エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

苦しみの中にある光

2015-07-12 07:41:39 | アイデンティティの根源

 

 ルターは、当時のキリスト教では、権威とされていた聖アウグスティヌスの主張に異を唱えたわけですね。なぜそのようなことができたのでしょうか?

 Young Man Luther 『青年ルター』p211の、下から15行目から。

 

 

 

 

 

ルターが、心から感じたことですが、聖パウロが真実に近いなぁ、と感じたのは、パウロがいろんな霊的な存在を、哲学的に融合する よりも、生きる上で、二律背反があるのは当たり前だと考えた時でした。すなわち、パウロの主張は、キリストは、完全に見捨てられたと感じていたし、キリストは誠実に、自ら選択して、地獄に行くつもりであった、ということです。ルターは、ここで、非常に熱のこもった言葉で、中世的な賛美の言葉とはまるで違った形で、語りました。ルターは、あらゆる被造物の中で、特別な存在であり、がしかし、ひとりびとりの中に生きている、1人の人間について語ります。その人は、あらゆる人の「中」で死んでいるし、あらゆる人の「ために」死んでくれているようです。ルターは、人が自分自身が生きていくときの苦しみに、出来るだけ向かい合わなくて済むようにさせるような聖人たちなどいらない、としたのは、確かです。

 

 

 

 

 

 そうですよね。自分が生きている時に感じる苦しみを避けてるようでは、その苦しみを乗り越えることなどできません。キリストを信じると、その苦しみがなくなると勘違いする人がいますし、聖人たちにすがれば、苦しみがなくなると、中世の人も考えた。今の日本でも、教会や神社やパワースポットに行くのは、苦しみがなくなり、タナボタで貰いましょう、と虫の良いことがありませんか?

 でも、ルターは違ったみたいですね。それは、むしろ、人生で味わう苦しみに向かい合う方向でした。その方向をルターが勧めるのは、ルター自身が、自分の苦しみから逃げようとして、結局できず、自分の苦しみと向かい合う中から、天にも昇る悦びを発見したからに他なりませんね。

 

 

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いろんなケア

2015-07-12 06:21:34 | エリクソンの発達臨床心理

 

 発達の中で、キリスト教倫理が身に付くようになる、とエリクソンは言います。しかも、クリスチャンに限らずに、キリスト教倫理が身に付くと、エリクソンは言います。ですから、育ちがうまくいけば、人は、自ずから倫理的に生きることができる訳ですね。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p58の第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 世代の巡り合わせについて私がお話するのに対して、私はSudhir Kakar スディール・カカに、「care (低みに立たされている者を大事にすること)に相当するヒンズー語は何といいますか」と尋ねました。すると、カカは、care 「低みに立たされている者を大事にすること」に相当する言葉は1つに限っていないようです、でも、大人は自分の務めを全うするのは、Dama(Restraint、自分の気持ちをコントロールすること)、Dana(Charity、自分が損しても、アンパンをあげること)、Daya(Compassion、人の苦しみを自分のことのように感じること)を果たすことだと言われます、と応えてくれました。この3つの言葉は、日常生活の言葉で翻訳するなら、「to be care-ful、相手の気配りをすること」、「to take care of、相手を大事にすること  」、「to care for、相手の世話をすること」とやるといいでしょうね、と応えるのが精いっぱいでしたね。

 

 

 

 

 

 子どもをはじめ、次世代の人々を育てるためには、様々なcare、ケアが大事な訳ですね。自分をコントロールするためには、無意識の暴力から自由になることが大事でしたね。そうすると、無意識の暴力から自由になりますとね、相手に対する気配りもできてきますし、そうなれば、相手を具体的に大事にすることも、相手を世話することもできますでしょ。

 

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自分を大事にするように、・・・

2015-07-12 04:59:50 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
≪真の関係≫にいきる母親は、素敵です
  子育ては、最深欲求に応えるほどの、私のない暮らし、すなわち、≪超越≫ができる。 本日はp48の6行目から。 &n...
 

