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日常あるいは平穏な日々

日々思う事をつれづれなるままに書いていこうと思います。

日常あるいは思索に耽る日々 ~現在の世界の動きについて考えてみた・続き~

2010年10月20日 | 哲学
潜在需要と健在需要について、少し説明が必要そうだったため、
この点について補足と、少し続きとなる様な内容を記します。

お金を基本とした経済活動を行っているグループは、
あらゆるサービスををお金を利用して流通する事ができます。
そのため、欲しいモノは、お金を通じて手に入れる事ができます。
しかし、お金の流通から外れたグループ(以下、非お金経済グループ)は、
欲しいモノがあったとしても、お金が無いため、
欲しいという需要は、お金経済の商業活動においては健在化せず
潜在化したままです。これを指して、先のエントリーでは、
非お金経済グループの需要は、潜在需要という言葉を利用しています。

そもそもお金というものは、需要と供給を円滑に
流通させるために生まれてきたにも関わらず、
先に指摘した環境に移行するに従い、
お金が流通しないグループ(非お金経済グループ)が生まれるために、
非お金経済グループの需要を健在化できなくなり、
需要と供給を円滑に流通できなくなります。
これを指して、お金の機能不全、という言葉を使いました。


先のエントリーに記した状況に移行したとして、
お金の流通から外れたグループ(以下、非お金経済グループ)も
生きなければなりません。
「衣食住足りて礼節を知る」は、管仲の「衣食足りて礼節を知る」
という言葉から来ているらしいですが、それはそれとして、
衣食住の中でも、生きる為に何より大切なものは「食」です。
そこで何が起こるかと考えると、非お金経済グループの多くの人は、
農業従事者になると考えられます。

例えば、江戸の時代には、国民の9割が農業従事者であったという
報告がありますが、では、その9割が農民だったかと言うと
そうでは無く百姓であって、江戸時代の百姓というのは、
今で言う兼業農家が近いです。農業に従事しながらも、
他に色々と物を作ったりするという。
非お金経済グループは、この様な百姓になるのではないかと考えています。
そうした中で、食料や必要なものを、兼業の部分で融通し合うのではないかと。
但し、その融通し合う中で、労働やサービスを流通させるためのしくみが必要になります。
そこで一つの解として、ローカル貨幣というものが、あるかも知れないとしました。

Happy Projectという贈与経済に関する勉強会の主催者の方の指摘によると、
TV番組「スタートレック」の世界には、お金というものが存在しないそうで、
彼の世界では、『我々は自分や周囲の人を高め、互いに調和する為に働く』
のだそうです。
人間社会は、こういう世界に移行できるのでしょうか?


という事で、お金について考える勉強会のお知らせです。
上記にある、Happy Project が主催する勉強会が、
10/23 にあります。
お金について、こんな考え方もあるんだよ、という事を知る
良い機会になるのではないかと思いますので、
興味を持たれた方は、是非、参加してみてください。

詳しくは、以下のリンク先を参照願います。

http://happy-project.appspot.com/news.html


ちなみに私は、参加できるかどうか、かなり怪しいですw

人の孤独を助長するもの

2008年10月04日 | 哲学
 私が良く読んでいるblog『夢幻∞大のドリーミングメディア』の中から、気になった記事を紹介。
 このblogの中の「ホームサーバの戦い」シリーズは、デジタルメディアの世界の歴史や潮流を知る上では、珠玉だと思うので、その分野に興味のある方には、お薦めしておく。 しかし、今回紹介する記事は、IT業界系とは一線を画したもの。
 『もっとパラリンピックに目を向けよう』 この中で、このblogの筆者「mugendai」氏(以下、mugendai氏)は、「山田太一著『男たちの旅路・車輪の一歩』日本放送出版協会」という本の後書きにある、著者の対談文から一部を引用しているのだが、その内容が、全く目から鱗が落ちるものだった。

