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会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

吉田慈順師が伝教大師と宮沢賢治のみ教え解説  柴田聖寛

2022-05-22 19:06:17 | 天台宗

 

 滋賀教区東雲寺住職で、天台宗典編纂所編輯員の吉田慈順師が、令和4年5月8日号の比叡山時報に見開きで、伝教大師と宮沢賢治について「一乗の敷衍にささげたご生涯 宮沢賢治が成就を願ったみ教えとは」という題で書いています。
 吉田師は、比叡山延暦寺の総本堂根本中堂の向かいに建っている宮沢賢治の下記の歌碑を取り上げ、

「根本中堂」

ねがはくは

妙法如来 正徧知

大師のみ旨

成らしめたまへ

 その歌を踏まえて「最澄の御旨」を解明すべく筆を起こします。そして、最澄のキーワードが「一乗」であること。最澄が出家した近江国の大国師であった行表から「(行表)和上より心を一乗に帰すべきこと学んだ」という点を重視します。
 また、当時の日本仏教界で法相宗と三論宗との間で論争が行われており、その段階で、すでに三乗か一乗かをめぐってであったために、その渦中にあった行表が、一乗の正しさを最澄に説いたというのです。
 その使命を期待された最澄は「高雄講経」において、天台教学を講義することで、三論宗の側からは「長きに亘る論争が氷解した」と絶賛されたのです。
 最澄はいつ最澄の法門を知ったのかと言うと、比叡山に入って間もない時期だといわれており、華厳宗の法蔵の著作を読むことで、天台大師の教えに心を寄せるようになったのでした。三論宗の一つの華厳宗を経て、天台宗の法門に入ったというのが、吉田師の見方です。
 最澄の『願文』のなかの「伏して願わくは、解脱の味、独り飲まず。安楽の果、独り証せず。法界の衆生と同じく妙覚に登り、法界の衆生と同じく妙味を服せん」という言葉も、一乗の信仰の表れとみるのです。
 私は旧約といわれる鳩摩羅什の妙法蓮華経は名文の誉れが高いものがありますが、そのお経を唱えておりますと、なぜか心まで洗われるような思いがしてなりません。また、宮沢賢治に関しては、田村芳朗の『法華経 真理・生命・実践』がその最期の様子を伝えています。「題目を唱え、父に次のごとく遺言した。国訳の『法華経』を一千部、知人に配ってほしい。その国訳の最後に『私の全生涯の仕事は、この経典をあなたにお届けし、その仏意にふれてあなたが無上道に入られることを』という意味の言葉を書き入れてほしい。こう遺言し、オキシフルで自分の体をふいて息をひきとっていった」

           合掌


「分断ではなく新たな統合を目指した伝教大師最澄 柴田聖寛」

2022-04-16 17:50:18 | 天台宗

 師茂樹先生が先月5日に東京都港区の伝道センタービルで行われたBDKシンポジュウムで話されたことが、仏教界にとどまらず、ネットなどでも大きな話題になっています。前にも申しましたように、師先生は伝教大師の「共許(ぐうご)」の思想を重要視されています。今の世界は分断と対立が深刻化し、それが戦争を引き起こす要因になっています。考え方が違っていても、相互に承認すれば、争わずに済むのです。自分たちだけが正しいという思い込みが、世界を破滅の方向に引っ張っていくのです。
 個人主義というのは西欧の考え方ですが、ともすれば自分だけが良ければというミーイズムになりがちです。間違った個人主義が西欧社会に混乱をもたらしていると思います。いかなる信仰者であろうとも、原点は共通するものがあり、今こそ手を携えるときではないでしょうか。
 伝教大師最澄と徳一の論争にしても、単なる批判の応酬ではなかったと思います。昨年11月にゲンロンカフェでは『最澄と徳一──仏教史上最大の対決』の刊行を記念したイベントを開催し、そこでの議論の内容がネットにアップされています。師先生の「当時、三論宗と法相宗の間で大きな対立があったため、それを解消することが多くの仏僧に共通する課題だった。最澄もまた、この対立に対する第三の勢力として位置付けられる。最澄は天台以外の多様な宗派の経典も総動員して徳一を説諭するが、その理由はこうした仏教界を巻き込む文脈からはじめて理解できるのだという」という見方を紹介しています。
 伝教大師最澄が三論宗と法相宗の論争に加わったのは、当時の日本仏教界の分断にストップをかけ、新なる統合に向けたステップと理解しているのです。天台宗の一僧侶である私は、新たなる統合という伝教大師最澄の果たした役割を再認識することが、世界平和に結びつくと私は確信しています。

