音信

小池純代の手帖から

雑談26

2021-09-28 | 雑談
「芹を摘む」散歩が「寄芹戀」に至るまでに、
そこそこの紆余曲折があった。記録しておく。

 塚本邦雄『鑑賞古典歌謡 君が愛せし』
  →『閑吟集』
  →『梁塵秘抄』
    ↓
  『鑑賞日本古典文学』第15巻 
   歌謡Ⅱ 梁塵秘抄・閑吟集他
    ↓
  『鑑賞日本古典文学』第24巻 
   中世評論集
    ↓
 塚本邦雄『非在の鴫』「寄芹戀」

『鑑賞日本古典文学』の巻末には「☆読書ノート」の
コーナーがあり、歌人、俳人、詩人、小説家ほか、
古典文学専門の学者とはひと味違う書き手が執筆。

「歌謡Ⅱ」は岡井隆、「歌謡Ⅰ」は玉城徹。
となれば、塚本邦雄はどの巻だろうと辿ることになる。
「中世評論集」で「綺語禁断」を執筆しておられた。
その「綺語禁断」所収の本が『非在の鴫」。

これでようやく「寄芹戀」に出合えたのだった。
そこそこの紆余曲折とはこのあたりのうろうろのこと。

「歌謡Ⅰ」「歌謡Ⅱ」を並べてみた。

 
 青の帯が 『鑑賞日本古典文学』第4巻 
   歌謡Ⅰ 記紀歌謡・神楽歌・催馬楽

 橙の帯が『鑑賞日本古典文学』第15巻 
   歌謡Ⅱ 梁塵秘抄・閑吟集他

以下、この二つの巻から「☆読書ノート」の書き抜きメモを少し。

 『鑑賞日本古典文学』第15巻 
  歌謡Ⅱ 梁塵秘抄・閑吟集他

 ☆読書ノート「こゑわざの悲しき」─秘抄覚え書─ 岡井隆

 一 文字芸術と音声芸術
 二 讃美歌を連想する
 三 僧の歌とアララギ派
 四 破調と結句
 五 性風俗のなぐさめ
 六 疑問一つ、妄想一つ


 †
いかにも、ならではの六つの抽斗。
「三 僧の歌とアララギ派」では茂吉が㝫応和尚を歌った五首が
採りあげられている。

対するに、

  『鑑賞日本古典文学』第4巻 
   歌謡Ⅰ 記紀歌謡・神楽歌・催馬楽

  ☆読書ノート「美としての記紀歌謡」玉城徹


こちらは項目立てなし。目についたことばを引いておく。

 ・記紀歌謡と万葉の歌
 ・少年時からの記紀歌謡愛誦の歴史
 ・青山学院中学部
 ・北原白秋「古代新頌」「水上」
 ・記紀歌謡的表現原理
 ・具体的な言語組織としてあらわれた「美」の構造

並べてみると、
玉城徹が梁塵秘抄の歌謡Ⅱで白秋を、
岡井隆が記紀歌謡の歌謡Ⅰで茂吉を、それぞれ扱っても
不思議はない。どちらかといえばそちらの方が思いつき
やすい。
編者のちょっとしたひねり技だったのだろうか。
ほのかにお洒落な斜め感。




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日々の微々 210919

2021-09-19 | 歌帖
  日々の微々 210919


あとすこし風が吹いたら飛びさうな印象派的秋のきんいろ

香水の小壜に刺さる夕光り香りのほかの翳りを放つ

きえぎえとなりてゆめおち ゆめもおちもおちてゆくなりゆきの如くに

ことばのことばかりを思ひことのこと思はずにをり 未だしいまだし

巣ごもりの巣は羽まみれ羽まくらわすれしゆめのしるしふかふか



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雑談25

2021-09-14 | 雑談

 
 塚本邦雄『非在の鴫』箱と本体。


芹のせまり合いのみならず
「和歌と歌謡の鬩ぎ合ひ、かつは交霊」
及び『夕暮の階調』後の西行論ほか歌論ひしめき合う一冊に、
おいしいお菓子を発見した。

厭酒談義の相手に、

 取つておきの菓子、たとへば鎰屋政秋の「常盤木」などを進める

というくだり。
「鎰屋政秋」は現在の「かぎや政秋」、
「常盤木」はいまの「ときわ木」。
つまり「雑談20」で連想した、あの「黄檗」と同じく
「かぎや政秋」の逸品なのだ。

