音信

小池純代の手帖から

雑談18

2021-08-29 | 雑談
   

大拙『東洋的な見方』から雪竇の詩、孫引き。

   春山畳乱青
   春水漾虚碧
   寥寥天地間
   独立望何極



翻案してみた。


 みだれつつたたなづきつつ春の山

 たたへつつただよひにつつ春の水

 あめもつちもあめつちのあひも無に満ちて

 ここにいまあることのほかなにもなし




色がどこかに消えてしまった。




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雑談17

2021-08-27 | 雑談
つんどく山で捜し物をしていると、枯れた葉っぱか熟れた実のように
本が落ちてくることがある。

喩えではなく、ほんとうに足元に落っこちてくる。
捨て身で存在を示しているのかもしれない。
なにかのご縁だと思って手にとってみる。

今回、落ちてきたのは岩波文庫の青帯『碧巌録』上巻。
我がつんどく山のなかでも古株で、最高峰のひとつだ。
つんどく山には最高峰がいくつもある。

   

開いてみたものの、読みにくい。
北宋初期の雪竇(せっちょう)が数々の禅録から選んだ公案に賛を付けた編著に対して、
北宋晩期の圓悟(えんご)が解説・論評・短評といった各種のコメントをかぶせた編著。
雪竇の文の句間に圓悟が〔 〕で割り込んでツッコミを入れていたりしてそわそわする。
つまり読みにくい。

声優さんに声色を各種使って読み分けてくれると
おもしろいのかもしれないし、
頭注や脚注やフォントの大小やフキダシなどで
レイアウトを工夫してくれれば、
意外とすっきり読めるのかもしれないが、そうなってはいない。
つまりわたしには読みにくい。

溝口雄三先生の「解題」に、
「調和と反調和の機妙と緊張がかもしだされているかにみえる」
とある。
つまり読みにくいと思ってよいのだろう。

溝口先生は、「解題」で次の本を紹介してくれている。
もともとはこの本が『碧巌録』の土台なのだ。


   
  入矢義高・梶谷宗忍・柳田聖山『雪竇頌古』(筑摩書房1981年)


つまみ読みしただけだが、いくつかの公案に滑稽な魅力を感じた。
稲垣足穂の『一千一秒物語』とか、不条理コントの類いに近いようだ。

禅僧たちはこんな言葉の贈答をして心底愉快に
修行していたのではないかとも思われた。
彼らは大いにたのしむべく、けっして笑わなかったのではなかろうか。
知らないけれど。




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日々の微々 210817

2021-08-17 | 歌帖
     〈二月堂に籠りて〉

    水とりや氷の僧の沓の音   芭蕉

「沓の音」が聞ける動画を見られてありがたし。
    奈良・東大寺修二会
「水・氷・沓」「僧・沓・音」の「水」と「日」の変容にのみ
目を奪われていたが、激しい「音」が響いていたのだった。