         合掌

写真は師茂樹先生

 

 


天台宗の今年の言葉は『大悲万行』 柴田聖寛

2022-04-13 19:45:50 | 天台宗

ロシアのウクライナ侵攻に世界中の関心が集まっていますが、戦争ほど悲惨なことはありません。平和を実現するためにこれまでも天台宗は先頭に立ってきましたが、今起きている悲惨な状況が一日も早く終わることを願い、私も日々祈りを捧げております。
令和4年の比叡山から発する言葉は「大悲万行」です。本年1月1日に水尾寂芳延暦寺執行から発表がありましたが、今こその言葉を世界中の人に知ってもらいたいと思います。水尾執行は「伝教大師は己を忘れて他を利する『忘己利他』の精神を示されましたが、いきなり自己を忘れることは難しいかもしれない」と述べられるとともに、「まずは自分のなかに大悲の心〈仏性〉の気付き、他人のために何か出来るよう心がけたい」と思いを語られました。
戦争というのは、国家的な野心によって引き起こされるものです。どんな人でも仏性があるとの信仰にもとづけば、他人を抹殺することなどできません。仏教徒は平和を愛する信仰です。唯一神の信仰とは違い、自らを絶対化することはありません。それだけに度々迫害に遭うことになったのです。私はシルクロードで有名な敦煌を何度か訪れましたが、仏教が中国に伝わる中継地でもありました。7回にわたって法難に遭っており、今も敦煌莫高窟が残っているのは、奇跡が重なったからといわれています。
仏性がある人は殺めることは許されることではありません。己を忘れて他を利することにはならないからです。一仏教徒として、私は今まで以上に平和の大切さを訴えていきたいと思っています。

              合掌

写真は水尾寂芳延暦寺執行


「伝教大師伝⑨伝教大師最澄と徳一の論争Ⅰ」 柴田聖寛

2022-02-07 18:24:31 | 天台宗

 

 伝教大師最澄と会津の慧日寺の徳一との論争は、それこそ日本思想上最大の出来事であったといわれるが、そのきっかけは、会津を中心にして、福島県全域や茨城県にまで影響力を拡大していた法相宗の徳一教団と、栃木県から群馬県にかけて勢力圏をもっていた道忠教団の争いが発端だといわれています。それが宗教的な論争にまで発展したともみられています。
 田村晃裕編の『最澄辞典』によると、道忠というのは「最澄を後援した東国の僧」で、『元亨釈書』では「鑑真につかえて戒学をうく、真、持戒第一と称す」、『本朝高僧伝』には『出家習学し、鑑真を拝するに及び具足戒に進む』と記されていることに言及しています。また、比叡山おいて修行中で無名であった伝教大師最澄が仏教の書籍を写すのを依頼したときに、率先して協力したことで関係が深まり、それ以降、道忠の弟子や孫弟子が比叡山で修行するようになり、その中から天台教団を支えた人たちが出たのでした。第二代天台座主円澄、第三代天台座主円仁、第四天台座主安慧といったように、実に三十五年間にわたって道忠系の人たちが占めたのでした。
 古くからのそうした関係もあって、弘仁八年(817)に東国を訪問し、上野国(群馬県)浄土院、下野国(栃木県)に一級の宝塔を築き、それぞれに法華経1000部を書写しておさめることとしました。そのときには円澄、円仁、徳円(下総国出身)を帯同しています。そこで徳一が『仏性抄』で『法華経』を方便の教えとして批判していることを知り、最初は道忠教団に向けられた書への反論を自ら書いたのでした。
 この論争についてもっとも簡潔に述べているのは『最澄辞典』です。伝教大師最澄を語ることが同時に徳一を語ることでもあり、最澄研究家の泰斗であった田村氏が徳一研究家としても抜きん出ているからです。
「恐らく発端をなしたのは徳一が『仏性抄』を著わして『法華経』を方便の教えであると批判したことに始まるのであろう。それに対して、最澄は『照権実鏡』を著わして、方便の教えと真実の教えとを区別する基準が一乗思想にあることを示し、併せて前に書いておいた、諸宗の学匠が天台宗を拠り所にしていることを示した『依憑天台集』(もっとも古いのが天台であり、それ以外の影響を受けなかった諸宗はなかったと主張・伝教大師伝⑧で取り上げています)を徳一におくり、更に『法華経』の内容として、天台教学と一乗思想の要点を記した『原守護国界章』を著わし、ここから相手の文々句々を引用して批判する本格的な論争に発展したものと思われる。『中辺義鏡』での批判、『守護国界章』での反論、『遮異見章』の再批判という系列で、天台教学と法相教学・一乗と三乗との問題がとりあげられ、この中、一乗思想について『決権実論』『通六九証破比量文』をめぐる論争に展開され、最後に、最澄はこれらの論争の要点をまとめ、反論を行いながら、『法華経』の他の経典・宗派よりすぐれた思想であること10点にまとめた『法華秀句』を弘仁十二年に著わして、最澄に関する限りでは論争の最後をなし、その翌年弘仁十三年六月に没くなっていったのであった」


