音信

小池純代の手帖から

雑談10

2021-07-22 | 雑談
『文鏡秘府論』「地巻」に「六志(りくし)」がある。
詩で志を詠ずる六種類の方法のこと。
『文筆式』から引用したもので空海のアイデアではないそうだ。

   

『弘法大師 空海全集』第五巻 筑摩書房 興膳宏訳注
〔注〕より

直言志:ちょくげんし
 対象とする事物を、そのまままっ直ぐに詠ずる方法。
 六義の「賦」に類似する。

比附志:ひふし
 事物を譬喩に用いて身上を描く描写法。
 六義の「比」に類似する。

寄懐志:きかいし
 「寄懐」は、懐(おも)いを寄せること。
 ある事物にことよせて思いを表出し、一篇の主題とする詠法。
 六義の「興」に類似する。

起賦志:きふし
 いにしえの事跡を典故に用いた表現。

貶毀志:へんきし
 「貶毀」は、けなしそしること。
 一般的には高い価値を認められる対象について、否定的な判断
 を下し、自らの独自性を主張する方法をいう。

讃誉志:さんよし
 「讃誉」は、ほめたたえること。「貶毀志」とは逆に、通常は
 低く見られているものの中に高い価値を見出す論法をいう。



 §

備忘のためのメモ。

「直言志」は、いまで言う直叙であろうか。

「比附志」は部分的譬喩、「寄懐志」は詩全体が譬喩、
というのが小西甚一先生の『文鏡秘府論考』での見立て。

「起賦志」は本歌取りも含まれるのではないか。
「貶毀志」はノリツッコミに近いか。俳諧っぽい。
「讃誉志」はほぼ挨拶ではなかろうか。
というのはわたしの愚考。
しかしながら、現代からのバイアスをかけて眺めてみると、
中国産の分類なのに、日本の上代から近世にかけての
詩歌史の推移のように見えなくもない。
子供の知恵の発達とか、会話の上達への道のりとかの
見立てもできるだろうか。

その方法だけが用いられた一種類に分類できる一首を
事例として挙げるのはとても難しい。言葉を組み合わせる以上、
なにかとなにかの雑種になるのは避けられないのだから。
雑種だから、このように分類の軸を差し込みたくなるの
かもしれない。




コメント

雑談9

2021-07-17 | 雑談
  

『弘法大師 空海全集』題五巻「文鏡秘府論」(筑摩書房)
目次の前半。

  

目次後半。前半に続いて、西巻「論病」、北巻「論体属」の章。
「文筆眼心抄」は「文鏡秘府論」のダイジェスト版。

帯文に、
──千古の文芸理論の詳細な訳注成る!
  中国六朝から唐にかけての創作理論を体系的に編んだこの雄篇が、
  日本と中国の文芸史上に果たした貢献は実に偉大なものがある。


とある。「文鏡秘府論」は空海の著作というより編著。
かの国のかの時代の詩論、詩のお作法をまとめたもの。
訳注といえども漢字が圧倒的に多い。
わからないところは静かに伏せる。魅力のありそうなところは
背伸びして手を伸ばしてみる。そういう読み方が許される、
そのほかの読み方があるとは思えない、そういう本。

「和歌十体」とか「歌病」とか、きみたち一体どこから来たの、
という和歌の用語があって、ずっと疑問だった。
しかし、これで見当がつくかもしれない。
わからなかったとしても、これまで困らずに来たから無問題。それより
「天・地・東・南・西・北」の六つの巻で構成されていることに
まず、心うたれた。世界を立方体のサイコロのように捉えてもよいのだ。

小西甚一『文鏡秘府論考』「序説」に、

──「文鏡」とは、文自体の姿を照葉し、その是非巧拙を如実に
  観取せしめる鏡との義らしい。
──「秘府」は典籍を秘蔵する府庫のことである。
──要するに『文鏡秘府論』とは、詩文制作の鏡として多くの典籍を
  略抄した論の意と考へられる。


同じく『文鏡秘府論考』「第五章 秘府論研究の意義」で、

──秘府論が最初撰述されたときの在りかたにおいて永久的な価値を
  認めようとするのは、大師の真意を蔽ふ固執であり、千年といふ流
  れを無視する迷妄である。秘府論は、現在に生かされるときのみ、
  真にあるべき姿を照らし出す「文の鏡」であり「文の曼荼羅」であ
  り得よう。


本を捲ってみる、本のサイコロを転がしてあそんでみる、
それはいま現在に生きている人間にしかできないことだ。
並外れた浅学非才であっても、生きているということに於いて、
大切な人的資源であると自分で思わずして誰が思うだろう。