          †

 しなくてもよいことのその最たるが秘儀としてただただありがたき


 たぐひなき五体投地にたぐへてや氷割る音籠り解く音


 闇は火を呼び火は闇に呼ばれゐつ赫赫たりし大悲大日


 ともしびとよろこびが綯ひあはさりぬことばもこゑも意味をわすれて



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日々の微々 210815

2021-08-15 | 歌帖
  日々の微々 210815


みつみつし汲めどつきせぬみそかごと国旗万国旗吾ガ事ニ非ズ


悲田所にふさはしき田よ千代にあれ光明皇后慈悲垂れたまへ


あをによし寧楽のみやこの路のおく薬師如来よ御目あげたまへ
     寧楽:なら           御目:おめ

いや遠に風こそ吹かめいや果てに波こそ寄せめ地表いちまい


塩壺をこぼせばちらばる塩の星彼方此方の友に障りあらすな
              彼方此方:をちこち





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雑談16

2021-08-14 | 雑談

『赤光』に「赤光」が、まるまる初句で出てくるのは次の二首。

 赤光のなかに浮びて棺ひとつ行き遥けかり野は涯ならん
 *赤光:しやくくわう 棺:くわん 遥:はる 涯:はて

 赤光のなかの歩みはひそか夜の細きかほそきゆめごころかな
 *赤光:しやくくわう       

初版『赤光』の跋文に「赤光」の説明がある。

 本書の「赤光」という名は仏説阿弥陀経から採ったのである。彼の
 経典には「池中蓮華大如車輪青色青光赤色赤光白色白光微妙香潔」
 というところがある。


幼児期、遊び仲間の雛法師(子どもの僧侶)が、
「しゃくしき、しゃっこう、びゃくしき、びゃっこう」
と遊びながら暗誦しているのを聞き覚えたのが最初なのだそうで、
「シャッコウ」が「赤い光」なのを知ったのは上京後、
『新刻訓点浄土三部妙典』を手に入れてからのこと。

まず耳から「シャッコウ」、そして文字の「赤光」、
それから極楽浄土の「赤い光」の色とイメージと意味。
この順で茂吉の胸中に赤光は入っていったのだろう。

 白き華しろくかがやき赤き華あかき光を放ちゐるところ
   華:はな       「地獄極楽図」『赤光』

地獄極楽の極楽部門の「あかき光」は、存外深いところで
茂吉の「赤」と「光」を支えていたのではなかろうか。

「赤光のなか~」の二首はあまり脚光を浴びていないようだ。
茂吉自身、自選歌集『朝の螢』に選んでいない。

でも、現世での赤い夕光であると同時に、極楽浄土の赤い光でも
あるのだろうから、も少しありがたく思ってもよさそうな。

野辺の送りの棺の極楽行きへの確信と祈り、とか、
当時はまだ刊行されていないけれども『梁塵秘抄』の、

 「仏は常にいませどもうつつならぬぞあはれなる
 人の音せぬ暁にほのかに夢に見えたまふ」


にも通じる、ひっそりしたフラジリティとか、
「はるけかり・はてならん」、「ほそき・かほそき」といった、
着くか着かぬかぐらいの音の反復、とか。

茂吉の持つ歌謡性の脆弱さ、そのよろしさを賞味したくなりはすまいか。

 

新潮文庫の『赤光』の表紙。
お洒落な「のど赤きつばくらめ」の画。



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雑談15

2021-08-12 | 雑談

北杜夫『幽霊』に、主人公の「ぼく」が蛾を殺す場面がある。
「少女にもなりきらない年齢の姉」が病臥する部屋を出て、
裏庭のミズキの幹に卵をうみつけている蛾を見つける。

 やがてぼくは臆病な手つきで蛾を地面にはらいおとし、
 ちからをこめて下駄で踏みにじってしまった。黄いろい
 汁が白い腹を汚し、そのうえを泥土が汚した。蛾の形が
 すっかりなくなってしまうと、ぼくはようやく安堵した
 ような気になった。
  とにかく、それから半日とたたないうちに、姉が死ん
 でいったのは事実である。(*ルビ略)
                北杜夫『幽霊』第二章


作中、「姉」の死以前に「父」が東北の辺鄙な町で病死し、
出奔したとされている「母」がおそらく亡くなっている。
さまざまな「死」への意識が幼少期の「ぼく」に去来するなか、
産卵中の蛾を殺す場面。

『幽霊』もそうだが、『赤光』にも「死」が頻出する。
『赤光』初版の巻頭「悲報来」では、伊藤左千夫の訃報を受けて
茂吉は夜道をひた走る。(その際、飛ぶ蛍を手で殺している)。
左千夫の死を皮切りに、受け持っていた患者の死は一再ならず、
「母」の死、目をかけていた「おくに」の死、正岡子規の十周忌、
夭折した「堀内卓」。

北杜夫『青年茂吉「赤光」「あらたま」時代』によると、筆者は、
父・茂吉の歌によって文学への目を開かされ、『赤光』『あらたま』の
歌を大学ノートにびっしり筆写した、という。
筆写によって転写されるものは文字や情報だけではないだろう。

