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会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

「伝教大師伝⑫伝教大師最澄と徳一の論争Ⅳ『照権実鏡』」

2022-07-21 22:19:33 | 天台宗

 最初から田村先生は本論に切り込みますが、その難しい議論に立ち入る前に、私は最澄の『照権実鏡』から読み始めたいと思います。田村先生は「『照権実鏡』(しょうごんじつきょう)は細かな教理問題を取り上げて徳一と議論をまじえるという書物ではなく、その点『守護章』とは全く性格を異にしている」と述べるとともに、薗田香融先生が「最澄が東国を訪問した際、旅先で書かれたものであろう」(岩波日本思想体系『最澄』)と推察したことを、「これは十分考えられる想定であると思われる」と述べたのです。
 田村先生は「本書は、一巻の小篇で、真実の教えと方便の教えとを見分ける基準を一〇項目にわたってあげ、それによって法華経が真実の経典であることをしめしたものである」との見解を示したのでした。
 私は『現代語訳最澄全集第二巻権実諍論』に依拠しながら、皆さんと考えてみたいと思います。まずは『照権実鏡』の序文を紹介いたします。「かの悪い法相師は『法華経』を権密である説、方便である説、随他意(他者の本意に沿うもの)である説、[不定種姓の者を大乗へと]引き入れるための説、狭いありかたである説と執着し、人をそしり法をそしること昼も夜も息(や)まず、起き臥しとともにある。かならずや[悪い]最期を遂げるはずである。その苦を抜いてやるために、謹んで『照権実鏡』一巻を著し、敬って賢客に進めたてまつる。願わくは、中道の人にとって天の太鼓となり、下愚の人にとって毒の太鼓とならんことを。信ずるにせよそしるにせよ、ともに利益となって[仏前に焚く]名香(みょうごう)を数えることになるし、讃えるにせよ咬みつくにせよ、ともに利益になって、かならずや仏となるはずである。云爾(しかいう)」
「かの悪い法相師」とは徳一を指すとみられますが、『法華経』を権密や方便であると主張していることに対して、最澄は自ら信じる真実の教えによって、いかに敵対しようとも、最終的には「仏になるはずである」との信念を吐露したのです。
 最澄からすれば、三乗や一乗という区別は本来ないのであって、法相宗が『解深密経(げじんみっきょう)』を重視し、『法華経』を権密(ごんみつ・方便と密意)と見下すことに触れ、「五天竺には善い瑜伽師と悪い瑜伽師とがおり、悪い師を論破して捨て、善い師に習って伝えている」と述べているのは、法相宗が属する唯識の思想は、一乗に帰するのであって、三乗に与するわけがないとの立場であったからです。わざわざ世親ではなく、天親という呼び方をしているのは、玄奘法師が中国に持ち帰った以前の名前にこだわって、自らの正しさを訴えたいからです。最澄には、法相宗の根っこの部分である唯識の思想を知っているという自負があったからです。
 また、最澄の『照権実鏡』は「身を養うことは一乗のためであるが三乗のためではないという鏡・第一」「仏は一乗を勝れていると規定したまうたという鏡・第二」「一乗は海と規定され三乗は川と規定されるという鏡」「三乗の区別は本性ではないという鏡・第四」「諸乗は究竟ではなく一乗は究竟であるという鏡・第五」「真に依拠して一乗を説き俗に依拠して三乗をとくという鏡・第六」「一乗を分けて三と説くという鏡・第七」「三乗は有名無実であるという鏡・第八」「顚倒心(仏に出会った人は逆さまにならない)ゆえに三乗は実となり一乗は権となるという鏡・第九」「『法華経』における一乗は真実であるという鏡・第十」からなっています。
 最澄は自分の意見を述べるのではなく、『涅槃経』『摂大乗論(しょうだいじょうろん)』『[摂大乗論]釈』『大薩遮尼乾子経(だいさつしゃにけんしきょう)』『大乗壮厳経論頌』『入楞伽経(にゅりょうがきょう)』『法華経』『妙法蓮華経』『[法華論]』『仏性論』などを根拠にして、一乗信仰の正しさを論じたのです。
 とくに私が注目するのは「仏は一乗を勝れていると規定したまうたという鏡・第二」です。無著(むじゃく)論師と天親論師の書いたものを持ち出したからです。最澄によれば、天親の『[摂大乗論]釈』では「一乗の勝れていることがわかる。ゆえに明鏡とする」と結論付けているのです。最澄は、徳一の拠って立つ足もとを批判したのです。これは徳一にとっても由々しき事態であり、反論に力が入ったことは確かだと思います。