コメント

雑談8

2021-07-10 | 雑談
三人の茂吉。

              †

従来の、茂吉自身の「写生」の説に随順し、ひいては弟子、一門の徒と
してひたすら讃仰する「解説」も一つのタイプではあるが、これは一応
さておき、私は別の角度から茂吉の歌を照射し、その秘密に肉薄したか
つた。それはそのまま、短歌を含めた日本の詩歌のあるべき姿を求め探
ることであり、滅びてはならぬ美の典型を記念する道にも繋がらう。

              †

わたしは、もっぱら、斎藤茂吉が、その短歌において用いた方法のみを、
考察の対象にすることを心がけた。あるいは、次のように言った方が正
確かもしれない、茂吉の作品を通して「短歌の方法」を探求しようとし
たのだと。だから、わたしは作家としての茂吉を、ここでは、いささか
も主題として扱かう気持はもたなかった。わたしが観察しようとするの
は、歌人茂吉ではなく、純粋に作品のみである。

              †

遠からずして、オールドファンは死にたえるだろうし、直接の弟子も居
なくなるだろう。茂吉によって短歌開眼する若ものも減じてゆくだろう。
すると、研究屋たちが、ぞろぞろとのさばることになろう。
わたしは、そのときにも通ずるような、茂吉の作品の読み方の基礎的な
条件づくりをしたいと思っている。いわば、クールな眼で茂吉をよみ、
なおかつ、茂吉から、相応の糧を得る方策についておもいめぐらしてい
るのだ。そのためには伝記的事実にたよる解釈を最小限におさえて置い
て、作品そのものを、くりかえしよみ、作品と作品をつないでいる内的
連関のいくつかをさぐりあてることが必要である。

              ‡


引用の出典は上から、

塚本邦雄『茂吉秀歌 『赤光』百首』
「跋──茂吉啓明」(原文は正字表記)
  



玉城徹『茂吉の方法』
「茂吉の方法」後記
  



岡井隆『茂吉の歌 私記』
第六章「『赤光』の太陽をめぐって」
  


                







コメント

雑談7

2021-07-09 | 雑談
  
『玉城徹作品集』



  歌によつて悲しみを撥ふ『樛木』 *撥:はら

夕ぐれといふはあたかもおびただしき帽子空中を漂ふごとし




  
『汝窯』



  世 界

    世界よ世界よ世界よ世界よ
    そしてその顔はまじめで
    雲は夕空に          S・ベケット

夕ぐれといふはあたかもおびただしき帽子空中を漂ふごとし









コメント

雑談6

2021-07-08 | 雑談
『汝窯』「おくがき」にある「東西の巨匠からの引用」とは
次のようなもの。たとえば「世界」の章はベケットから。

  


陶 磁
 あらゆる芸術のなかでわたくしの知る限りもっと
 も危険率が多くて不確実な、したがってもっとも
 品格の高いものは「火炎」の神の援けをかりる諸
 芸術であろう。       P・ヴァレリー

鳥と魚
 空をとぶ魚とは自然の悪夢なのである。
              G・バシュラール


 鏡は自分の前におかれたものと同じ色彩に変るも
 のだ。      レオナルド・ダ・ヴィンチ


 「夢」は一つの第二の人生である。われわれを不
 可見の世界から隔てているこれらの象牙か又は角
 の扉を、私は戦慄を覚えずには潜れなかった。
               G・ネルヴァル

れおなるど
 可愛想に、レオナルドよ、なぜおまえはこんなに
 苦心するのか。  レオナルド・ダ・ヴィンチ

詩人たち                
 人間世界は、神々の共有器官である。詩は、われ
 われ人間をおなじく神々をも結びあわす。
                ノヴァーリス
 *詩:ポエジー

新 春
 歳開けて倏ち五日
 吾が生 行くゆく帰休せんとす
 之を念へば中懐を動がし
 辰に及んで茲の游を為す        陶淵明
 *歳開:としあ 倏:たちま 五日:いつか
  念:おも 動:ゆる
  辰:とき 茲:こ 游:いう


天 使
 斯く神其人を逐出しエデンの国の東にケルピムと
 自から旋転る焔の剣を置きて生命の樹の途を保守
 りたもう              創世記
 *旋転:まわ 剣:つるぎ 保守:まも


 結局顔の問題は距離にある。顔は、ある距離を隔
 てて見たり見られたりする。又顔は、ある環境の
 中で、顔付きを作り誘導する中枢の機械の上に現
 われる。          P・ヴァレリー

