会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

根本中堂の十二神将は焼き討ちを逃れた奇跡の像 柴田聖寛

2023-08-09 19:51:40 | 天台宗

 

 比叡山延暦寺では平成28年から10年をかけて根本中堂の大改修工事が行われていますが、それに合わせて、内陣に奉安されている仏像の修理も順次進められています。比叡山時報の令和5年7月8日号では、十二神将の今回新たに判明したことを「お薬師さまを守護する十二神将」「焼き討ちを逃れた奇跡の像」という見出しの記事で紹介しています。
 とくに話題になっているのは、十二神将と梵天・帝釈天の像内に「勧進僧栄賢」「中臣乙犬女」といった名前が見つかったことです。また、牛神からは「僧栄賢、同栄賀、同乙大女、正慶壬申元年六月日」と記されており、墨書で造仏年を正慶元(1332)年とほぼ特定することができました。さらに、巳神(ししん)からも墨で元徳2(1330)年と書かれていることが判明し、制作に複数年かけたことも判明しました。
 勧進僧の栄賢や仏師頼弁については不明ですが、比叡山の麓にある聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)蔵の『来迎寺要書』の記述から、同寺客殿にある日光・月光菩薩像は、元応元(1319)年に栄賢が勧進し、仏師の頼弁が造ったことが分かっています。
 聖衆来迎寺の日光・月光菩薩像は、もともとは京都岡崎の天台の円戒道場の古刹(こさつ)、元応寺(げんのうじ)の本尊といわれています。
 『来迎寺要書』で根本中堂が永享7(1435)年焼けて再建されたのちの文安4(1447)年頃に元応寺に十二神将が移されたましたが、応仁の乱によって失われてしまった、と伝えられています。
 現在の根本中堂の十二神将は一時的に元応寺にあったものであり、信長による比叡山焼き討ちで焼失した根本中堂が再建された天正13(1585)年頃に、以前の場所に戻ったという見方が、今回の比叡山時報では示されました。
 日本全国にあるお寺は、否応なく何度も焼失しているのが普通であり、その度の仏像の安置される寺が変ったとしても、それは不思議ではないのです。それまでは根本中堂の十二神将は根本中堂の再建年である寛永年間が有力視されていましたが、それよりも古い像であったというのが、エビデンスにもとづいて証明されたのです。
 この記事を読んでなおさら私は、天台宗の血脈の確かさを確認いたしました。十二神将のお姿を拝むことができるのは、私たち天台宗の先人の労苦があったからだと思うからです。

                  合掌


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