音信

小池純代の手帖から

雑談61

2024-09-05 | 雑談

初唐の詩人、崔融の「唐朝新体詩格」に「十体」論がある。
「文鏡秘府論」に引用されていて現在のわたしどもでも
見ることができる。

「文鏡秘府論」に詰め込まれた数々の詩論は
空海が留学先の唐の国から持ち帰った大量のお土産の
うちのひとつ。

むかしむかしの遠い国と聞けば心躍り、
みやげものを示されれば眼輝く。しかも「序」で空海は、

 千里の彼方まで教えを求めずとも、珠玉の作品をものすことができ、
 あれこれと手引きを探す苦労をせずとも、みごとな創作を期待できる
 よう願う次第である。 (「文鏡秘府論 序」より)


と効能まで書いておられる。なんて親切な志だろう。
崔融による「十体」の分類は、

 形似体 質気体 情理体 直置体 彫藻体
 映帯体 飛動体 婉轉体 清切体 菁華体

          (體→体 ほか正字は新字で表記)

それぞれどのようなものなのか説明があり、
事例の詩句が付されている。
その例句をお題代わりに、和語訳、歌語訳、翻歌などで
遊んでみたい。


参考本:
  『弘法大師空海全集』第五巻 訳注・解説 興膳宏
  『文鏡秘府論考』研究編 著 小西甚一




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雑談60

2024-04-03 | 雑談


 あたらしき墓立つは家建つよりもはれやかにわがこころの夏至
                  塚本邦雄「幼帝」『緑色研究』


最近、この歌がとても現実的に感じられる。
数十年前にはシニカルでアイロニカルで毒のある歌だと思っていた。
いまはむしろ心象および事象を写実的に表現している歌だと思う。
所謂「魂のリアリズム」って、もしや、これか、とさえ思う。

あたらしい墓とはほんとうに、あたらしい家のことなのだ。
墓石に「なになに家」とあるのは伊達ではない。
はれやかなのも嘘ではない。深い安息と清々しさがある。
そんなことを思う年頃になった。

あたらしい住処を星や月や heavenly bodyに見立てるのも、
また晴れやか。

 天體は新墓のごと輝くを星とし言へり月とし言へり 
    にひはか           葛原妙子「薄暮靑天」『鷹の井戸』







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雑談59

2024-03-15 | 雑談

土岐善麿『京極為兼』を眺めていて目にとまった一節。

── 草木を風吹きて枝をならすも、柯は哥也とて、それまでも歌なるよし、
  撲揚大師も釈せられて候ふとかや     (「為兼卿和哥抄注」)


撲揚大師(唐の僧、智周)が説いたことばを引いたもの。
こんな意味のようだ。

 草木を風が吹いて枝を鳴らすのだって歌ですよ。
 枝つまり柯。木偏に可。可を重ねれば哥、すなわち歌。

それで思い出したのがこの一節。

── 歌人とは、名も無く、位も無い人だとわたしは思います。
  一本の樅の木が、ただ空に向って突っ立っているようなものだ。
  そこを風が渡れば、それがすなわち歌なのです。  
           (玉城徹「歌人と歌と」『短歌実作の部屋』)


「草木を風吹きて枝をならすも、柯は哥也」
「そこを風が渡れば、それがすなわち歌」

よく似ているもの同士がうなずきあっているようだ。
ここから思い出すのが次の一節。

── 最終的に、自身にもはかり知れざる、ある力がはたらいて
  一首が完成する。     
    (「酢牡蠣一つ」玉城徹『わが歌の秘密』村永大和編)


風が吹く感じはちょっと薄れるけれども、
風に吹かれる草木の身になれば斯くの如きか。

この文言は『村木道彦歌集』(現代歌人文庫)の「ある日の日記」に
引用されていたのを見たのが最初。
(そこでは「はたらいていて」とあったが原本では「はたらいて」)。   