 

 

 


伝御大師伝⑪伝教大師最澄と徳一の論争Ⅲ発端 柴田聖寛

2022-07-09 08:50:53 | 天台宗

 最澄と徳一の教理論争について、私なりに理解していくうえで、もっとも参考になるのは、田村晃裕先生の『最澄教学の研究』です。まずは田村先生の見方を導きの書として、そこに大竹晋訳の『現代語訳最澄全集五巻』(令和三年発刊)が手助けとなって、一歩一歩踏み出してみたいと思っています。        
 最初に田村先生は、この論争の研究の難しさに関して触れています。第一に、論争相手となった徳一の著作がすべて失われてしまっている。第二に、天台教学ばかりでなく、法相教学、涅槃教学など、幅広い基礎的仏教教学の知識が要求される。第三に、論争の中核をなしている『守護国界章』には、天台教学への誤解ないし、最澄の著作としては不可解な点が含まれている。
  徳一が書いたものが何一つ残っていないというのは、内容に深く立ち入るためには、困難があることを意味します。また、基礎的な仏教教学ということでは、私は叡山学院でその辺のことを少しは学びましたが、それを確認するためにも、私なりの解釈をしていくしかありません。足元に及びもつかないかもしれませんが、信仰があれば、必ずや目標を達成できると信じています。最澄が天台教学と異なっていたという視点は、ある意味では日本仏教化のためには避けては通れなかったのではないでしょうか。
 この論争の経過がどんなものであったのかが問題です。様々な見方があることを田村先生は紹介しているが、発端となったのは、大屋徳城(「平安朝における三大勢力の抗争と調和」)・塩入亮忠(「守護国界章解題」)・高橋富雄(『徳一と勝常寺』)説では最澄の法相宗批判であったとみるのに対して、薗田香融堯央(「最澄とその思想」)・木内堯(『伝教大師の生涯と思想』)説では徳一にあるとしています。
 大屋・塩入・高橋の説では、最澄の『憑依天台宗』がまずあって、それに徳一が応じたという考え方です。薗田・木内説は徳一が『仏性抄』が著わしたので、最澄が黙っていられなかったというのです。
 また、田村先生は、初期の最澄の作品として『守護国界章』を重視します。その論争を二つに分けて考えるからです。「『守護章』九巻は、最澄・徳一論争関係の著作の中でも、最も大部で包括的な著作であるばかりでなく、最澄著作としても最も確実なものの一つである点からも、著作の時期がほぼ確実な点や、また、批判対象となっている徳一の著書の名が『中辺義鏡』であると知られることからも、論争史研究の中核をなすべき書物である。しかも内容を検討してみると、論争初期のものであることが知られ、直接の論争書としては最初のものである『照権実鏡』(しょうごんじっきょう)が書かれた翌年の成立であり、この点からも先ず本書の研究から論争の経過についての検討を始めるのが最も適当であることが知られる」

       合掌

 

 


