エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

ルターが気付いた大事なことって?

2015-07-24 08:43:05 | アイデンティティの根源

 

 ルターは、神の領域とこの世の領域の2つによける「二王国説」を採りました。それは、「改革派は目覚めていたけれども、ルター派は眠っていた」とバルトが言う事態を、ナチス時代にもたらす結果になりましたね。

 Young Man Luther 『青年ルター』p214の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 この2つの人格とは「いま」何か? なんてことはどうだっていい。神学者、哲学者、心理学者はそれぞれ、人間を別様に切り分けますし、その分け方を統一しようたって、何にもなりませんもんね。ここで大事になるのはね、ルターが、それまでとは違って、心の中に葛藤を抱く人間の大事さを強調したことと、自分をよくよく見つめると、心の中に、完全な存在を見つかることから、救われることの大事さを強調した、ってことですね。

 

 

 

 

 心の中をじっと静かに見つめてるとね、いろんな余計な考えがだんだんなくなってくるんですね。只管打坐をしている、座禅の人たちも「妄想(もうぞう)しないことだ」と言うそうですね。同じことです。そうするとね、自分の心の底の底の方に、ルターがいう「完全なる存在」が見つかんですね。それは「語りかける存在」です。その存在に気付けば、物事に一喜一憂しない、「確かな自分」、アイデンティティと呼ばれることもある、自分が手に入りますよ。

 あなたも良かったら、どうぞ!

 

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古老の知恵は、寓話に似てている

2015-07-24 07:51:06 | エリクソンの発達臨床心理

 

 昔は年寄りは、生きた知恵と静かに死ぬ死に方を知っているものでした。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p62の10行目途中から。

 

 

 

 

 

でもね、こういった「年寄り」みたいな言葉を今も使いますかね? いまは、年寄りがとっても増えて、急速に数が多くなって、かなり元気な《高齢者》になりましたからね。逆に、歴史的な変化のために、昔は年寄りはこうだと思ってきたことを私どもは思わなくなっていませんかね? 私どもの人生でもそう思わなくなっているでしょうし、民族の叡智の中ばかりではなくて、民族精神の中でも生き残っていた、手塩に掛けた見識にしたがっても、そう思わなくなってるでしょう。

 

 

 

 

 

 昔話をお爺さんとかお婆さんから聞かなくなってますもんね。あるいは、土地の古老から、土地の歴史や伝説を聴く機会も、今はメッキリ減りましたね。昔は縁側で、あるいは、こたつや囲炉裏を囲んで、そんな話を聴いたもんですよね。年がばれますけどもね。

 そういう話は、寓話に似て、人間がこの世で生きる知恵、いろんな人を肯定するきっかけが隠れていたもんですね。

 そう言った知恵やきっかけは、今はどこに行っちゃったんでしょうか?

 

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信頼があるほど、笑いがある?

2015-07-24 06:37:43 | エリクソンの発達臨床心理

 

 今晩は、「笑い」について、考えます。

 日本で笑いと言ったら、吉本興業や松竹新喜劇の藤山寛美さんの笑いを思い出す人が多いかもしれませんね。テレビでは、その手の笑いが多いのかもしれません。でも、本屋さんに行って、「漫画」や「雑誌」や、あるいは、「人文科学」、「小説」、「新書」、「新刊」などのコーナーや本棚はあるでしょうけれども、「笑い」というコーナーや本棚を日本の本屋で見つけることは少ないのではないでしょうか?

 その点、欧米では、ユーモア Humor(Humour)というコーナーを本屋さんで見かけることが多いですね。はじめは気付きませんでしたけれども、宮田光雄先生の『キリスト教と笑い』(岩波新書 新赤版219)を読んで、そのように教えられましたね。確かに、欧米豪(オーストラリア)で、いろんな本屋さんに行きましたけれども、ユーモアのコーナーが実際によく目につきますね。

 何故なんでしょうか? 日本では、これだけお笑い番組がテレビでは多いのに、本となれば、そのコーナーが出来るほどではないけれども、欧米豪では、お笑い番組が日本ほど多い感じもないのに、本の分類としては、ユーモアが確立している。文化比較的にその違いが生じるのは、何故なんでしょうか?

 その答えは、私には分かりません。比較文化論を専門にされている方に伺いたいくらいですね。ですから、そこにはあまり深くは、入れません。しかし、私が、宮田光雄先生の教えに従って、日ごろから考え、実践していることを、ご一緒に考えることができればと思います。

 笑いについての本の中で、あるいは、宮田光雄先生が引用されている笑いの本の中で、一番気に入っている本があります。何度読んでも、ますます惹きつけられる本なんですね。それは、リチャード・コート著 木鎌安雄訳の『笑いの神学』(聖母文庫)です。もともとの本は、Cote, Richard G. Holy Mirth: A Theoty of Laughter, The Alpine Press, 1986です。リチャード・コートも、木鎌安雄先生も神父さんですから、カトリックの人たちですね。これは印象の域を出ませんが、欧米の笑いの本の著者は、カトリックの人が多い感じです。ですから、信頼が深い人ほど、ユーモアがあるのかもしれません。

 このコートさんは、a laughing God「笑っている神」というシンボルを掲げています。これはとっても大事なものだと私はかねがね感じています。神と言ったら、『青年ルター』の話に出てくるような、エンマ様のような「怒りの神」であることも少なくないんじゃないかしらね。でも、コートさんは、「神様は笑ってんですよ」と教えてくれています。なんで神様は笑ってんのかな? この笑いは、嘲りとは真逆の笑いです。 人を貶めるような嘲りではない。宮田光雄先生の言葉で申し上げれば「解放としての笑い」です。何から解放してくれるんでしょうか? 

 それはね、コートさんの言葉をご紹介して、今晩の笑い考を閉じようと思います。

「” 神様は笑っておられる ”というシンボルを想像したらね、思い煩う必要などない心配を、無用なものにしてくれますし、” 自分がいかに立派な人物かをいつだって証明しなきゃ “という空しい努力から、私どもを解放して下さいます。それから、私どもが受け身になるんじゃなくて、心からリラックスすることも出来ますし、陽気で楽しくなりますから、本物のクリスチャンになれますもんね」(p.56,邦訳p.97)。

 

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