  

なお、この本に「ゴオガンの自画像見れば」の一首への
筆者自身による解説、鑑賞は見つからない。




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雑談14

2021-08-09 | 雑談
  ゴオガンの自畫像みればみちのくに山蠶殺ししその日おもほゆ
                  山蠶:やまこ

ゴオガンの自画像を引き金にした「その日」の追憶、
もしくは「その日」の湧出。そのインデックスとしての「山蚕」。
この一首は追想空間のオブジェ化なのではないか、
というひとつの見方を記しておく。

O母音の連打にも触れておく。
一、二句の濁音の雪崩が「みちのく」以後、澄んだ音になってゆく。
「その日」の「そ」のS音でちょっとほっとするところがある。
しかし、「そ」を導き出すのが「殺しし」のS音のペアなのだ。

さらにもう少し。
「ころし」と「そのひ」が同じOOI母音。
「ころし・し・そのひ」と「し」を要に扇が右端と左端に
開いてゆくところも微妙にして絶妙な音の景色。

虫殺しについて少し。

「山蚕」が幼虫なのか成虫なのかは不明。
単数なのか複数なのかも不明。

いたぶった結果、死に至らしめたのか、
飼ってみようと持ち帰ったものの餌やりに失敗したのか、
うっかり踏み潰したのか。
一人だったのか、仲間とだったのか。

強烈な体験の記憶として残っているのか、
日常的な経験の記憶のひとつなのか、それも不明。

茂吉の随筆に蚯蚓を踏み潰した記述がある。
かいつまんで言うとこういうことだ。

 初冬の或る日、友だちと信濃の温泉に行った。
 林間の小道で、蚯蚓が日向と日陰の間で迷っていた。
 日差しが強いから、湿気のある日陰に入ればいいのに、
 と三十分ほど茂吉は念じながら眺めていた。
 蚯蚓は輾転反側、右往左往してようやく日陰に入ったと
 思ったところが、日向に出てしまった。
 「いまいましい畜生だ」と言って靴で踏み潰した、

「蚯蚓は僕にはひとごとではなかっただろう」と続くのには
驚いた。茂吉は蚯蚓が安住の場を見つけるまでわがことのように
応援していたのだろう、三十分も。
で、進路、もしくは退路を誤った蚯蚓を踏み潰したのだ。

『念珠集』「続山峡小記」より。「山蚕」と同じ昭和三年の発表。
次男の北杜夫は昭和二年生まれだから、このときの茂吉は
もうたいがいいい大人なのであった。





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雑談13

2021-08-05 | 雑談

「山蚕」について茂吉自身が書いていた。以下抜粋。

 今では養蚕の術が驚くべき程発達したから、結句、山蚕のことなどは余り
 云わぬようになった。併し以前には熱心に山蚕を養うことを称道した人も
 あり、地方によっては普通の養蚕の片手間に養った。
   †
 結局、山蚕の養方は普通の養蚕ほどに発育せずにしまった。野生のものは、
 人工を以て思う勝手な結果に至らしめることはむずかしいと見える。
   †
 僕は小学校のかえりに春も追々深くなってゆく林中に寝ころんで、ひとり
 絵かきの修行にでも出掛けようか、それとも宝泉寺の徒弟になってしまお
 うか。或はここの新道のところで百姓をしながら山蚕でも飼おうか。そん
 なことを思って時を過ごすことが多かった。僕の寝ている林中には、もう
 山蚕は余程大きくなって幾つも動いているのが見えた。
   †
 山蚕の写象は妙に僕を親しくさせ、また妙に僕を沈鬱にさせる。年はすで
 に初老を過ぎ、山蚕を見ざること十数年であるのに、その写象は殆ど幻覚
 にひとしいような現実性を以て、僕の眉間にあらわれてくるのはどういう
 わけであるかと思うことがある。
    (斎藤茂吉「山蚕」『念珠集』初出昭和三年「文藝春秋」二月号)


  

