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会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

令和5年の比叡山から発する言葉は開発真心 柴田聖寛

2023-02-26 14:38:20 | 天台宗

 

 

 令和5年の比叡山から発する言葉は「開発真心(かいはつしんしん」と決まりました。本年1月1日の年明けと同時に、一隅を照らす会館前でその言葉「書」の除幕式が執り行われ、水尾寂芳延暦寺執行より発表がありました。
 この言葉には「人に本来具わって嘘偽りの無い<真実の心(真心)>は<仏性>つまり<ほとけごころ>に他ならない」との考えのもと、「相手にも真心が具わっている以上、真心を込めれば相手に通じる。お互いの<真心>を開き発こうして目覚めさせよう」との願いが込められています。
 発表にあたって、水尾執行は「自らが待つ真心を<開発>して動かし、今年一年間どんなことにも心を込めて取り組んでいきましょう」との思いを語られました。
 天台宗はどんな人にも仏性があるという立場ですから、人が人と接する場合にも、自らが誠実に対応さえすれば、どの人とも理解し合えるということです。殺伐とした昨今の世界にあっては、すぐに敵味方に分かれて、血みどろの争いをしていますが、それは本来の人間の姿ではないのです。
「書」は比叡山の願いを象徴するものとして、根本中堂と一隅を照らす会館前に今後1年間掲げられるほか、『比叡山時報』表紙の題字下、さらには、比叡山延暦寺のホームページで閲覧することができます。
      合掌


天台宗と法華経について - 誰もが救われる信仰とは- 柴田聖寛

2022-12-30 12:02:20 | 天台宗

 

 伝教大師最澄様が書かれたものに『顕戒論』があります。「大乗戒壇」を比叡山につくるために書かれましたが、そこではなぜ「大乗戒壇」でなければならないのかについて触れています。小乗とは違った「大乗戒壇」があるべきだという主張は、「法華経」を信仰する最澄様にとっては、最大の懸案でした。
『法華経』は初期の大乗経典に属し、鳩摩羅什(くらまじゅう)訳で知られ、全体で27章(28章)からなっています。
 お経の王様といわれています。鳩摩羅什は父親がインド系で、母親が漢民族でした。『法華経』を最初から最後まで読んで理解したという人は稀だといわれています。
 方便品を中心とする部分を第一部分、法師品から嘱累品までを第二部分、嘱累品から後の六品を第三部分としており、この順で成立したとの見方が有力です。
「方便」というのは「巧みな手段」ということであり、声聞や縁覚のための小乗の教えも、菩薩を説く大乗の教えも、最終的には「一切衆生が」仏になることができるという信仰に導くというのです。
 第二の部分では、「法華経」の信仰者が、どのように試練に耐えたかを祥介しています。第三の部分は、もともとは独立していたものが取り込まれたとみられているが、そこに『観世音菩薩普門品』も入っています。
『観世音菩薩普門品』は、『観音経』としても独立しており、「念彼観音力(ねんぴーかんのんりき) 」「観世音菩薩」の二つを唱えれば、それぞれ「観音様の力を念ずることで救われる」「心から観世音菩薩をたたえれば、必ず救われる」と書かれていますが、『法華経』の誰もが成仏できるという信仰が根本にあるからです。
 『法華経』の信仰で忘れてならないのは、聖徳太子です。厩戸皇子とも呼ばれていますが、曽我馬子とも近く、仏教の崇拝をめぐって物部氏と対立したとみられていることです。17条の憲法を制定したことで知られています。
 さらに、特筆されるべきは、聖徳太子が、禅定と法華信仰の僧であった南岳慧思(なんがくえし)の後身であるとの説があることです。慧思は天台宗を開いた智顗(ちぎ)の先生ですから、そういう話が奈良時代にはすでに広まっていました。しかも、その話を広めたのが鑑真の弟子筋であったというのですから、それなりに説得力があったのです。
 聖徳太子は『法華経』『勝鬘経』『維摩経』の注釈書である『三経義疏』を書いたともいわれていますが、最近の研究では、末木文美士氏が『日本仏教史』で、聖徳大太子の手になるという説を支持しています。著者自身の詩翁の表明の箇所が多く、漢文の不適切な箇所や誤字が見られることからです。
 とくに、末木氏は「単なる『大乗』を超えた絶対的な『一大乗』を主張しているが、」これはのちの最澄などの運動につらなるものといえる」と書いています。
 その後に奈良時代となり、南都仏教が栄えますが、それと対抗する意味で、再度『法華経』が見直される時代が到来したのです。伝教大師最澄以前にも、日本に『法華経』の信仰が根付いていたのでした。
 『法華経』は誰でも成仏できるという信仰であるとともに、今も生きる知恵があるというので、現世的なご利益に関しても語っている。
 宮沢賢治などの文学者にも大きな影響を与えました。賢治の家は、もともとは浄土真宗でしたが、18歳で、島地大等編の『漢和訳対照妙法蓮華経』を読み、それで法華経を信仰するようになり、日蓮宗の宗教団体「国柱会」のメンバーとなりました。
 『雨ニモマケズ』の詩の関しては、自分のことを捨ておく菩薩道の実践であり、まさしく『法華経』の教えそのものなのです。(去る12月15日、柳津温泉花ホテルで、私が講演した要旨をまとめたものです)