山田氏 「身障者の人たちの現実を健康な方はあまり知らないということもあるのです。けれども、この『車輪の一歩』は、必ずしも、身障者の話を書いたわけではありません。

現代は非常に個人主義の時代で、他人にも迷惑をかけないかわりに自分もかけられたくない、というモラルがあって、それがある意味で人をすごく規制している。そのために非常に孤独に陥ったりするということは身障者に限らずあります。しかし、人間の生き方の中には、迷惑をかけてもこのことはやらなければいけないということはいっぱいあるわけです。組織を作るにしても、募金にしても、署名運動にしても、それは人の迷惑を考えたらやれないのです。単に身障者の話ということではなくて、そういう、もう少し普遍的なものをぼくは裏側に用意したつもりです」
(山田太一著「男たちの旅路・対談『男たちの旅路』を終えて」日本放送出版協会)


 これは、今まさに私が感じている事で、人が個人主義に陥った事で孤立化していき、孤独感を助長する要因になっているんじゃないかと思う。確かに、人に頼ったり、頼られたりというのは、お互いの関係性が生まれるわけで、そこで、自らの思うようにならない部分というのは、必ず生まれるものなのだが、人は、そこから得られるものにも目を向けるべきだと思うのだ。これは、mugendai氏が書いた別記事「『あなたとは違うんです』首相の存在感」の中で、氏が日経ビジネスオンライン「殿様”にはなれない日本の首相」から引用した、細川元首相婦人のコメントにも通じる。

細川氏 「私は、今の政治の世界の内情については、全く分かりません。ですから、福田さんがなぜ辞任を表明されたのかについては、語ることはできません。

 ただ今回の辞任で1つ言えるとしたら、また同じようなことが、今後も起こり得るということです。今の日本の首相は、常に足を引っ張られる存在だからです。何をしても、褒められるよりも批判されることの方が多いのです。

 というのも、首相になりたいと思う政治家は多いですから、野党に限らず政権を支える与党の中からも、いつか追い落としてやろうと、狙われている存在です。

(中略)

―― 日本の首相は、ご主人とは別の意味で殿様のようになれませんね。意志を貫き、強いリーダーシップを発揮するような。

 細川氏 「日本は、強いリーダーを育てるような環境にありません。能力のある人をつくっていくという暖かい眼差しがないのです。マスメディアも国民も、褒めるよりも批判ばかりで、足を引っ張ることばかり。これでは強いリーダーが生まれるはずがありません。政界、財界とあらゆる社会で人物が小粒になってきていると言われるのは、こうした日本の風土と無縁ではありません。

(中略)

 今の日本に閉塞感があるのは、夢や目標に挑戦せず、できることしかやらない人が増えているためです。魂 の抜けてしまった人が多くなったのは、教育が知識の詰め込みばかりで、何かに感動したり、他人の痛みを感じることを学ばせなくなってしまったからです。知 識偏重になったのは、企業中心、経済中心の社会になったため、効率ばかり追い求め、一人ひとりの人間にスポットが当たらなくなってしまったことも影響して いると思います


マイナスの事ばかりに目を向けていると、プラスの面が見えなくなる。そして人は、マイナスの面に目を向けて、「あれが駄目だ」「これが駄目だ」と、どんどんと貶めていく。得てして人の目は、分かり易いもの(定量的なもの)に目が行きがちで、分かり難いもの(定性的なもの)を見過ごしてしまう。それ故に、分かり難いものにこそ価値があっさえ、それがなおざりにされてしまう。行き過ぎた個人主義が生まれる背景として、細川氏の言う教育(家庭や社会(学校は、社会の一部でしかない)が育むもの)の側面は、非常に大きいと思っている。要するに、どういう事かと言うと、
「他人と相互に影響を及ぼし合う煩わしさと、それに依るプラスの側面(相互扶助など)の2つの側面に対し、直接的に分かり易く、マイナスである煩わしさに目が向くが為に、自ら孤立していく」
ということが出来るかと思う。

 これは、先日会った人と話していた事なのだが、「人(子供)を育てるために、まず大切なのは、親の愛情だ」という事。私は、子供の教育に必要なのは、家庭、学校、地域コミュニティの3本柱だと考えてるが、でも最重要は、やはり家庭なのだろう。そして家庭で愛を育むことで、相互に頼ったり、頼られたりする関係(依存や甘えとは違う)を安心して行って良いのだということを学ぶことにも繋がっていくのだと思う。

人として美しく

2008年01月05日 | 哲学
TVで、オードリー・ヘプバーンが、取り上げられる度に紹介される詩が、ずっと気になっていましたが、最近、知る機会を得たので、私も備忘録的に記しておこうと思います。

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For attractive lips, speak words of kindness.

