会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

伝教大師伝①御生誕と具足戒 柴田聖寛

2020-08-20 06:50:21 | 天台宗

 

 

 


 

写真説明(上)が生源寺(下)が八王子山

 伝教大師様がお生まれになったのは奈良時代の末期の神護景雲元年(767)のことです。得度や受戒の文章ではその前年に誕生したという説が有力ですが、信頼すべき伝記である一乗忠撰の『叡山大師伝』にもとづいています。
 生誕地に関しては、戸籍上では近江国志賀郡古市郷、現在の大津市膳所・粟津・石山付近といわれ、呱々の声を上げられたのは大友郷の生源寺とみられています。伝教大師様が産湯の井戸なども語り伝えられています。
 生源寺は父百枝の私邸があったともいわれていますが、その一族の先祖は帰化人であったことが分かっています。後漢の孝献帝の子孫登万貴王とも伝えられています。伝承によれば、登万貴王は、一族郎党を率いて「海を渡って争いのない日本」にやってきたのでした。
 後漢(25年から220年)は漢王朝の皇族であった劉秀、後の光武帝は立てた王朝で都は洛陽。末期には長安などへ都が移りました。五代十国時代(907年から960)の後漢と区別する意味で、「東漢」とも呼ばれています。
 孝献帝は後漢最後の皇帝で『三国志』にも登場します。第12代皇帝霊帝の次男として生まれ、母王栄は何皇后の嫉妬で殺害され、一時は牢獄にも入れられましたが、その後霊帝の生母董太后によって育てられ、霊帝亡き後は即位することはかなわず、渤海王や陳留王に入封されました。
 何進が宦官の集団十常侍に暗殺されると、袁紹が挙兵して都になだれ込み、宦官を一掃します。そして、権力を握った董卓によって、孝献帝が皇位に就くことになりましたが、長くは続きませんでした。袁紹らが董卓の振舞いに反発して初平元年(190)に兵を挙げたために、遷都を余儀なくされ、都は長安へと移動します。その間にも董卓は呂布に殺害され、王允に権力が移りますが、それも暫定的でありました。董卓の軍隊が勢いを盛り返し、長安を取り戻し、大混乱に陥ります。各地で反董卓派が群雄割拠し、内乱の時代に突入します。
 そうしたなかで、曹操が漢王朝の庇護者としての立場を手に入れ、建安元年(196)に孝献帝は洛陽に帰還しました。しかし、実際には曹操王朝というべきものに変質し、曹操が死去した建安25年(220)には、孝献帝は曹操の子曹丕に禅譲し、漢王朝は滅亡したのでした。それから魏、蜀、呉へと移って行ったのです。
 孝献帝の子孫のルーツであるがために、登万貴王が争いに愛想をつかし、それで仏教徒になったというのも、それなりの説得力があります。登万貴王は第15代応神天皇から近江国滋賀の地を賜り、三津首の姓を頂かれたのでした。 
 百枝の妻は中務少輔藤原鷲取朝臣の娘の藤子といわれた方ですが、なかなか二人の間には子供ができませんでした。そこで良い子供が授かるようにと神仏を祈願することになり、比叡山(標高848メートル)の一部である八王子山に登り、そこにささやかは庵をつくり、7日間にわたって祈願したのです。そして、4日目に好き夢を見て懐妊することになったのです。伝教大師様が誕生したその時には、それを祝うかのように、蓮華の花が天から降ったといわれ、生誕地の生源寺付近には「蓮華園」の地名が残っています。
 八王子山(標高381メートル)が選ばれたのは、日吉大社に祀られている比叡山の地主神である「大山咋神」が座しておられるからで、「大山に杭を打つ神」ということから、山の所有者の神といわれています。八王子山は約30分で登ることができますが、琵琶湖を展望することができる景勝の地でもあります。
『古事記』では比叡山は「日枝山」といわれ、それが「日吉」となって日吉大社と呼ばれるようになったのでした。約2100年前の崇神天皇7年に創祀されており、京都の鬼門にあたる北東に位置することから、伝教大師様が王城鎮護の山として伽藍を建設され、日本の天台宗を開かれたのです。それ以前から日吉大社はあったわけで、在地の神の申し子としてこの世に生を享けられたのです。
 伝教大師がお生まれになったのは、道鏡が横暴を極めていた頃であり、仏教が政治に口出しをする時代になっていました。太政大臣禅師となって、法王とまで呼ばれるようになっていました。
 しかし、それも長くは続きませんでした。3年後には情勢は急変したのでした。道鏡の生まれた河内国の弓削で過ごしていた称徳女帝は、体調が思わしくなくなり、道鏡に皇位を譲ろうとしたものの、延臣に反対されて意の如くならず、藤原氏が結束して白壁王を擁立したのでした。道鏡は下野に流され、二度と表舞台に出ることはありませんでした。壬申の乱で勢いを失っていた天智系の天皇が誕生し、その後を継いだのが桓武天皇となる山部親王なのです。
 仏教が堕落し、それで朝廷から統制されるという異常事態のなかで、最澄は少年期を迎え、仏教徒としての信仰を打ち固めることになったのでした。幼名は広野と名付けられましたが、記憶力が抜群で、4、5歳からすでにずば抜けた才能を発揮しました。7歳で村の塾に入り、普通の読み書きの勉強だけでなく、医術や天文にも関心を抱き、とくに仏教については眼を輝かせたのでした。