獣 類
 一体彼ら、駱駝を眺めたこともないのか、その見
 事な出来ばえを。         コーラン
 馬がないのは、何か本質的なものが欠けているこ
 とを意味する。芸術は馬とともにあるものなのだ。
              ヘンリー・ミラー

幼 孩   *えうがい
 幼い子供が揺籠で眠っている、ぼくが薄い垂れ布
 を掲げて長いあいだ見いり、手でそっと蠅を追っ
 てやる。         W・ホイットマン

哲 人
 哲学者──それは絶えず異常な事柄を体験し、見
 聞し、猜疑し、希望し、夢想する人間である。彼
 は自分自身の思想によって、外からも、上や下か
 らも、彼に特有な事件や電撃によっての如く打た
 れる。            F・ニーチェ
 *彼に:傍点あり

春 寒
 十日 春寒 門を出でず
 知らざりき 江柳の已に村に揺がんとは  蘇東坡
 *已:すで 揺:ゆる

物 語
 かかる世の故事ならでは、げに何をか紛るること
 なきつれづれをなぐさめまし。    紫式部
 *故事:ふるごと

女 性
 今を盛りと咲きほこる花の姿も打萎れ、
 黄ばんで、枯れる 時節はやがて来るだろう
            フランソワ・ヴィヨン
 永遠に女性なるもの
 我等を引きて往かしむ        ゲーテ

桜 花
 花みればそのいはれとはなけれども心のうちぞく
 るしかりける             西行

死 者
 みどりごがいつしか母の乳房を離れて生い育って
 ゆくように
 死者たちもしずかに地上のありかたをは な れゆ
 く。            R・M・リルケ

仲 春
 仲春時雨に遭い
 始雷 東隅に発す
 衆蟄 各おの潜かに駭き
 草木 縦横に舒ぶ          陶淵明
 *遭:あ 潜:ひそ 舒:の

世 界
 世界よ世界よ世界よ世界よ
 そしてその顔はまじめで
 雲は夕空に          S・ベケット

青 春
 汝は、そも、葉なりや、花なりや、幹なりや、
 おお、楽の音につれて、揺れる肉体よ、おお、き
 らめく眼くばせよ、
 我等いかにして、踊りと踊子とのけじめを悟りえ
 ようぞ。         W・B・イェイツ

夜 空
 高きもの 夜よ、そのときおまえが私を知ったの
 はおまえには恥辱ではなかった。おまえの息吹は
 私にかかった。遠方の厳粛なものに割り当てられ
 たおまえの微笑が、私の中へとはいって来 た の
 だ。            R・M・リルケ


 生命を会得づつものは誰でも花を愛し花の清浄無
 垢な愛撫を愛する   オーギュスト・ロダン

秋 興
 我は覚ゆ秋興の逸なるを、
 誰か云ふ秋興悲しと。
 山は落日を将ゐ去り、
 水は晴空と与に宜し。         李白


 畏怖は人間の最上の部分だ
 世がどのようにこの感情を評価しようとも
 彼の心は深く動いて、巨怪なるものを感じる
                   ゲーテ
樹 木
 南に樛木あり
 葛藟これを荒ふ
 楽しき君子
 福履これをおほひにす         詩経   
 *葛藟:かつるい 荒:おほ

形 態
 デッサンは形ではない。デッサンとは物の形の見
 方である。              ドガ

暴 力
 権力の極端な形態は、全員が一人に敵対するもの
 であり、暴力の極端な形態は一人が全員を敵とす
 るものである。後者は道具なしには実行で き な
 い。          ハンナ・アーレント


 地球上唯一の昔ながらにして、最古のもの、
 その触れるすべては崩壊。
 その置き去るすべては新。  P・ヴァレリー

山川人物
 夫れ画は心に従ふものなり。山川人物の秀錯、鳥
 獣草木の性情、池榭楼台の矩度、未だ深く其の理
 に入り、曲に其の態を尽す能はざれば、終に未だ
 一画の洪規を得ざるなり。       石涛
 *夫:そ 曲:つぶさ 終:つひ

昆 虫
 これほど音楽に感動しているのに、それでもやっ
 ぱり彼は一匹の虫にすぎないのか。
                 F・カフカ
自画像
 独り生きるには、獣か神でなくてはな ら ぬ──
 とアリストテレスが言う。第三の場合が足 り な
 い、人は両者でなくてはならぬ──つまり哲学者
 で……            F・ニーチェ
 *哲学者:傍点あり
 