魅力的な唇のためには
優しい言葉を紡ぐこと

For lovely eyes,
seek out the good in people.

愛らしい瞳のためには
人々の素晴らしさを見つけること

For a slim figure,
share your food with the hungry.

スリムな体のためには
飢えた人々と食べものを分かち合うこと

For beautiful hair,
let a child run his fingers through it once a day.

豊かな髪のためには
一日に一度、子供の指で梳(す)いてもらうこと

For poise,
walk with the knowledge you'll never walk alone...

美しい身ごなしのためには
決して一人で歩むことがないのだと知ること

People, even more than things,
have to be restored, renewed, revived, reclaimed,
and redeemed and redeemed and redeemed...

人は物よりもはるかに多く回復し、復活し、生きかえり、
再生し、そして、繰り返し、繰り返し、報われることが必要なのです

Never throw out anybody.

決して、投げ出してはならない

Remember, if you ever need a helping hand,
you'll find one at the end of your arm.

忘れてはならない、助けてくれる手が必要ならば、
自分の腕の先にその手があることを

As you grow older you will discover that you have two hands.

年をとると 人は自分に二つの手があることに気がつきます

One for helping yourself, the other for helping others.

一つの手は自分を助けるため
もう一つの手は他者を助けるために


作:Sam Levinson

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人として、斯くありたいものです。

※各所で訳されているものと、若干異なる点もありますが、私なりのアレンジなのでご容赦を(^^;

日常あるいは平穏な日々 ~会社の飲み会~

2007年10月18日 | 哲学
普段、仕事の事は、ほとんど書かないこのblog。
今回も会社の飲み会後の話w

飲み会後、携帯を調べると着信履歴が2件。
実家と地元の友人から。
そのどちらも同じ内容を伝えるものであったが、このショックは大きかった。

人は全てを見通す事は出来ない。
そして、全てが可能なわけでも無い。
人が無力である事を知る瞬間は、確かに存在する。

それを知った日だった。

自業自得、因果応報、身から出た錆

2007年10月11日 | 哲学
それが意図せざる行いの結果であったにせよ、行為に対する結果は、必ず返ってくる。

最近思ったのは、何かを得るには、必ず相応のコストを払っているという事について、例えば、発生しないコストもあるのでは無いかという事。それは、リスクというコストだ。そのリスクを意図的に乗り越える事で、労力としてのコストを払う場合もあるし、逆に、意図せずともリスクを知らぬ内に回避している場合があるのでは無いか?という事だ。これは、感覚的には発生していないが、確かに発生している目に見えないコストだ。

まぁ、何が言いたいかと言えば、目に見えざるコストが顕在化した時のショックは大きいな、と。

絶対的価値観の不在の認識、多様性の存在の認識、仮説と検証による意志決定。
どれも当然の事であるが、当然の事だけに忘れがちだ。
伊原 春樹 氏曰く「当たり前の事を、当たり前の様にやる」
けだし名言である。

既に今までに、何度となく繰り返してきた過ちによって胸に刺さったナイフは、しばらく抜けそうに無い。自業自得、因果応報、身から出た錆‥‥。

短気は損気

2007年07月05日 | 哲学
さて、今回は私の体験談による気付きです。
(珍しく愚痴じみてますが、許してください。本当は、ここでは、そういう事をしないよう、避けて来たんですけどねぇ)
何かというと、人間、怒りに任せてはいけないな、という事です。

声を荒げる時には、冷静な時に、
怒りの感情に支配されている時には、自らに理を説き、時をおく。

何故かというと、怒りに任せて恫喝されては、
「この人のために、何かしよう」
という気は、全く起きないです。
特に、こちらに一方的に非が無い場合には、こちらも感情的になりかねないですし、そうなったら、売り言葉に買い言葉になりかねません。しかし、それは不毛です。
もちろん、怒っている事を相手に伝える事が大切な場面もありますが、そこで感情的になっていては、いけないだろうと思ったのです。

そうされる側に立って、強く、そう思ったのです。

柔らかな心

2006年03月29日 | 哲学
さて、今日はちょっと真面目なお話。

ここ何年か「柔らかな心」を持とうと思い続けている。
その心は、
・既成概念に囚われない
・一つの考えに固執しない
・安易に反発せずに、まずは受け入れる
という事。