 わがこころまずしかるべしコロンバンのチョコレートや春やにおやかなれど  
                       村木道彦「逆光の春」









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雑談58

2024-02-23 | 雑談


2023年12月31日分の文字部分を手違いで
消してしまいました。
画像に少々の説明を付けて再掲します。失礼しました。


 安藤礼二『死者たちへの捧げもの』


中扉一面の黒が小口では細縞模様に。




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雑談57

2023-10-14 | 雑談



・近詠一首・

 目に胸に沁みこんでくる大春車菊をこぼさず還す天体宇宙のなかへ
              大春車菊:コスモス    天体宇宙:コスモス



 †††


 『香貫』本体とカバー

玉城徹『香貫』の終盤に、

 幾夜さの夢の断片にかざられてわれ在り古き櫃のごとくに
        断片:ちぎれ           櫃:ひつ


の一首あり。「あとがき」に次の一齣(ひとくさり)あり。

雑誌掲載時「断片」にルビはなかったそうだ。
で、美学者の佐々木健一氏が作者に読みを問うた。
作者は「ダンペン」と答えた。
それでは音が強すぎないかと佐々木氏は「かけら」を提案した。
「かけら」ではいささか軽いと作者は考え、歌集に収める際に
「ちぎれ」とルビを振ったのだという。

このやりとりは『短歌朝日』(1999年10・11月号)の対談
「二十世紀短歌の定型(一)」に詳しい。
茂吉の「いまだうつくしき虹の断片」の「断片」に
触れたりもしている。

「あとがき」では「ちぎれ」は「まだ試案の域を出ない」、
「はたしていかがであろう。」と読者にボールを投げている。
推敲半ばということなのか。

なにしろ夢の感触なのだから作者にしか分かるまい。
しかしお尋ねなのでお応えする。

初案どおり「だんぺん」と振ればいいのではないかと思うが、
別案として「きれはし」「はぎれ」、ちょっと思い切って
「ぶぶん」などいかがであろうか。「ちぎれ」になった段階で
ルビの可動領域が相当広くなったと思うので。









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雑談56

2023-09-19 | 雑談

九月十九日は糸瓜忌。

『子規 活動する精神』(玉城徹 2002年刊)にしばしば
登場する「別に一体」の周辺を掘ったり拾ったりしていた。



「別に一体」は子規が虚子に宛てた手紙のなかの一言。

──若シ永久のものを求めなバ別に一体を創するにあり。
            (1891年12月2日 高濱清(虚子)宛。書簡)


詩歌に於いて永久のものを求めるのなら「別に一体を」、ということ。

「そうではない何か」なのか「なにか別のもの」なのか、
窓は二箇所開けないと風が通らないのに通じることなのか、
未知への希求なのか祖型への遡及なのか。
ともかく別の一体が永久のものへの手がかりになるようだ。

著者は次のようにも考える。

──「別に一体」という欲求は、その後も、ほとんど固定観念のように、
  日本の詩歌作者の心に生れかわり、死にかわって、しかも、解決の
  道がつかないのである。 


語義を突き詰めてまとめて約めて壜に入れてラベルを貼って棚に並べると
別物になってしまいそうなのでここでとどめておく。

ただ『玉城徹訳詩集』の訳の在り方に「別に一体」に近い気配を感じるので、
ちょっと引用。



 江南野水碧於天
 中有狎鴎閑似我
          黄庭堅「演雅」部分


詩の末尾にあたる箇所はこのように訳されている。

  さて、この俺は、青空の下 水の上、
  のんびりと羽のして飛ぶ一羽の鴎。


杜甫の「飄飄何の似る所ぞ 天地一沙鴎」を連想する。
牧水の「白鳥はかなしからずや」も連想される。

著者による(注)は、も少し踏み込んでいる。

──悠々と江南の野と水の上を飛ぶ鴎を出して、詩人たる自分の在り方
  を示したのである。


とあり、さらに、

──こういう詩があるということを知っておくのも、わたしたちが短歌
  を作ってゆく上に、非常に役立つのである。


と、とてもありがたいことを説いておられる。








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雑談55

2023-06-16 | 雑談

  日月光空水 風塵無所妨 
  是非同説法 人我倶消亡
  定慧澄心海 無縁毎湯々
 
            (空海「遊山慕仙詩」部分『性霊集』巻一)


  <翻歌>

 日のひかり月のひかりに照らさるる空なる水も水なる空も


 ゆきさきを知らずに塵は風に乗るいかな思ひも重くはあらね


 ひともとのreedをこれをアシといふヨシといふそのよしあしは無し


 君は雪にわたしは雨になつて扨てさんざん降つて消えてなくなる
              扨:さ

 吠瑠璃のうなばらならば澄みわたれうたびとならば千年生きよ
 吠瑠璃:べいるり

 なきことのゆたけさことにえにしなきことのゆたけさ日は海を浴む

   †

6月15日は遍照金剛空海の誕生日。
昨年はダイアモンドの切手の画像をお贈りした。(雑談43)
今年はダイアモンドの一節を。
いつもネットからの拾いもので恐縮です。