劫 罰
 わがいたれる処には一切の光黙し、その鳴ること
 たとえば異なる風に攻められ波たちさわぐ海の如
 し                 ダンテ
 *黙:もだ

玄 冬
 日月 肯へて遅からず
 四時 相ひ催迫す
 寒風 枯条を払ひ
 落葉 長陌を掩ふ          陶淵明
 *肯:あ 四時:しいじ


複数かぞえられる「巨匠」を挙げてみる。

国別では、
フランス7名、ドイツ語圏6名、中国4名、
イタリア2名、アメリカ2名、イギリス1名。
日本からは西行、紫式部の2名。

個人では、
ヴァレリー、陶淵明が各3回、
ダ・ヴィンチ、ニーチェ、リルケ、ゲーテが各2回。

女子は、
紫式部とアーレントの2名。

出典のみは、
「創世記」「詩経」「コーラン」。

なお、
「獣類」の章は「コーラン」とシラーの二本立て。
「女性」の章も二本立てでヴィヨンとゲーテ。
どういうことでしょう。





コメント

雑談5

2021-07-07 | 雑談


  

上の日焼けが斎藤茂吉自選歌集『朝の螢』の目次のほぼ全部。
なお装幀は石井鶴三。
下の色白が玉城徹自選歌集『汝窯』の目次の一部。

『汝窯』の目次の全容は以下のとおり。

 目 次

陶磁
鳥と魚


れおなるど
詩人たち
新春
天使

獣類
幼孩(えうがい)
哲人
春寒
物語
女性
桜花
死者
仲春
世界
青春
夜空

秋興

樹木
形態
暴力

山川人物
昆虫
自画像
劫罰
玄冬

  解説 村永大和
  玉城徹略年譜
  おくがき

    装幀・加藤 陽


アイテムの列挙だけでもずいぶん多くが語られていることが
わかる。いろいろあそべる語群だと思う。
各項目をお題にして題詠にいそしむもよし、
式目にして寅彦や東洋城が試みたような変則連句にいどむもよし。

「おくがき」は一頁にたったの八行。第一歌集、第二歌集の、
 「両集の組織をできるだけ破壊しようと努めた。」とある。
さらに、

 各章のはじめに、東西の巨匠からの引用を置いたのは、
 それらの言葉をもって、わたしの作品を飾ろうとした
 わけではない。それらは、わたしが解体のために用い
 た鑪であり、工作具であった。


巨匠たちの箴言や詩句の引用を装飾ではなく、
解体の工具として用いたとのこと。
「鑪」は「ふいご」や「たたら」と読む。製錬炉を指すらしい。
工事の準備を製錬炉から始めるとはたいへんなことだ。





コメント

雑談4

2021-07-07 | 雑談
雑談に至る前のほとんどメモ。

玉城徹『汝窯』は自選歌集。1975(昭和50)年に刊行。
第一歌集『馬の首』1964(昭和37刊)、
第二歌集『樛木』1972(昭和47刊)から選んでいる。
大正13(1924)年生まれだから五十代前半の刊行。

大正14(1925)年は斎藤茂吉の自選歌集『朝の螢』が出版された年。
第一歌集『赤光』、第二歌集『あらたま』の二冊を中心に
1906(明治39)~1917(大正6)まで11年間の作品から選んだ。
四十代前半の刊行。

判型も同じ四六判で装丁に山の絵が使われているところなど
共通点がいくつかあって興味深い。

  

自選歌集ということで比較してみると、
塚本邦雄『寵歌』は第十五歌集と第十六歌集の間、六十代後半の刊行。
岡井隆『蒼穹の蜜』は第十三歌集と第十四歌集の間、六十代前半。

『寵歌』は編年体。一首ずつ作品番号を振ってどの歌集のどの章のそれか
一目瞭然なうえに索引もついている。塚本邦雄年代記とでも言おうか、
前期中期のミニ辞典というぐらいに親切な編集。

『蒼穹の蜜』は幼少期から壮年期にかけての著者影が各章の口絵に
挿まれていて一見、自伝歌集であるかのように見えるが、
構成は編集を効かせている。そう見せておいてこう見せない、
表裏比興のひとつの在り方など思う。

『汝窯』は、第一歌集、第二歌集の「組織をできるだけ破壊しようと
努めた」と「おくがき」にあるとおり「解体」して構成されている。
そこは茂吉のプチ『赤光』とプチ『あらたま』をつなげたような
『朝の螢』とは大いに異なる。







コメント