伝教大師伝⑩伝教大師最澄と徳一の論争Ⅱ道忠教団 柴田聖寛

2022-06-26 08:32:09 | 天台宗

 学者でもない私が伝教大師最澄と法相宗の僧徳一との論争について言及することは。おこがましいことでありますが、生涯勉強ということで、それなりに私が理解したことをまとめてみたいと思います。その場合に大いに参考になるのは、最澄研究家の第一人者である田村晃裕先生の『最澄教学の研究』であります。皆さんもご承知のように、最澄を知るには徳一を、徳一を知るには、最澄を知らなければなりません。その意味においても、田村先生は、徳一研究家としても第一人者です。
『最澄教学の研究』が出たのは平成三年のことですが、仏都会津というのは見直され出したのは、平成になってからで、湯川村に勝常寺の薬師三尊像が国宝に指定されたのは、平成八年になってからです。その頃に東大仏教青年会の人たちが調査に会津を訪れています。田村先生がその口火を切ったといっても過言ではありません。
 田村先生は、最澄の教学上の功績として「大乗戒壇を比叡山に設け、奈良で行われていた戒律の制度と異なる、新しい大乗戒のみによる得度・受戒の制度を確立し。受戒以後一二年籠山せしめ、これによって純粋な大乗の僧の養成を志した」「法相宗の徳一との教理論争がある。最澄の天台宗は一乗思想に立ち、奈良で最も隆盛を誇っていた法相宗の三乗思想とは、教学的に対立する関係にあった」との二つを指摘しています。
 とくに田村先生が重要視するのは、後者です。それまでも最澄は法相宗の僧との間で論争をしてきた経過があり、その相手が会津在住の徳一ひとりに絞られたのは、前回も触れていますが、最澄が弘仁八年(八一七)に東国の道忠の弟子・孫弟子の所を訪問したことがきっかけです。比叡山と会津ということで、遠く離れた地であったために、文章によらざるを得なくなり、多くの書が著わされることになったというのです。
 道忠については『叡山大師伝』において「東国の化主道忠禅師という者あり。是はこれ大唐鑑真和上の持戒第一の弟子なり。伝法利生を常に自ら事となせり。遠志を知識して、大小の経律論二千余巻を助写す」と記述されています。最澄が一切経の書写の援助を奈良の七大寺(東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺)に求めたのは延暦十六年(七九七)のことです。道忠は奈良の大寺の僧との交流があったとみられ、最澄の願文は道忠も読んだといわれています。鑑真は天台大師の流れをくむことからも、「持戒第一の弟子」である道忠は、二つ返事で最澄に協力したのです。道忠が六十四歳のときです。それから彼は三、四年して亡くなりますが、「助写」によって、最澄と道忠教団との絆は強化されていたのでした。
 由木義文氏の『東国の仏教』では「道忠と最澄との関係が、延暦十六年に開かれると、漸次、道忠門下の人々は比叡山に登るようになっている。まず、その翌年の延暦十七年には、円澄が、大同元年(八〇六)には、安慧が広智に伴われて、さらには大同三年(八〇八)には円仁が広智に伴われ、それぞれ比叡山に登っている。そして最澄の弟子として、大きく成長していくのであった」と書かれています。
 また、そこでは「鑑真は、凝然の著わした『三国仏法伝通縁起』では、天台宗の第四祖とされている。それは天台大師・智顗—章安大師・灌頂—弘景—鑑真という系譜になる」と紹介しています。
 徳一教団は会津ばかりではなく、その範囲は福島全域、茨城県、山形県、栃木県、群馬県を含む勢力圏でした。徳一建立の寺と称されているものは、実に三十三ヶ寺にのぼります。これに対して、最澄の東国巡化は道忠教団をバックアップするためでした。由木は東国巡化の最澄の目的も詳しく述べています。「東国巡化の一つの要因は、同じ信仰を持つ者と、信仰の喜びを共にしようということであり、もう一つは徳一教団への対策、対応、ならびにそれより道忠教団を護ろうというものであったということになろう。前者は『法華経』二千部一万六千巻を書写し、上野国と下野国に宝塔を建て、各々に千部八千巻の『法華経』を安置し、そこで連日『法華経』、『金光明経』、『仁王経』を講じたということになってこよう。その時、集まった人々について『叡山大師伝』は百千万人と、『元亨釈書』は、上野の縁野寺(浄土院)には九万人、下野の大悲寺(大慈院)には五万人、と記しているがこれにより、いかに多くの人々が、最澄と共に、しようとしたかが知られよう。また、『慈覚大師伝』には、上野と下野で各々円仁含め十人選んで伝法灌頂をおこなったとも記されており、ここにも信仰の喜びを共にしたことがみられよう」(『東国の仏教』
 由木氏によれば、もう一つ特筆すべきは、徳一の『仏性抄』への反駁である『輝権実鏡』がその時に書かれたということです。天台教学の根本である『法華経』の偉大さを信徒に確認してもらうとともに、理論的にも、法相宗より優っていることを示す必要があったからです。
 さらに、由木氏は、最澄の東国巡礼を実現させた広智にスポットをあてています。すでに道忠はこの世を去っており、道忠教団では広智が中心であったからです。それ以前に広智は三回にわたって比叡山に登っているほか、『慈覚大師伝』では「唐僧鑑真和尚第三代の弟子なり」と記しています。
 広智がいた大慈寺は下野薬師寺の戒壇に近く、由木は「道忠は戒壇とは別に『伝法利生』の根拠地として、大慈院、あるいはその他の寺を持ったのであろう。このことは、鑑真が東大寺の戒壇とは別に、律の道場として唐招提寺を持ったことなどを考え併せてみても、決して矛盾ではないだろう」との見方を示しました。
 最澄と徳一との論争は、単なる教義上のものだけではなく、二つの教団の勢力圏が接していたことで、なおさら加熱したことは否定できません。論争の内容に立ち入る前に、そうした背景も、私たちは知っておかなくてはならないのです。