   ◇◇◇

 仙女   (仙女は、その小さな緑色の帽子をチルチルの頭にかぶせました)
      さあ、ダイアモンドを廻してごらん、一度廻して、それからね。……

    チルチルがダイアモンドを廻すが早いか、そこらのものが、みんな
    びつくりする程、見る間に変つてしまひました。

 チルチル (遉にびつくりして、「時間」たちの方を指さして)
      この可愛らしい女の人たちは誰です。
 仙女   恐がることはないよ。あれがお前の一生の「時間」さ。

         (モオリス・マアテルリンク作「青い鳥」 菊池寛訳)





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雑談54

2023-05-03 | 雑談
耳菜草(ミミナグサ)といえば蒼耳。蒼耳といえばこんな逸話。

  ある日、李白は道を失して、蒼耳の中に落ちた。蒼耳は、
  ミミナグサである。採つて題とする。
            (玉城徹『蒼耳』「巻末記」より)



ミミナグサの葉群のなかだろうか。
それともオナモミの実のなかだろうか。
いずれにしても李白らしくてすばらしい。

歌集の中をさがしたけれど蒼耳の歌はみつからず。
こんな歌があった。「モナド」の一連から二首引く。

  くだものの梨のしら玉とあかき玉と影さし交し夜ぞふけにける
                     *交:かは 

  一ふさの甲州葡萄あはあはと翳を盛りたり硝子器の中


色のある影のようなくだもの。こういう何も言っていない
歌の味わいは上善の水。

「静物」の連から一首引く。

  恋ひ恋ひてつひに見に来つ汁重くうちに湛ふるシャルダンの桃


絵に寄せる恋。画中の桃が生々しい。







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雑談53

2023-04-28 | 雑談

吉川幸次郎『他山石語』で見つけた
「巻耳」(『詩経』「周南」)の訳詩。
 
  つんでもつんでも
  かご一ぱいにならないおばこ
  はるかなる人をおもいやりつつ
  そっと道のべにおく草かご


ここで「おばこ」と呼ばれている「巻耳」は
ハコベの類。別名、耳菜草とか猫の耳とかネズミの耳とか。
耳に似た形状の草。実はオナモミ。マジックテープのように
衣服にくっつく例のあれ。

いくら摘んでもいっぱいにならない籠と、
歩いても歩いても行き着かないところにいる人への思い。
その人のいる場所につながるであろう道に置く籠。

心理的な空漠、物理的な大景を引き結ぶ小さな草の籠。
「も・こ・ご」の脚韻。全体、音韻のきれいな一篇。

添えられている読み下し文は、

  巻耳を采り采る
  傾筐に盈たず
  ああ我れ人を憶いて
  かの周行におく


こちらも軽やかな脚韻のステップ。なお、原詩は、

  采采巻耳
  不盈傾筐
  嗟我懐人
  寘彼周行


韻は「筐」「行」。

「傾筐」は塵取りみたいな形で、摘んだ草で
すぐにいっぱいになるぐらい。
そんな容れ物なのにいっぱいにならないとは。
思いの草で心はすでにいっぱいなのだ。









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雑談52

2023-03-26 | 雑談
玉城徹『近世歌人の思想』は定価九〇〇〇円。
買うときは勇気が要ったが、長年何度も立ち返って
数々の隘路から抜け出したり、また迷い込んだり。
じゅうぶん元はとれたと思う。

十回開けば九〇〇円、
百回開けば九〇円。
買っておいてよかった。今回はこんな詩に目が
とまった。

     うま酒の歌   賀茂真淵

  うまらに をやらふるかねや
  ひとつきふたつき
  ゑらゑらに たなそこうちあぐるかねや
  みつきよつき
  ことなほし こころなほしもよ
  いつつきむつき
  あまたらし くにたらすもよ
  ななつきやつき



出だしの「うまらにをやらふるかねや」が古すぎる
古語でつまずきそうになるが、古語辞典でなんとか
立ち直って読んでゆくと声のいい民謡歌手が朗々と
歌っているような明るさ。詩で歌で詞で唄なのだ。

国会図書館のデジタルコレクション『賀茂真淵集』
(昭和四年)の「美酒の歌」では分かち書きではなく、
読点を打っている。さらに漢字でルビが振ってある。
その漢字を新字で拾ってみる。