野生の蚕を養殖するのは難しかったらしく、山蚕のために
蚕部屋どころか蚕森とか蚕園のようなものを設えなくては
ならないようだ。現在はどうなのか知らない。
茂吉にとって「山蚕」とは日常親しんでいたものでもあり、
記憶に浮上する別格の表象でもあり得る存在だったことは
想像できる。

ここでようやく思い出した。茂吉の次男、宗吉は昆虫少年
だった。宗吉、即ち北杜夫の『幽霊─或る幼年と青春の物語』
も思い出した。
冒頭から早速、「蚕」が出てきた。

  人はなぜ追憶を語るのだろうか。
  どの民族にも神話があるように、どの個人にも心の神話があるものだ。
 その神話は次第にうすれ、やがて時間の深みのなかに姿を失うように見え
 る。──だが、あのおぼろな昔に人の個々とにしのびこみ、そっと爪痕を
 残していった事柄を、人は知らず知らず、くる年もくる年も反芻しつづけ
 ているものらしい。そうした所作は死ぬまでいつまでも続いてゆくことだ
 ろう。それにしても、人はそんな反芻をまったく無意識につづけながら、
 なぜかふっと目ざめることがある。わけもなく桑の葉に穴をあけている蚕
 が、自分の咀嚼するかすかな音に気づいて、不安げに首をもたべてみるよ
 うなものだ。そんなとき、蚕はどんな気持がするのだろうか。
                      (北杜夫『幽霊』第一章)

   爪痕:つめあと 事柄:ことがら 反芻:はんすう 咀嚼:そしゃく


反芻する蚕はほかにも登場する。

  わけもなく葉に穴をあけている蚕が、ときおり不安げに首をもたげてみ
 る。それは人間の言葉で彼らの意味とはちがうにしても、人は生涯に何度
 か、それに似た時間をもつもののようだ。ある季節、高原の大気が異常に
 澄みわたってくるように、そんなときわれわれの感覚は非常に敏感に、過
 去と現在のかげのなかから、自らの存在の意味を探りだすまでに高められ
 るだろう。今までさりげなく見すごしてきた物のすがたが変様し、実はこ
 のうえなく貴重な、かりそめに過ぎ去ってゆくものでないことが感じとれ
 る。                   (北杜夫『幽霊』第二章)

                
  ゴオガンの自畫像みればみちのくに山蠶殺ししその日おもほゆ
                     山蠶:やまこ

  

杜夫の文章と茂吉の歌を並べてみると、どうも「その日おもほゆ」が
ずいぶんつややかに見えてくる。

文芸にもお家芸というものがあるのだろうか。
親子二代の至芸を見る思いがする。


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雑談12

2021-08-04 | 雑談
ひきつづき斎藤茂吉『赤光』からゴオガンの一首。

ゴオガンの自畫像みればみちのくに山蠶殺ししその日おもほゆ
                山蠶:やまこ

▼「帽子をかぶった自画像」
  
        ▲「死霊が見ている」

自画像の背景右上を占める絵画はゴーガンの自作画「死霊が見ている」。
うつ伏せの裸婦はタヒチでの若い妻。足元に死霊らしき者の黒い影。
夜、ゴーガンが帰宅したとき、妻は死霊の存在に恐怖し怯えていた
というエピソードが知られている。

この「自画像」を見、背景の自作画のエピソードも
茂吉が周知していたことを前提に、
山蚕の幼虫の形状と裸婦の姿態のイメージの類似、
また、見るものと見られるものとの関係線の交差と連鎖から、
三浦氏は次の推論を導き出す。

 「自画像」→「殺した日」という連想からは、茂吉が、ゴーガンの
 「不安」「怯え」という要素を敏感に察知しているように思われる     
 (三浦彩子「ゴオガン探索ー茂吉が見たのは、どの自画像か?」)