 わずか12歳で伝教大師様は、近江国分寺の僧として、奈良の7大寺(大安・薬師・元興・興福・東大・法隆・東大)の一つの大安寺の行表から学ぶことになったのです。行表は大安寺にいた中国人の僧、道璿の弟子です。道璿は天平7年(735)にインド僧菩提遷那、林邑僧仏哲と共に来日しました。
 道璿は戒律に精通していたばかりでなく、華厳・天台・禅に関しても造詣が深く、行表を通して、間接的であっても、仏教の先進地である道璿の幅広い学識に触れることになったのでした。注目すべきは、その時点ですでに、法相教学もマスターしていた可能性があることです。さらに、伝教大師様の「一乗に心を帰すべき」という信仰も、行表から稟(う)けたともいわれており、若い時から「一乗思想の中で育てられた」のでした。
 伝教大師様が得度(僧侶になるための儀式)したのは宝亀11年(780)のことです。国分寺の僧最寂が亡くなり、欠員が出たために、その補充として認められたのです。名前も広野から最澄に改められたのでした。「最」の字は「最寂」の1字を取ったとみられています。得度の証明書である度牒が交付されたのは3年後で、一人前の僧としての戒律である具足戒を東大寺で受けて、正式に僧の資格を手にしたのは延暦4年(785)4月6日のことでした。伝教大師様が19歳の時です。
 具足戒を受ける儀式は、奈良の戒壇院で行われました。天平勝宝6年(754)に、聖武上皇は光明皇太后とともに、唐から渡ってきた鑑真から東大寺で戒を授かりましたが、その翌年に正式な受戒の場として建立されたのでした。
 奈良時代の戒壇は東大寺以外にも、その後、筑紫の大宰府の観世音寺、下野国の薬師寺にも戒壇が築かれ、天下の三大戒壇と呼ばれました。伝教大師様が東大寺を選んだのは、近江から近かったからでした。
 まず最澄その人であるかを確認し、戒師、儀式を執行する羯磨師(かつまし)、受戒者に作法を教える教授師の三師、証人として7人の僧が立ち会いました。250もの戒律が授けられるために、夜遅くまで行われ、それを経てようやく一人前の僧として認められたのでした。
 奈良の都に上ってからの伝教大師様は、万巻の教本を読み耽りましたが、もっとも心を動かされたのは、全部で76冊にも及ぶ天台大師の名著書でした。天台大師とは中国天台宗の開祖である智顗(538から597)のことです。早い段階に伝教大師様は『天台小止観』を学んでおり、その実践のために比叡山に登り、『願文』を書き上げたのでした。
 智顗が生まれたのは、梁の大同4年(538)のことで、中国天台宗の開祖。隋の煬帝から「智者」の名を贈られ、正式名は「智者大師」です。智顗は梁が西魏によって滅ぼされたことに衝撃を受け、出家を決意したといわれます。18歳で湘州果願寺の法緒の下で得度、慧曠から20歳で具足戒を授かり、そこで律蔵を学びました。次いで大賢山に登り、法華経などを誦するとともに、陳と北斉との国境に近い大蘇山にいた慧思禅師の門に入りました。
 慧思禅師とのことでは、有名な逸話が残されています。智顗に向かって「昔日霊山に同じく法華を聴く。宿縁の追うところ今復来る」と話しかけたのでした。「お釈迦様がインドの霊鷲山で法華経を説かれていたときに一緒に聞いていましたよね」と前世からの因縁であることを強調したのでした。
 そして、智顗は『法華経』の「薬王菩薩本事品」の「この時、諸仏は遙かに共に讃めて言もう。『善い哉、善い哉、善男子よ。汝は能く釈迦牟尼仏の法の中において、この経を読誦し思惟して、他人のために説けり。得たる所の福徳は無量無辺なり』」と誦し、迷いが解けて、知恵や力を得ることができたのでした。これが「大蘇開悟」で、空を悟ったのでした。
 さらに、智顗は慧思に命じられて陳の都の建康で布教を始め、瓦宮寺に住んだのでした。そこで『法華経』を講じるとともに、真の禅法はどういうものかを口述し、それを弟子がまとめたのでした。
『天台小止観』は智顗が天台山に隠棲してから、『次第禅門』入門書の必要性を感じ、門弟に命じて書かせたと伝えられていますが、正修行の部分は自ら筆を取ったといわれています。
 多くの門弟が集まってきたものの、その教えを悟る者が少ないことに悩み、それで智顗は38歳で天台山に登り、禅をしていて、明け方になって神僧が現れて「一実諦」(究極的な真実)を伝授されたのでした。『天台小止観』を世に出すことになったのも、信仰がより深まったからなのです。天台山で過ごしたのは、大建7年(575)から至徳3年(585)までの11年間でした。
 天台三大部としての『法華文句』は、陳の小主(まだ皇帝の寵愛を受けていない女性の一人称)の叔宝の招請によってで、至徳3年の春に陳の都のお寺においてでした。当時の中国は、隋の国内を統一しようとしており、開皇8年(889)には陳を滅ぼした煬帝に、智顗は菩薩戒を授けました。その後、智顗は荊州の玉泉寺に約2ヶ年滞在し、『法華玄義』『摩訶止観』がまとめて、天台教学を大成させたのでした。
『天台小止観』について、田村晃祐先生編の『最澄辞典』では「涅槃の法に入るには多くの道があるが。最も重要なものは止・観の二法を出ないことを述べ、止による禅定を修しないものを狂といい、観による知恵をもたないものを愚という、と述べる」と書いていますが、智顗の教えに忠実であろうとした伝教大師様は、神の山として日本人と深い結びつきのある比叡山を、自らの修行の場とされたのでした。

 

 

 

 


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