 


徳一の藤原仲麻呂子息説が最近になって急浮上 柴田聖寛

2022-11-27 12:11:24 | 天台宗

 

 伝教大師最澄様と論争した法相宗の僧徳一に付いては、私は関係する書籍を片っ端から目を通すようにしていますが、最近になって次々と新たな研究成果が発表されています。小林祟仁師の『日本古代の仏教者と山林修行』は昨年八月に出たばかりですが、私には大変参考になりました。
 といいますのは、それまで否定されていたことが、逆に脚光を浴びるようになってきたからです。資料が乏しいとはいえ、徳一の説明をめぐっては、立場立場で大きな食い違いがあるからです。
 小林師が特筆したのは下記の点です。私はそれに関して論じる知識を持ち合わせてはいませんが、私なりに勉強したいと思っております。「藤原仲麻呂(恵美押勝)子息説は、薗田香融氏が仔細に検討し、その可能性は極めて低いとしたが、近年に保立道久氏は子息説に大きな矛盾は発生しないとする。また興福寺修円の弟子との説は、塩入亮忠氏が両者の年齢関係から疑問視をしたが、そもそも両者の生没自体に不明の点があり判断しかねる。むしろ玄奘や窺基の流れを汲む正統唯識学派の学的系譜からして、南都時代の徳一が、修円と近しい位置にあった可能性は十分にあり得る」
 ここで注目されるのは、藤原仲麻呂子息説の再評価です。小林師は保立道久東京大学史料編纂所名誉教授が「藤原仲麻呂息徳一と藤原氏の東国留住」(『千葉史学』六七・二〇一五)を執筆し、「徳一が仲麻呂の子として七四九年(天平勝宝一)頃に生まれたという想定と徳一の生涯の事績との間に大きな矛盾は発生しない」と主張したのを紹介しています。
 さらに、保立同名誉教授の説明の文章を注釈において引用しており、それは衝撃的な見方でした。「天平宝宇八年(七六四)の仲麻呂蜂起事件に際し、当時十六歳であった徳一は陸奥に流罪になるものの、後に許されて東大寺へ戻り、さらに藤原氏の氏寺である興福寺に拠点を移したというのは十分に考えられるとする。そして、『徳一があらためて会津に下った理由は、やはり一つの別世界を希求したためと理解すべきであろうか』と述べる。また、仲麻呂の弟の巨勢麻呂の子孫が、常陸や上総などと深い関係をもっていたことを指摘し、『徳一の開基伝承をもつ諸寺院は常陸国から上総にかけて広がる徳一の同族の藤原氏の留住者たちの存在を背景として理解すべきものである』とし、京都と地方の双方で活動した貴族、いわゆる留住貴族の問題を論じている。徳一が実際に仲麻呂の子息で、仲麻呂蜂起事件を契機として同族が東国に留住していたとなれば、それは徳一が斗藪(とそう)の行き先として東国を選択する大きな背景になったと考えられる」
 このほか、徳一を修円の弟子とする説については、修円と徳一の双方の生没年が不明であることから、断定を避けることで、可能性の余地を残したともいわれます。このことに関しては今後新たな展開があるとみられていますが、興福寺や室生寺との関係からも、修円と徳一が無関係であったと断定することの方が間違っているのだと思います。