瀬戸内寂聴師の遷化の報に接し   柴田聖寛

2021-12-10 20:26:06 | 天台宗

 

 

 瀬戸内寂聴師が去る11月9日に遷化されました。数えで99歳でした。私にとって忘れられないのは、事務局を仰せつかったこともあり、一隅を照らす運動40周年東日本大会が平成21年10月6日、磐梯熱海温泉の「郡山ユラックス熱海」で3000人の参加者を集めて開催され、瀬戸内師の「一隅を照らす心」と題した記念法話が行われたことです。瀬戸内師は「命とは自分以外のものを幸せにするために授かるもの、どうしたら相手が幸せになるか思いやり、相手の痛みを感じわかちあう」ことの大切さを説いておられました。ユーモアを交えての講演に聴衆も身を乗り出して聴き言っていたのが今も忘れられません。
 第一部で同運動総裁である半田孝淳天台座主猊下大導師による法華懺法が厳修され、同運動会長小堀光詮三千院門跡門主らが挨拶を述べたのに続いての第二部でお話をされたのでした。
 天台ジャーナル令和三年12月1日号によると、瀬戸内師は徳島市出身。東京女子大卒。昭和32年に『女子大生曲愛怜(チュイアイリン)』で文壇にデビュー、昭和48年11月、51歳で出家。行院後、京都嵯峨野に「寂庵」を結び、昭和62年には陸奥教区天台寺就任。京都と岩手を往復する生活を長く続けてこられました。小説などの著作は400冊を超えるといわれます。そして、一般社会に対して、著しく天台宗の宗旨を宣揚した僧侶に贈られる天台特別功労賞を受賞されました。そのときの講演では、湾岸戦争の終了後にイラクに薬を届けに向かったエピソードも語られ、平和の大切さを訴えられました。
 私は瀬戸内師の本がほとんど目を通していますが、2年前に出された『寂聴九十七歳の遺言』を読み直してみて、「死についても楽しく考えたほうがいいわね」という帯の文章に救われるとともに、正直に生きたことで天台の僧侶になったわけで、伝教大師様のお導きがあったからではないかと思います。
 とくに私の胸が詰まったのは「愛することは許すこと」の小見出しで述べられている文章です。死刑囚になった我が子を愛し続けた母親の愛を取り上げていたからです。「死刑囚のわが子を見舞ったところで何もかえってこない。それこそ世間の非難しか返ってこないかもしれません。でも、見舞わずにはいられない。これがほんとうの愛情なのです。こうした母の愛は、すべての人間を許す仏さまや神様の愛、『慈悲』や『アガペー』に近いものでしょう」と書いていられます。
 瀬戸内師ほどではありませんが、私の人生も波瀾万丈でありました。それでも今天台宗の一僧侶として信仰を踏み固めるべく精進しているのは、伝教大師様の教えがあったからこそで、瀬戸内師の遷化の報に接し、なおさらその思いを強くした次第であります。

 

  合掌