            合掌

 

 


天台宗檀信徒会会長として眞鍋幸意氏(天王寺)が役員会に出席

2022-06-13 19:18:26 | 天台宗

 

 —天台ジャーナルの令和4年6月1日号—

 —辞令を伝達される役員 左から2人目が眞鍋氏—

―廬舎那仏の前で法楽をする岩田教学部長

 天台宗檀信徒会(眞鍋幸意会長)の今年度の第一回役員会は先月12日、京都市東山区の方広寺で開催されました。眞鍋会長は会津天王寺の檀信徒会長でもあり、全国のトップとして、天台宗のために尽力されておられます。 
 同役員会が宗務庁(坂本)以外で開かれるのは今回が初めて。延暦寺を初めとする滋賀や京都の天台宗の仏教文化に触れてもらおうと、所管する教学部布教課企画しました。方広寺以外にも、目と鼻の先の京都国立博物館で開催中の「最澄と天台宗のすべて」も見学しました。
 同役員会終了後、木ノ下方広寺住職から同寺が所蔵する文化財の説明がありました。豊臣秀吉が祀られている豊国神社が隣接しており、1586年に秀吉が請願した大仏を安置したことで知られています。その大仏は「東海道中膝栗毛」でも取り上げられています。大仏は焼失してしまいましたが、現在はその10分の1の廬舎那仏が安置されています。
 歴史に造詣の深い方はご存じだと思いますが、秀頼の時代の1614年に完成した梵鐘に「国家安康」「君臣豊楽」と刻まれていたために、家と康が離れていたことや、豊臣だけが栄えることを願ったとして、徳川方が難癖をつけ、豊臣家が滅亡するきっかけになったのでした。そうした歴史の舞台となった場所だけに、役員の皆さんも熱心に質問されていました。
 また、当日は岩田真亮教学部長から新役員に辞令が伝達されました。岩田同部長は「せっかく皆さんに集まってくださる皆さんに会議だけではもったいないと考えた」と挨拶されました。
 眞鍋会長も「今後もこのような機会は時間さえ合えば可能」と要望されていました。来る7月8日には檀信徒会長会議が比叡山延暦寺で予定されており、昨年同会から奉納された賽銭箱、根本中堂大改修の模様を見学することになっています。私も眞鍋会長のお伴をいたしましたが、檀信徒の皆様のお力があるからこそ、今の天台宗があるのだと思います。

             合掌


多数の国宝・重文が展示された「最澄と天台宗」特別展  柴田聖寛

2022-05-28 11:46:39 | 天台宗

 