 
「かぎや政秋~ときわ木~」
 画像は「かぎや政秋」さんから拝借。

「黄檗」が「唐菓の古風を残した素朴な銘菓」なのに対して
「ときわ木」は「風味ゆたかな京菓子」とのこと。

漢詩と和歌の風味を、歌謡のお茶とともに味わいたい。




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雑談24

2021-09-13 | 雑談
塚本邦雄『君が愛せし』から摘んできた「根芹」の歌。

  
  『閑吟集』小歌3

  
  『梁塵秘抄』425

この歌の「聖」は僧侶一般の尊称。
「菜食主義の、唐様の調理も辨へた僧は、かうして、
寺内や市中では揃はぬ材料を、若い弟子達に調達させたのだ。」
とある。

そういうわけで沼で僧が芹を摘んでいてもそれは
不思議ではないのだった。

  †

秋だというのに芹探しの散歩をしてきたが、ここであっけなく、
芹摘み放題の文章にたどりついた。

 
 塚本邦雄『非在の鴫』

タイトルは「寄芹戀:せりによするこひ」。

催馬楽の謡から、万葉の歌、枕草子の一節、八代集の歌、
そのほか例の慣用歌語としての「芹摘む」などなど。
詩句の芹が繁茂している。

 

『非在の鴫』の本体と箱の真っ白な背中。
ISBN、定価などのデータは箱の底に印字されている。



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雑談23

2021-09-09 | 雑談

ひきつづき芹さがし。歌謡から。

  


 塚本邦雄『君が愛せし 鑑賞古典歌謡』
 政田岑生さんの装幀がほんとうにきれい。


『閑吟集』の部の鑑賞に、のっけから芹が登場した。

 菜を摘まば、沢に根芹や、峰に虎杖、鹿の立ち隠れ
   根芹:ねぜり 虎杖:いたどり 立隠:たちかく





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雑談22

2021-09-07 | 雑談
   故知らね 囁沼に芹を摘む 黄檗の僧ふり向きにけり
         囁沼:ささやきぬま 摘:つ

        岡井隆「鵞卵亭昨今」『マニエリスムの旅』(1980年刊)

ところで「芹」は春の季語。歳時記の解説からいくつか。

──────────────────────────────
【芹】三春

◎湿地や、浅い水に群がって自生する。
◎葉は分裂が多く、根は白く柔らかく細長い。葉も根も香気が高い。
◎春の七草の一つであり、その若葉を摘む。
◎「せりあう・せりだす・せりあげる」の「せり」と同じ意。
 摘んでも摘んでも競うように盛んに生えることから「せり」。
 また、一箇所にせまりあって生えることから「せ(ま)り→せり」。
 諸説あり。
◎異名に「つみまし草」がある。
──────────────────────────────

「芹摘み」も関連する季語として扱われているが、
慣用的歌語からは相当離れている。

名前からして春の旺盛で新鮮な生命力が連想される季語「芹」。
調べていたら次の句が気になった。

 わが死後の班女が掬ふ芹の水  佐藤鬼房

『鵞卵亭』「西行に寄せる断章」に混ぜてみるとどんなだろう、とか、
そういえば「恋重荷」「綾鼓」も「班女」も謡曲だった、とか、
そういう気になり方。
「芹」が詩句に及ぼす「芹力:せりぢから」、存外つよいのかも。

閑話休題:それはさておき。




岡井隆『マニエリスムの旅』「あとがき」。


初出では三行詩として発表された一首の例として挙げられている。

 故知らね
 囁沼に芹を摘     摘:つむ
 黄檗の僧ふりむきにけり


「故知らね囁沼に芹を摘:つむ」の五七五に、
「黄檗の僧ふりむきにけり」の七七を付けたものと思しい。

「上下句の、あまりに明瞭な対照を、あえて中和せず」とあるが、
「故知らね」の初句によって混濁に近い融和が生じているようにも見える。

音韻だけ拾ってゆくと音同士の唱和が見えてくるようだ。
「ゆゑしらね」のe音の斜め切りは「せり」のei音の前触れ。
上の句のe音とa音の際立ちに対して、下の句のo音とu音の底籠り。
i音は、このたびは落ち着いて働き、初句から結句まで弥縫する。
s音とr音の可憐な鎬合せはそのまま水辺の芹の香気を思わせる。

と、このように書くと「黄檗」がひとりきりになってしまう。
下の句ou音の先触れではあるものの。「僧」が
受け止めてはくれているものの。

だから、ふりむいてこちらを見ているんだろうか。



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雑談21

2021-09-04 | 雑談
      

   故知らね 囁沼に芹を摘む 黄檗の僧ふり向きにけり
         囁沼:ささやきぬま 摘:つ

               岡井隆「鵞卵亭昨今」『マニエリスムの旅』(1980年刊)


「囁沼」は「おさびし山」に類する造語だと思われる。
黄檗宗の修行僧が普茶料理のために芹を摘んでいるというような
のどかな解釈だけに終わらせることは、初句「故知らね」が
許さないだろう。

「芹摘む」は「思いがかなわない、報われないことを表す所作」。
平安時代以後の歌語。
古歌「芹つみし昔の人も我がことや心に物はかなはざりけむ」が
『枕草子』『源氏物語』にも登場する。

