音信

小池純代の手帖から

雑談31

2021-10-24 | 雑談


 月のひかり満つれば、
 常盤樹はいよいよ暗し。

 冬夜空、高ければ、
 その姿、いよいよ深し。

 風みちよ、ざわめき明り、
 その葉ずれ、いよよひそけし。
 
 粉の雪の、散らふ明りに、  粉:こ
 あはれ、葉の冴ゆる一むら。

     玉城徹「常盤樹:ときはぎ」詩集『春の氷雪』より


画像は『玉城徹作品集』(1981年刊)から。
『春の氷雪』は1947年刊。
昭和18(1943)年から21(1946)年までの作品を
収めたもの。

特に定型の美観ゆたかな「常盤樹」を引いてみたのだが、
くらべてみれば「萵苣 長歌一首ならびに反歌」(2002年初出)
の種子、原型、成分といったものがすぐそこに見えてくる。

これも、

 薔薇ノ木ニ 
 薔薇ノ花サク。

 ナニゴトノ不思議ナケレド
           白秋「薔薇二曲」より

というものだろうか。



  『玉城徹作品集』
  

  
  玉城徹『枇杷の花』「萵苣」所収

どちらも「徹」のサインが本体の装幀に使われている。
大きな違いはないが、別もの。
そのときそのときの筆跡と思しい。



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雑談30

2021-10-23 | 雑談
本日は萵苣とゲーテの引用祭り。


  萵苣  長歌一首ならびに反歌
               玉城徹

 みんなみの シチリアの野の
 玉ぢさを
 ゲーテぞ噉ふ

 讃ふらく その玉ぢさの
 やはらかに
 乳のごとしと

 シチリアの
 野に照るひかり
 恋ひざるに われはあらねど

 大いなる
 ゲーテのまなこ
 恋ひざるに われはあらねど

 わが恋は
 もとなかかれり
   その玉ぢさに
   その玉ぢさに

  反歌
 北国の旅人ゲーテ玉ぢさを食ひをはりけりその玉ぢさを

  †

 
  ゲーテ『イタリア紀行』 
    
 シチリアなしのイタリアというものは、われわれの心中に
 何らの表象をも作らない。シチリアにこそすべてに対する
 鍵があるのだ。
       ───
 気候のいいことは、いくら褒めても足りないほどである。
 今は雨の季節だが、それでも晴れ間がある。今日は雷が鳴
 稲妻がひらめいた。すべてのものは勢よく緑を深めてゆく。
       ───
 この土地の飲食物について、私はまだ何も言わなかったが、
 どうして馬鹿にならない項目である。野菜は上等で、特に
 サラダは柔らかくかつ美味しくまるで牛乳のようであり、
 昔の人がこれをラクトゥカと呼んでいたわけもうなずき得
 る。 
    (「シチリア(一七八七年三月から五月まで」より)
          ゲーテ『イタリア紀行』相良守峯訳

 †

「柔らかく美味しくまるで牛乳」のような上等な
「ラクトゥカ」と呼ばれていた野菜が「萵苣」。
Lactucaは「Lac」(牛乳)から生じたラテン語。
レタスのことだが、サラダ菜やサンチュなども仲間に
含まれるようだ。

ゲーテのシチリア恋を萵苣に集中させて、
その萵苣を恋ひ、ゲーテを恋ふというのが、この
「萵苣 長歌一首ならびに反歌」の組み方であろうか。

意識的かどうか、韻、とくに脚韻の脚捌きのよさも
見どころ。



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雑談29

2021-10-21 | 雑談

  
  塚本邦雄『異国美味帖』
  装画:ジャン・シメオン・シャルダン「桃の籠とぶどう」


  
  塚本邦雄『ほろにが菜時記』
  カバー画:岩崎灌園『本草図譜』より


装幀はどちらも間村俊一氏。

『異国美味帖』は洋物中心で「芹」はない。
欧米ではあまり食されていないらしい。
芹によく似た「クレッソン」の章がある。

はっとしたのは「萵苣:チシャ」の章。
野菜のことより、ゲーテ『イタリア紀行』についての
記述が多め。

 †

「萵苣」「ゲーテ」といえば、この絶品長歌。

  
  
  玉城徹「萵苣」
  『枇杷の花』

  




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雑談28

2021-10-13 | 雑談
「芹」そのものの記述を拾ってみた。

 
 塚本邦雄『ほろにが菜時記』

「菜時記」なだけあって「新年・春・夏・秋・冬・雑」の部立て。
「春」に「芹とその仲間」の項目があって、こんなことが
書いてある。

野生の芹の摘み方。猛毒の毒芹が混ざっているので要注意のこと。
芹の料理の仕方。おひたしがお好みだそうで、芹は大好物。
お庭に植えたところ繁茂し過ぎて根絶に手をやいたという逸話。

日本の詩歌史のあちこちに香り高く顔を出す「芹」の紹介も
欠かさずあるけれども、こういったお話が混ざっているのは
微笑ましい。

 †

 
 岡井隆『犀の独言』

この本で塚本の歌の「くせ」が次のように析出されている。

ひとつには、硬質の名詞、その観念性。
二つめは、句またがり(概念のまたがり)。
三つめは、相対峙する二要素の対立と対照。

1984年の記述。いずれもすでに自明とされている「くせ」だが、
あとひとつ、「主題そのものの「くせ」」があるという。
たとえば、
             再:ま
  雉食へばましてしのばゆ再た娶りあかあかと冬も半裸のピカソ
                   塚本邦雄『緑色研究』

を挙げて、
  
  塚本邦雄の歌によって、わたしたちは、いろいろなものを
  食べさせられ、味わわされた。味覚の開発という、副主題
  によって、主題に迫る方法といっていいであろう。
  観念性によって天空をかけさろうとする塚本邦雄の歌を、
  からくも地上へひきとめている感覚的実在といってよかろう。
     (「歌人における「くせ」の研究」『犀の独言』より)


「胃袋を掴まれる」は、こういうときにも言えるだろうか。



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雑談27

2021-10-11 | 雑談
芹の続き。

「叡知の蛇──茂吉における定家嫌悪症由来」を読むつもりで

 塚本邦雄『花月五百年 新古今天才論』
     文庫/単行本

   
 
を開いたところ、
植物および食物、食物かつ植物、植物すなわち食物、
に関する記述が予想される項目が目次に並んでいた。
目を奪われている間に「叡知の蛇」はどこかに隠れてしまった。

とくに「Ⅲ 古典萬華鏡」の章は植物、食物が目白押し。


そのうちのひとつに、やはりあった芹の一文のタイトルがこれ。

「献芹物語──菜を摘まば沢に根芹や」
漢字はすべて正字)。

「献芹」は、中国産の熟語で、
「長上に意見を具申し、物品を呈上する時の遜称」。
「ありふれた野菜を差上げるとの心」
を表すという。
歌語「芹を摘む」の慣用的な意味からは離れているようでどこかしら近い。

芹の和歌の用例多数。二首のみ引く。
どちらも叶わぬ適わぬ敵わぬ恋の歌。


  芹摘みし沢辺の蛍おのれまたあらはに燃ゆと誰に見すらむ
                      藤原定家

  せりなづな恋の病の飲食の日々金糸雀に肖つつしあはれ
                      塚本邦雄『黒曜帖』

         病:やまひ 飲食:おんじき 金糸雀:カナリア




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