一つにして全体』になった至福の状態に連れて行かれたという。
  
 インドの奥地で、流れに従う - David Icke in Japan 
 デーヴィッド・アイクニューズレター, 2008年11月09日

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 Ramana Maharshi's eye looks into No-thing.
(Explanation)
Things are dependent upon the perceiver. So 'Look into no-thing' means 'Look into from where (or from what) appears this perceiver = ego, and this inquiry (vicAra) leads to the Self (sat-cit) in which there is no-thing, no-conception, no-ego, but the bliss (Ananda). This is the essence of the teaching of Ramana Maharshi.

ラマナ・マハリシの目は、無い-ものを調べます。
(説明)
物事は知覚に依存しています。
そのように「無いものを調査する」手段、
「どこで(あるいは何から)見て、この知覚に見える。
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『どこから(または何から)見て、この知覚が表示されます。
『どこから(またはどの程度か)見て、この知覚で見えます。
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=この調査(vicAra)は無いもの、無概念、無自我が、自我(エゴ)、が存在しないた自己(SAT-CIT:存在 - 純粋意識)、至福(アーナンダ)につながります。
『無いものを調査する』。 これはラマナ・マハリシの教育の本質です。

注記)
sat : 存在、
cit : 純粋意識、
Ananda : 至福、
vicAra : ビカラ、見識、洞察力、維持された考え、識別力、保持された思考、

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Vicara (Sanskrit and Pali, also vicāra; Tibetan phonetic: chöpa) is a Buddhist term that is translated as "discernment", "sustained thinking", etc. In the Theravada tradition, it is defined as the sustained application of the mind on an object. In the Mahayana tradition, vitarka is defined as a mental factor that scrutinizes finely to discern the specific details.
  Vicara - Wikipedia, the free encyclopedia 

Vicara(サンスクリット語、パーリ語、またvicāra、表音チベット:chöpa)は 仏教上座部の伝統では、 "見識"と翻訳される用語、 "持続的な思考"など、それは上の心の持続的なアプリケーションとして定義されています。
大乗の伝統では、vitarka は、特定の細部を識別するために細かく精査する精神的要因として定義されています。
(大乗の伝統では、vitarka は特定の詳細を識別するために素晴らしく吟味する精神の要因として定義されます。)

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 悟りの階梯 - 日本テーラワーダ仏教協会
 ☆特別連載  パーリ経典を読んで初めて分かった「仏教のゴール」に到るプロセス
悟りの階梯  (悟りの道も一歩ずつ) 
 藤本 晃(慈照)文学博士・誓教寺住職
 

 悟りの段階 -01 - 日本テーラワーダ仏教協会:イザ! 
 悟りの段階 まとめ

 悟りは、四沙門果(修行者が得る四つの結果)と言われるように、四段階あります。
 預流果、一来果、不還果の順に一つずつ段階を進み、阿羅漢果で完成します。

 阿羅漢果になった人 

バガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシ
 

レスター・レヴェンソン (Lester Levenson)
カム・バクーシ
 
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