住職30年勤続功労者として表彰されました 柴田聖寛

2022-10-31 08:21:13 | 天台宗

 

 令和4年度の天台宗功労者表彰式が去る10月25日午前11時から比叡山の延暦寺会館で開かれました。30年にわたって天王寺住職を勤め、布教に功労があったというので、大樹孝啓天台座主猊下が私に表彰状と記念品(袈裟)を手渡されときには、熱いものがこみあげてなりませんでした。住職30年勤続功労者は全国で56名。東北地方からは6人、福島県は私一人でした。
 ついで、大樹座主猊下からお言葉があり、阿部昌宏宗務総長からの挨拶があり、記念撮影が行われました。続いて水尾寂芳延暦寺執行の祝辞のあと祝宴が行われました。
 今年度は天台宗の住職を50年、30年と勤められた41人の方が出席されましたが、その一人として私も光栄に浴することができました。祝宴の場で水尾執行から「柴田さん。お若いですね」と声をかけられましたが、その一言で励まされて元気が出ました。私は75歳を迎えましたが、今後も日々精進を重ねていきたいと思っております。
 思い起こせば天王寺の住職になったのは、私が40代前半のときでした。中通り生まれで会津との結びつきはほとんどありませんでした。御仏の命じられるままに、単身で会津美里町に移り住んだのです。私は50代で結婚して家族を持ち今日にいたりました。何もない所から出発し、新寺建立と同じような苦労がありました。檀信徒の皆さんのご支援のおかげで、門構えや庭を整備しました。とくに庭に関しては、山形県の鳥海山の石の寄進を受けて、寺院らしい雰囲気になりました。
 住職としてのお勤め以外に、天王寺が会津三十三観音霊場の二十八番札所の高田観音であることから、私は会津三十三観音霊場についての本を過去に出版するとともに、伝教大師最澄様と論争をした法相宗の僧徳一が、会津の慧日寺にいたということを知り、私なりに研鑽を深めております。また、布教活動の一つとして、会津天王寺通信のブログをアップしています。
 できれば私は、これから20年住職を勤めさせていただき、住職50年勤続功労者として、比叡山に招かれるのが夢です。日々精進に努めたいと思っておりますので、皆様のご指導とご支援のほど、何卒よろしくお願いいたします。

           合掌

 


天台宗檀信徒会が根本中堂の大規模改修を見学 柴田聖寛

2022-08-03 11:52:03 | 天台宗

 

ー挨拶する眞鍋会長—

 天台宗檀信徒会(眞鍋幸意会長)の会長会と総会が先月八日と九日の二日間にわたって比叡山会館で開かれましたが、私も去る五月の同会役員会に引き続き、眞鍋会長のお伴をして、比叡山に出かけてきました。阿部昌宏宗務総長や岩田真亮教学部長のお二人には本当にお世話になりました。会議後に檀信徒の皆さんは、昨年に同檀信徒会が奉納した賽銭箱や、国宝である根本中堂大改修の模様を見学することができました。関係者各位のご配慮には深く感謝申し上げます。
 根本中堂とその前の廻廊は、400年ほど前に再建されましたが、老朽化が進んでいたために、滋賀県が平成28年(2016)に着手しました。昭和30年(1955)に半解体で一部分が改修されましたが、今回は大規模改修で「屋根の葺き替え」「塗装(ちゃん塗・丹塗・漆塗」「彩色の洗浄剥落止」「柱・軒廻り・床下の木部修理」「飾り金具の修理」が予定さています。
 根本中堂とその前方にある回廊(重要文化財)は、現在は大きな覆い屋「素屋根」の中にありますが、私たちは修学現場を見学できる「修学ステージ」(3階)で、工事関係者から説明を受けることができました。
 これまでに、根本中堂の「柱・軒回り・床下の木部改修」の沈下修正が行われ、真日本曳家協会からの要請を受けて、吾妻組が担当しました。床下で支えている柱を根継ぎする作業などが順調に進んでいます。目下、問題になっているのは、廻廊の屋根の改修に必要な長野県産のサワラ材の確保が難しくなっていることです。当初の予定の10年よりもずれ込み、工期が1年9カ月延長し、完成は2027年12月とみられています。
 工事期間中であっても、参拝ができるようにと配慮がされていますし、珍しい作業を目にすることもできますので、是非とも参拝のほどよろしくお願いいたします。

             合掌