エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

ルターが、苦しみの中に見つけた勝利

2015-07-15 08:09:46 | アイデンティティの根源

 

 「神の判断」は、自分の心の声を聴いて忠実に従うこと、それは同時に、理性的に、誠実に、真実に判断することなんですね。

 Young Man Luther 『青年ルター』p212の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 自分自身が適応することは、一面では、一連の無意識の罠と見なされるのでしょうか? マルティンは息子として、自分が心深く苦しんできたのは、ルターが宗教熱心であることを本物だと父親に認めさせることができなかったからですし、しかも、父親の言葉をずっと後生大事にしてきて、あまりにも長きにわたって、子どものように服従してきたのでした。そのマルティンが、子どもとのしての苦しみを意識的に引き受けようと、宗教のレベルにおいて、考えましたし、自分が長い間息子をやってきたことが、実はキリトスの似姿としての勝利であったのだ、分かったのでした。

 

 

 

 

 

 ルターは、自分が苦しんだことから逃げなかったんですね。ルターは、なかなか大人になり切れずにいたことに心深く悩んでたんです。ところが、その悩んでいたことが、キリストの十字架の勝利のように、復活の意味があることに気付いて、「無駄でなかった」と感じるばかりではなく、「こんなに深い意味があったんだ」と悦び勇んだのでした。

 これは、ルターの経験であると同時に、私どもみんなの経験にもできることなんですね。ですから、ルターの、この天にも昇る悦びは、私ども自身の悦びにもできるんですよ。

 

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発達は、「私」次第。

2015-07-15 07:19:51 | エリクソンの発達臨床心理

 

 発達というのは、自分が生きること、自分を生かすこと、自分自身になることです。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p59の第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 かたや、ライフサイクルの原理が、心理社会的な現象全体を描く際に実際に役立つとどうして言えるのか? と質問してもいいですよ。なにも、これは、身体的な過程に、社会的な過程に対してコントロールする排他的な力を与えよう、っていうことなんでしょうか? その答えは、こうです。すなわち、人生のいろんな舞台は、始めから終りまで、身体的な過程と「関連性がある」のですが、人生の舞台は始めから終りまで、あくまでも、「私」が発達する魂の過程次第であると同時に、対人関係の過程に対する倫理の力次第でもあんですね。

 

 

 

 

 人生は、身体ばったりバカデッカクなって、子どもだけ作るんだったら、野獣と何ら違いがありません。人間を人間たらしめるものは、「私」と倫理がどれだけ発達すのかということですね。エリクソンのライフサイクルの発達では、「私」が発達すれば、自ずから倫理的になるんでしたね。ですから、「私」の発達だけが問題なんですね。その「私」は、「本当の自分」、「ありのままの自分」であって、親や会社や社会が期待する「偽物の私」ではないことに注意が必要です。

 ですから、子どもに関わる大人は、子どもに期待するのはいいとしても、それはあくまで、子どもの「本当の自分」、「ありのままの自分」を認めつづけ、肯定し続ける、ということが何よりも大事になんですね。

 そこんとこ、よろしくお願いいたします。

 

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子どもの「私」は、「割れ物注意!」

2015-07-15 02:28:52 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
「本物」とは?
  「本物」と言って思い出すのは、信仰の恩師、西村秀夫です。西村先生の口癖の一つは、間違いなく「本物」でした。 その中でも、忘れならないのは、西村先生...
 

 

 今日はいくつかの文章を引用するところから始めたいと思います。 テーマは教育です。

1つ目は、アンソニー・ストーの『人格の成熟』(岩波書店)p.105から。

「幼児は、自分が無力で依存的であるために、自分の人格が、みずからに要求されていると信ずるにいたったものにたまたま一致するのでないかぎり、自分に徹する勇気を持つことができない」

2つ目は、宇沢弘文教授の『社会的共通資本』(岩波新書696)p.130から。

「教育の目的の一つは、子どもたちのもっているインネイトな理解力という蕾に適当な刺激を与えて、大きく育てて、立派な花を咲かせることである。しかし、子どもたちがもっているインネイトな理解力は、花の蕾、木の芽のように繊細なものであって、決して乱暴に取り扱ってはいけない。自然に大きくなるのを待たなければならない」(註:インネイトとはinnateの音写で、「生まれながらに持つ」だとか「生得的」だとか訳されることが多いが、宇沢弘文教授は日本語に簡単に訳しきれない、と判断して音写した、と考えられます。)

最後は、船本弘毅さんの『聖書によむ「人生の歩み」』(NHK出版)p.61から。

「日本の教育が、戦後、民主主義を目指しながらそれが真実に根付かなかった原因の一つは、民主主義を、それぞれが自由に意見を述べる機会は作ったけれども、最後は決をとって多数決で決まったから正当であるという数の論理にすり変えてしまい、真実に一人ひとりを大切にせず、1人の人間が持つ内面の問題や魂の葛藤に深く心を向けなかったことにあるのではないでしょうか。」

 長々と引用しました。共通していることは何だと思われましたか?

 私が申し上げたいのは、子どもの気持ちと「私」は、非常に健気て、繊細なものです、ということです。心理的支援は、おしなべて、「その人ならでは」が育っていくことをお手伝いすることです。子どもの心理面接でも同じです。子どもの自分、「私」= I を育てることのお手伝いが心理の、そして、教育の本来の使命でしょ。アンソニー・ストーと、宇沢弘文教授が指摘しておられるように、子どもの「私」は非常に繊細ですから、繰り返し認めて、繰り返し肯定しなければ、子どもは「自分に徹する勇気を持つことができない」のですから、「私」を生きられません。

 子どもが「私」を生きられなければ、ウソとフリを演じることになります。その典型が「良い子」と「大人しい子」です。「大人しい子」ということ自体、形容矛盾でしょ。特に、家庭で、「良い子」と「大人しい子」をやってる場合は、重症です。ですから、そういう子どもには、穏やかな、根気強い関わりが必要です。

 子どもの「私」は繊細です。繰り返し認めて、繰り返し肯定したいものですね。なんせ「割れ物注意!」なんですからね。でもね、その「割れ物」がピョンピョン跳ねるのが基本形ですからね。「割れ物注意!」と丁寧に関わると同時に、ビョンビョン跳ねるのに合わせて、陽気で楽しく関わることが大事になりますね。決して怒鳴り声をあげたり、難しい顔や難しい言葉を使うようじゃぁ…?

 

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