音信

小池純代の手帖から

雑談8

2021-07-10 | 雑談
三人の茂吉。

              †

従来の、茂吉自身の「写生」の説に随順し、ひいては弟子、一門の徒と
してひたすら讃仰する「解説」も一つのタイプではあるが、これは一応
さておき、私は別の角度から茂吉の歌を照射し、その秘密に肉薄したか
つた。それはそのまま、短歌を含めた日本の詩歌のあるべき姿を求め探
ることであり、滅びてはならぬ美の典型を記念する道にも繋がらう。

              †

わたしは、もっぱら、斎藤茂吉が、その短歌において用いた方法のみを、
考察の対象にすることを心がけた。あるいは、次のように言った方が正
確かもしれない、茂吉の作品を通して「短歌の方法」を探求しようとし
たのだと。だから、わたしは作家としての茂吉を、ここでは、いささか
も主題として扱かう気持はもたなかった。わたしが観察しようとするの
は、歌人茂吉ではなく、純粋に作品のみである。

              †

遠からずして、オールドファンは死にたえるだろうし、直接の弟子も居
なくなるだろう。茂吉によって短歌開眼する若ものも減じてゆくだろう。
すると、研究屋たちが、ぞろぞろとのさばることになろう。
わたしは、そのときにも通ずるような、茂吉の作品の読み方の基礎的な
条件づくりをしたいと思っている。いわば、クールな眼で茂吉をよみ、
なおかつ、茂吉から、相応の糧を得る方策についておもいめぐらしてい
るのだ。そのためには伝記的事実にたよる解釈を最小限におさえて置い
て、作品そのものを、くりかえしよみ、作品と作品をつないでいる内的
連関のいくつかをさぐりあてることが必要である。

              ‡


引用の出典は上から、

塚本邦雄『茂吉秀歌 『赤光』百首』
「跋──茂吉啓明」(原文は正字表記)
  



玉城徹『茂吉の方法』
「茂吉の方法」後記
  



岡井隆『茂吉の歌 私記』
第六章「『赤光』の太陽をめぐって」
  


                







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