  美飲喫哉 
  一杯二杯 
  楽悦掌底拍挙
  三杯四杯 
  言直心直 
  五杯六杯 
  天足国足
  七杯八杯

だいたい次のような内容。難しい話ではない。

 おいしくいただいてます。
  一杯二杯。
 たのしくてうれしくて諸手を挙げて叩いてしまう。
  三杯四杯。
 ことばもまっすぐ、心もまっすぐ。
  五杯六杯。
 天も満足、国も満足。
  七杯八杯。


どんないいことがあったのだろう。







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雑談51

2023-01-30 | 雑談
風巻景次郞『中世の文学伝統』を見ていたら、こんな
表記に出くわした。

  風をだに   恋ふるはともし、
  風をだに   来むとし待たば、
         なにかなげかむ。(鏡王女)


これは短歌、これで短歌。
といっても、歌謡の時代をひきずった初々しい
「うた・和歌」の色濃い時期のもの。

「なんてモダンな」と思ったのだが、
万葉集でも早い時代の歌なのだった。

 ♪風をだに   ♪風をだに
   恋ふるはともし 来むとし待たばなにかなげかむ


極端なことを言えば「風をだに」がなくても、言いたいことは
残りの七七七だけでもわかる。
「風をだに」五音の繰り返しを、合いの手とかバックコーラス
(ほぼ無意味な♪わわわわ~的な)とか考えたら
この一首は小さな合唱曲なのではなかろうか。

今風の言い方にうつしてみると、

 風をさへ焦がるる心うらやまし
 風を待ちおとづれを待ち
  なにをかなげく

あまり変化なし。数百年ぐらいは動いたかも。

  †

万葉集では、この歌の前に額田王の一首があって、

 君待つとわが恋ひをればわが屋戸のすだれ動かし秋の風吹く
                      額田王

 風をだに恋ふるはともし風をだに来むとし待たばなにかなげかむ
                      鏡王女


二首セットで二回(四巻「相聞」、八巻「秋相聞」)登場する。
まつわるエピソードは考えないことにして読んでみると、
前者が「語り」、後者が「歌謡」担当のコントのようでもある。
ぼやいているのか、誇っているのか、
励ましているのか、皮肉っているのか、
恋心の各自の形態を競い合っているのか、よくはわからない。

なにぶん、すごく昔のことなので。






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雑談50

2022-11-03 | 雑談
高橋睦郎『狂はば如何に』(‎ KADOKAWA 2022年10月刊)、
「百坂も見ゆ」より四首。※漢字は正字から新字に打ち替えて引用。


 雪降れば必ず思ふ手握りて溶け去りてのちのつめたさのこと
         *手:た

 折口の大人宣らしけり手握りて溶け去りし雪の名残りぞ歌は
    *大人:うし

 燃え易き老い穏めむ称へごと俊成九十臨終のことば
       *穏:おだや 俊成:しゆんぜい 九十:くじふ 臨終:いまは

 「めでたき物」「えもいはぬ物」「おもしろい物」雪を食うべて消えし命火
                              *命火:いのちび


       †

〈雑談47〉で触れた迢空の雪と俊成の雪の詩歌の本格版。

集中の一首一首が作者の詩歌史および人類の歴史の窓です。
覗き込めばその深淵に、振り仰げばその絶顚にくらくらします。







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雑談49

2022-10-01 | 雑談

「碧」は何いろなのか分からなくなってきた。
『字通』によると、
「碧色」は「みどりいろ」、「碧衣」は「緑衣」、
「碧水」は「あおい水」、「碧虚」は「青い空」。

青とも緑とも青緑とも。いずれでもありいずれでもない、
宝玉としての「碧玉」はそれでいいらしい。

ところが、鉱物方面では「碧玉」は「石英の一種」。
含まれる不純物によって緑や黄色や青や褐色などを
帯びる。つまり「赤い碧玉」が存在するのだそうだ。

それはそれとして緑や青や青緑の「碧」についてもう少し。

 この一巻(『われに五月を』)に限っていえば、まさしくすべての
 作品は五月の青、五月の緑、五月の草の色と香に溢れてい、手を
 浸せば手はそのまま碧く染まるだろうと思われる。
       (中井英夫「紺と青 寺山修司」『暗い海辺のイカルスたち』)