 伝教大師1200年大遠忌記念特別展の「最澄と天台宗」が4月12日から5月22日まで京都国立博物館で開催されました。主催は京都国立博物館、天台宗、比叡山延暦寺、読売新聞社、西日本新聞社、文化庁。私は今月12、13の2日間にわたって拝観しましたが、 天台宗の一僧侶として今回ほど感激したことはありません。比叡山ばかりではなく、天台宗の宝物が一堂に会することは滅多にないからです。
 天台宗の関係者ばかりではなく、一般の人もたくさん入館されていたので、展示を楽しむための鑑賞ガイドとして「最澄さんと天台宗」の資料が配布され、最澄に関する年表や、最澄を取り巻く人々、法華経を重んじ、「みんな仏になれる!」といったこと。中国に渡ったときに、天台山の仏隴寺で師の行満から譲り受けた袈裟、延暦寺の根本中堂にまつられている最澄作の薬師如来立像、根本中堂の「不滅の法灯」のことなどが書かれています。
 同特別展では延暦寺における日本天台宗の開宗から、東叡山寛永寺を創建して、幕府と強固なつながりを得た江戸時代に至るまでの天台宗の歴史と名宝を取り上げていました。    国宝としては、一乗寺所有の「聖徳太子及び天台高僧像」、京都来迎院の「伝教大師度縁案並僧綱牒」、延暦寺所有の「伝教大師入唐牒」「六祖慧能伝」「伝教大師請来目録最澄筆」「羯磨金剛目録最澄筆」「天台法華宗年分縁起最澄筆」「光定戒牒嵯峨天皇宸筆」「刺納衣」「七条刺納袈裟」、奈良博物館所有の「尺牘最澄筆」、東寺所有の「弘法大師請来目録最澄筆」「入唐求法巡礼行記」、三井寺所有の「徳円印信之類」「智証大師(円珍)坐像御骨大師」「智証大師(円珍)坐像中尊大師」「円珍俗称系図」「五部心観(完本、前欠本)」「越州都督府過所・尚書省司門過所(智証大師関係文書典籍のうち)」、東京国立博物館所有の「大宰府公験(円珍関係文書のうち)」、深大寺所有の「釈迦如来倚像」、中尊寺所有の「金銅迦陵頻伽文透彫華鬘」「金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅図」「中尊寺一切経」、廬山寺所有の「遺告良源筆」、聖衆来迎寺所有の「六道絵」などが展示されています。
 会津関係では国重文の会津美里町の法用寺の国重要重要文化財の「金剛力士立像」がありました。同特別展のために発行された図録「最澄と天台宗のすべて」では「法用寺は、会津盆地の南端、会津美里町に所在し、奈良時代の創建と考えられるこの地域切っての古刹である」「ダイナミックな怒りの表現をともなう金剛力士像のなかでは、威嚇する身振りや顔の表情は控えめであり、平安時代後期の穏やかな作風をよく示している。東北地方では仏像の用材としてよく用いられるケヤキの一材から頭体の主要な部分を彫り出す一木造りの技法でつくられており(像の背面部は背板風に割り放って像内を空洞にする内刳りをほどこす)、材料から判断して当地の製作であるとみられている」
 最近の仏教美術界の見方としては、会津の湯川村の国宝薬師三尊像は法相宗の徳一の手になるということで見解が一致していますが、会津坂下町の国重文上宇内薬師堂の薬師如来坐像は天台宗の影響下につくられたといわれています。「金剛力士立像」と同じ頃の造仏のようです。
 また、江戸時代の天台宗ということで、芦名氏の子孫ともいわれる慈眼大師天海のことも紹介していました。栃木輪王寺所有の国重文の「慈眼大師(天海)坐像」、延暦寺所有の「慈眼大師(天海)坐像」には圧倒されました。寛永寺所有の「慈眼大師縁起絵巻」も展示されていましたが、慈眼大師(天海)を知る上でも、大変貴重な資料です。
 同特別展からは大変な刺激を受けましたので、興味がある方には、その図録で色々とお話をしたいと思っています。気軽に会津天王寺までお越しください。

            合掌