茂吉の二面性。鬼のように凄まじい怒りと、その反面、おそろしく細く
弱々しい神経。両極端の振れ幅にも思いの及ぶ指摘と思う。

 人類の文化的産物について、ある程度の知識を有していることは、
 現代の読者としての基本的資格である。読者は作品を理解する
 ための知識を獲得しておく義務があるのだ。
 実際的に言うと、この歌を読んで、ゴオガンの自画像を見たことが
 なかったと心づいた読者は、写真版でなりと、それを一見する労を
 とるべきだというのがほんとうである。(玉城徹『茂吉の方法』)


ありがたいことに茂吉の時代よりもさらに精密な画像を簡単に目にできる。
あらためて「自画像」を眺めると、最も鮮烈な「赤」は「死霊が見ている」の
枕かなにかの赤色であることに気づく。赤のみならずシーツの白も鮮明で、
裸婦が羽化しそこねた蚕のようにも見える。
さらに寝台の上を鳥なのか蝶なのか精霊なのか、なにか白い、
羽根のあるものが二、三、飛んでいることにも気づく。
この連中は何なのだろう。

ところで、「山蚕殺しし」の「山蚕」は幼虫だったのだろうか。
成虫だったのだろうか。あるいは蛹だったのだろうか。
「山蚕」はいわゆる「お蚕さん」とは違う野生の蚕で、
あの白いまま生涯を終わる養蚕用の蚕とはかなり違うものらしい。

わたしはどこへ行くのだろうか。



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雑談11

2021-08-04 | 雑談
三人の茂吉の一首。

ゴオガンの自畫像みればみちのくに山蠶殺ししその日おもほゆ
              山蠶:やまこ

斎藤茂吉『赤光』「折に觸れて」(大正元年)の一首。
「山蠶」は新字では「山蚕」。比べてみると別の生きものに見えるが、失礼して
以下、すべて新字表記で進めます。引用は主に次の三冊から。

    TK:塚本邦雄『茂吉秀歌『赤光』百首』
    TT:玉城徹『茂吉の方法』
    OT:岡井隆『斎藤茂吉ー人と作品』


TK:私はこの「ゴオガンの自画像みれば」を、『赤光』の白眉とするのみでなく、
  近代短歌の秀作の第一に数へたいくらゐに思ふ。


とてつもない高評価のこの歌、平たく言うと、

OT:「ゴオガンの自画像」はおそらく画集かなにかを見ているのだと思います。
   それとじぶんの郷里の東北で野生の蚕をみつけて殺したその日のことが
   思われるというのを繋げている。


こういう歌です。

OT:「ゴオガンの自画像」とみちのくでやま蚕を殺した追想とはなんの関係も
   なさそうです。けれども、


けれども、
「タヒチへ流れていった伝説付のゴーガンという画家」「原色の世界」と、
山蚕を殺すような「子供の殺戮本能」とは、
「直接の関係はないのだけれども、なにか強烈な原色というもので結びつけられる」
と続きます。
ほかのお二方は、「自画像」と「山蚕殺し」を繋げるものとして、

TK:幼児、少年の虫類虐殺は、その本性に根ざしたもので、長じて後も、
   時として一種の戦慄として蘇る。
   ゴーギャン肖像と山蚕殺戮を繋ぐ透明な線は人間の業(ごふ)であり、
   作者は「その日」の「その」に、宿命的な悪行の創まりを暗示してゐるのでは
   あるまいか。


TT:ゴオガンの自画像と、「みちのくに山蚕殺しし」思い出を結びつけるものは、
   けっきょく、ある悪霊(デーモン)的なものだと言ってよかろう。


三者三様ながら、
「強烈な原色」「人間の業」「悪霊(デーモン)」と、なかなかおどろおどろしい
どこか根源的なものが揃いました。

ゴーガンの自画像は何枚もあるそうですが、
三浦彩子氏の探求(「短歌」2003年4月号「ゴオガン探索ー茂吉が見たのは、どの自画像か?」)
によると、この帽子をかぶった自画像が相当有力なようです。


    

自画像の背景にある絵画は重要なエピソードを担っていると言うことです。
さて、どんな?



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