今は昔に比べれば、幾分「柔らかな心」に成り得たと思っているが、なかなか越えがたい壁というものが存在するのも事実。
信念というのは大切だと思うが、それを持つ事で、一つの考えに固執する事に繋がったりする。どうしても受け入れ難い事や、許し難いと思える事が起こりえる。
現在は、その狭間で苦悩中である。
自らの信念を殺してでも、柔らかくなるべきか。自らの信念を貫くべきか。
つまるところ、自分にとって、どちらを大切に思うか?
と言ってしまえば楽である。
何故か?
それが後者であると分かっているからである。
ただ、それは主観的なものでしか無い。
大局観を持って、どちらが良いのか?
という目で見たいと考えている。

今はまだ、結論が出ない。
今しばらくは、両方の道を、言ったり来たりしてみようと思う。

人は、どこまでも自分の為にしか生きられない

2005年02月12日 | 哲学
いつも、日常の事ばかり書いているので、少し真面目っぽい話題も。
内容は、タイトルの通りです。

私は、生まれてまだ30年も経ってないのですが、その人生の中で得た結論の一つとして、
「人は、どこまでも自分の為にしか生きられない」というのがあります。
これは、釈迦の言う「天上天下唯我独尊」に似ているかも知れません。
「唯我独尊」と言うと「自己中心的」という意味で使われる事がありますが、これは、全然違うという事が分かります。
例えば、私にとって友人や家族は、何よりも大切に思っているが、それらも全て自分の気持ちである。結局、人は、人を大切にする気持ちも含めて、自分の気持ちの向くままに動いているのである。
これこそが「天上天下唯我独尊」というものでしょう。

そうすると、優しい人と呼ばれるような人達というのは、どういう事なのかと考えると、結局、人に喜んで欲しいという欲求を持っている人、という事なのでしょう。その人達は、そういう欲求の為に動いている。

色々と考えると、人間にとって、この欲求こそが、本当にやっかいなものであるなぁ、と思うのです。
欲求については、また、書く機会があるかも知れません。

セキュリティについて考える

2005年02月01日 | 哲学
現在、歌舞伎町に防犯カメラが設置されたり、夜に学校のグラウンドにも入れないようにするなど、防犯に対する意識が高まっている。しかし私は、本当に、それで良いのか?と思うのだ。
今日、とある方と、そんな話題を話していたのだが、その方は、「セキュリティなんて、無ければ無いに越した事は無い」と言っていた。多少極端な表現では、あるものの私も、そう思う。例えば、上にも書いたように、夜に学校のグラウンドが一般の人も使えても良いじゃないかと思うし、歌舞伎町に防犯カメラが設置され、防犯という意味で、一定の効果をあげているようであるが、そういう場所を歩いていて、気持ち悪く無いのかな?と思うのだ。
例えば、blogであるが、このような資料もある。

http://kisosuu.cocolog-nifty.com/zakki/cat1026377/

結局、犯罪の起こる原因を解決しようとせずに、システムだけ設けても、根本的な解決には、ならないのだ。では、根本的な解決とは、何であろうか?ここに、有名で興味深い事例として、ニューヨークの取り組みがあげられる。

http://www.policyspace.com/vol7/hirayama_yoshiki_vol7.html

他にも、田舎で犯罪が少なく、都会で多いという原因には、地域一帯のコミュニケーションの情勢が、大きく関わっているとも言われ、(複雑系の見地から、自明だという話も、あるにはあるが‥‥)
この事例として、適当なものは、発見できなかったのであるが、漫画『クニミツの政』で、「少子化で空いてる教室を老人預かり所にして子どもに老人の話し相手をさせる事で、少年犯罪の件数の減少が見られた」ような事が書いてあった。資料が発見できなかったので、事の真相は定かでは無いが、十分考えられる事である。
私の個人的にな考えとしては、結局、『セキュリティの強化』<『地域社会の治安の向上』と思うわけです。その為には、地域の取り組み及び、行政のサポートが欠かせないと考えていて、具体的には、

・検挙率の向上
・軽犯罪の取り締まりの強化
・地域のコミュニケーションの醸成とコミュニティの形成
・コミュニケーション教育の推進

となるわけです。