芹を召し上がる后を御簾の隙から見て恋に落ちた宮中の
庭掃除の男、芹を摘んで御簾の周辺に置くが、願い叶わず
焦がれ死にしたという故事によるもの。
と辞書にある。

歌論集『俊頼髄脳』などに記され、
謡曲「恋重荷」「綾鼓」の典拠とも言われる。
といったことが白洲正子『西行』に書いてある。


西行の「芹を摘む」歌は次の二首。

 何となく芹と聞くこそあはれなれつみけむ人の心しられて    『山家集』

   〈若菜によせて恋をよみける〉
 ななくさに芹ありけりとみるからにぬれけむ袖のつまれぬるかな 『聞書集』


そういえば『鵞卵亭』に「西行に寄せる断章」があった。

      

   王国はあけぼのの邑芹を摘むむかしむかしの武士にやあらむ

          「西行に寄せる断章・他 一 鴫と噂」『鵞卵亭』(1975年刊)


なんと。芹を摘んでいる。



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雑談20

2021-09-01 | 雑談
  

ひきつづき『雪竇頌古』を摘まみ読み。「黄檗:おうばく」ということばが出てきた。

調べると、植物、生薬、禅宗の黄檗宗、普茶料理など、幅広く意味が出てくる。
しかし、まず思い出されたのが、このお菓子。

  

かぎや政秋」さんから画像拝借。

「唐菓の古風を残した素朴な銘菓」とのこと。「唐菓の古風」をいまの日本で
味わえてありがたい。


『雪竇頌古』に登場するのは禅僧、黄檗希運(?ー850頃)。
百丈懐海に師事、弟子に臨済義玄。黄檗山を開いた。
『伝燈録』から、こんなことばが一場面とともに示されている。


 檗云、不道無禅、只是無師。

 黄檗和尚が大衆に向けて言った。
 「あなたたちの修行はなってない。大唐国に禅の師匠など一人もいない」。
 ひとりの僧が言った。
 「では、あちこちで弟子を集めて教えている人たちは何なのですか」。
 黄檗は言った。
 「不道無禅、只是無師(禅がないとは言わない。師匠がいないのだ)」。


よくブーメランが刺さらなかったなと思うが、そういえば藤原定家も
似たようなことを『詠歌大概』に書いていた。

 和歌無師匠只以旧歌為師

 和歌に師匠なし。ただ旧歌を以て師と為す。


もうひとつ、「黄檗」で思い出したのが次の一首。


 故知らね 囁沼に芹を摘む 黄檗の僧ふり向きにけり
       囁沼:ささやきぬま 摘:つ

                 岡井隆『マニエリスムの旅』


      



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雑談19

2021-09-01 | 雑談

『雪竇頌古』に『趙州録』からの引用があった。

 挙。僧問趙州、如何是趙州。州云、東門南門西門北門。

「挙。」は「引用しました」の目印。
句の意味は非常にシンプルで、だいたいこんな感じ。

 僧が趙州に問うた。
 「趙州とはどのようなものですか」。
 趙州は言った。
 「東門南門、西門北門」。

「趙州」は、
「趙州従諗:じょうしゅう じゅうしん」、唐の禅僧の名前でもあり、
いまの河北省西部にあった都市の名前「趙州:ちょうしゅう」でもある。

「横浜中華街とはどのようなものですか」と尋ねて、
「東に朝陽門、南に朱雀門、西に延平門、北に玄武門」
と答えたら親切かもしれない。

「東に東門、南に南門、西に西門、北に北門」は
果たして答えになっているのかどうか。

このにべもない答え方、そして「東門南門、西門北門」から
連想されるのが、


  

  

   「雲 長歌並びに反歌一首」『石榴が二つ』より


作者の記憶や意識のどこかに、趙州の公案があったのかどうかはともかく、
この長歌の対句構成は長歌らしくもあり、漢詩らしくもある。

「白のかがやき」から「かがやきの白」への乗り換え方や、
「ほがらかに寂しき」のオクシモロンのとぼけ方は
禅っぽくもあり、俳諧っぽくもある。

 東門 西門 南門 北門

縦表記の門四つのあとの
「かの市や その人や」から
「越えゆくは誰そ 去りゆくは誰そ」に至るまでの
押韻と反復のうたいっぷりを、にこにこと堪能したあと、

 東門
 西門
 南門
 北門


横表記の四つの門。
縦横クロスさせれば立派な都大路の完成だ。
ここはくすくす笑っていいところだろう。

ダンテの『神曲』「地獄の門」の連想も働くが、
この日頃、地獄のことは考えたくない。
「うすうすとくれなゐ」の微笑を帯びて読みたいと思う。

  

   玉城徹『石榴が二つ』



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