 昨日当ブログで、無意識に子どもを傷つける母親を書きましたでしょ。「えっ、そんな母親いるの?」と思われた方も少なからずいたのじゃぁないかしらね? あるいは、「ちょっと、言い過ぎじゃぁないの?」と感じた方は、もっといるかもわかりません。でもね、あんがい、身近にいるもんですよ。私は、仕事柄、相当数の、その手の母親に会ってますもんね。かく言う私も、ごくごく身近にいましたね。

 その母親は、結局、自分を大事にされてこなかったから、わが子に対してさえ、世にも残酷な関わりを繰り返すことができるんですね。でも、意識してやってる場合も、ないではないのですが、その「世にも残酷な関わり」は、そのほとんどが「無意識のなせる業」、「無意識の暴力」なんですね。

 それは、クリスチャンでなくても、知っていることが多い、次の聖句と関係があります。

 「自分を大事にするように、あなたの隣人を大事にしなさい」

 これは、新共同訳では、

 「隣人を自分のように愛しなさい」(「マタイによる福音書」第19章19節、「マルコによる福音書」第12章31節、「ルカによる福音書」第10章27節など多数)

 口語訳聖書では

 「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」

となります。

 私は、山浦玄嗣さんの教えに倣って、基本的に、αγαπωを「大事にする」と訳すことにしています。

 しかし、新約聖書に出てくるこの聖句は、もともとは旧約聖書に出てきます。それは、「レビ記」第19章18節にあります。新共同訳では

「自分自身を愛するように、隣人を愛しなさい」

です。

 新共同訳でも、口語訳でも、命令形ですね。私も、命令形で訳してあります。でもね、この元になっいる旧約聖書のヘブライ語の文章は、英語で言えば、must が入っている感じの文章だそうですね。

ですから、ここはね、つぎのように訳しなおすこともできます。

 「自分を大事にする程度に、あなたは隣の人を大事にすることになっています」

  私は、これが、心理学に唯一ある、例外のない法則であると考えています。心理学は、機械相手ではなくて、人間相手のことですから、例外のない法則はありません。しかし、上記の聖句だけは、例外のない心理学的法則なのです。

 我が子を大事にできず、無意識裡に傷つけ続けてしまう母親という、非常に衝撃的な事実は、この法則が分かると、分かり易いと思います。それはこういうことです。

 意識的には一生懸命にわが子を大事にしようとしているのに、いつの間にか知らないうちに、無意識的に、わが子を繰り返し傷つけてしまう。それは、どこかで「自分も大事にしてもらいたかったのに、大事にしてもらえて来なかった」という思いが幾重にも心の中の無意識にあるからなんですね。その思いは、その思いに留まらないことが無意識の恐ろしいところなんですね。その思いには、幾重にも、非常に否定的な気持ちがベッタリくっついてんですね。それは、自分が冷たくされたときのことを想像すれば、分かります。一回でしたら、「悲しい」、「寂しい」、「残念」、「不満」程度かもしれません。しかし、そういう思いになることが何度も繰り返されたら、どうでしょうか? その場合は、「激しい怒り」と「殺してしまいたいほどの憎しみ」を抱くことになんですね。その気持ちが、自分ではコントロールの効かない無意識の中に、滓のように、油汚れのように、ベッタリとくっついて、日常生活の中では、きれいにできずにいる訳なんですね。ですから、日々の生活の中に、その「激しい怒り」や「殺してしまいたいくらいの憎しみ」が、ときどは、あるいは、頻繁に出てくるわけですね。子どもに対する、禁止の言葉、命令の言葉、否定の言葉が止まらない時、子どもの事よりも、ついつい仕事に気持ちが行ってしまう時、その自分ではコントロールできない、自分の中の、無意識の暴力に、その人は、さらされている訳ですね。

 ここから解放されるためには、カウンセリング・セラピーなどを通して、激しい怒りや憎しみを抱え込んでいる、弱くてみじめな自分を見つめ、受け止め、受け入れていくことによって、そんな弱くてみじめな自分を大事にすることです。そうすると、自ずから、我が子のみならず、困難に出くわした人に対しても、スッと手助けの手を差し伸べることができます。

 自分を大事にしている分だけ、人も大事にできますね。

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