             
手を浸したら染まってしまう五月の「碧」。
これこそ完璧な「碧」というものだ。
「碧」の消息を求めてさまよってみる。
古いところから。

      †

 野草芳菲紅錦地 遊糸繚乱碧羅天    劉禹錫
                       『和漢朗詠集』

「碧羅」は「碧紗」、「緑の薄絹」のこと。
かぐわしい野の花に充ちた大地はさながら紅の錦。
かげろうがゆれて乱れる空はまるで緑の薄絹。
この「碧」はおそらく緑。

「碧色の空」と「遊糸・糸遊」の組み合わせは
和歌にも生きつづけていて、

 くりかへし春のいとゆふいくよへて同じみどりの空に見ゆらん
                    藤原定家


名前を隠したら定家とはわからないかもしれない。

 くりかへし春のいとゆふ
 いくよへて 同じみどりの空に
 見ゆらん


とか。中世の歌謡集に紛れ込んでいても不思議はない
仏教の香りと歌謡性。

 おほぞらのみどりに靡く白雲のまがはぬ夏に成りにけるかな
                    香川景樹


こういうきっぱりすっきり、なおかつ弾力のある響きを
歌からは聞きたいものだ。

 つつぬけの天のふかみのあさみどりわれらはひくくひと恋いわたる
                    村木道彦


柔軟な対構造が幾層も重なっている。各層を
つなぐのが音韻の陰翳と和歌の陰影だ。少し昔にさかのぼって
たとえば、

 つれづれと空ぞ見らるる思ふ人あまくだり来むものならなくに
                    和泉式部





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雑談48

2022-09-18 | 雑談


    秋来  李賀

  桐風驚心壮士苦
  衰灯絡緯啼寒素
  誰看青簡一編書
  不遣花虫粉空蠹
  思牽今夜腸応直
  雨冷香魂弔書客
  秋墳鬼唱鮑家詩
  恨血千年土中碧



つづめてしまうとこんなことを言っている詩だ。

  秋のおとづれ

おどろかすなよ苦しますなよ 桐に風
おとろへてゆく灯し火と声 きりぎりす
読まれなくては生まれないまま ひとつの詩
生まれないまま虫に食はるる いくつの詩
夜に思へば凍てつくこころ 折れちまふ
弔ふ人のたましひ香る 雨しづく
亡きものたちが唱つてくれた 墓どころ
千年のちの血は‘えめろうど’  詩人の血


           †

碧石の緑の光にくすぐられる心というもの。
李賀に由来するのかどうか知らないが、響き
合うものを見つけると「おお」と思う。


 
 日本の過去の詩の中には緑いろのものが何か動いてゐる。
 何か互に響き合ふものが――
 (芥川龍之介『文芸的な、余りに文芸的な』「二十六 詩形」)

 
 短歌は一箇の小さい緑の古宝玉である、古い悲哀時代の
 センチメントの精である。古いけれども棄てがたい、そ
 の完成した美くしい形は東洋人の二千年来の悲哀のさま
 ざまな追憶に依てたとへがたない悲しい光沢をつけられ
 てゐる。*精:エツキス 追憶:おもひで
         (北原白秋『桐の花』「桐の花とカステラ」)

  


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雑談47

2022-09-03 | 雑談


9月3日は迢空忌。

 たとへば雪──雪が降つてゐる。其を手に握つて、‘きゆっ’と
 握りしめると、水になつて手の股から消えてしまふ。それが
 短歌の詩らしい点だつたのです。 
    折口信夫「俳句と近代詩」1953(昭和28)年9月「俳句」


釈迢空、最晩年の記事。

末期と雪といえば藤原俊成の臨終も思い起こされる。
1204(元久元)年11月30日のこと。

 殊令悦喜給、頻召之。其詞、めでたき物かな。
 猶えもいはぬ物かな。猶召之。
 おもしろいものかな。人々頗成恐、取隠之。
    藤原定家『明月記』


病床の俊成が雪を所望した。雪は北山から雪を送ってもらって
間に合った。定家は間に合わず、姉から聞いた話が記録されて
いる。雪を召し上がっての三つの言葉が、

「めでたき物かな」「えもいはぬ物かな」
「おもしろいものかな」

漢文日記なのに父俊成の言葉はひらがなまじりなのが趣深い。


迢空の五指も俊成の五体も、雪に含まれる詩成分を賞味してい
たのではあるまいか。


 迢空の手のなかの雪
 俊成の身もなかの雪
 うたのうつしみ



俊成、定家以来の流れを守る冷泉家では初雪が降ると俊成卿に
雪をお供えするそうだ。





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