≪真の関係≫にいきる母親は、素敵です
子育ては、最深欲求に応えるほどの、私のない暮らし、すなわち、≪超越≫ができる。 本日はp48の6行目から。 &n...
昨日当ブログで、無意識に子どもを傷つける母親を書きましたでしょ。「えっ、そんな母親いるの?」と思われた方も少なからずいたのじゃぁないかしらね? あるいは、「ちょっと、言い過ぎじゃぁないの?」と感じた方は、もっといるかもわかりません。でもね、あんがい、身近にいるもんですよ。私は、仕事柄、相当数の、その手の母親に会ってますもんね。かく言う私も、ごくごく身近にいましたね。
その母親は、結局、自分を大事にされてこなかったから、わが子に対してさえ、世にも残酷な関わりを繰り返すことができるんですね。でも、意識してやってる場合も、ないではないのですが、その「世にも残酷な関わり」は、そのほとんどが「無意識のなせる業」、「無意識の暴力」なんですね。
それは、クリスチャンでなくても、知っていることが多い、次の聖句と関係があります。
「自分を大事にするように、あなたの隣人を大事にしなさい」
これは、新共同訳では、
「隣人を自分のように愛しなさい」(「マタイによる福音書」第19章19節、「マルコによる福音書」第12章31節、「ルカによる福音書」第10章27節など多数)
口語訳聖書では
「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」
となります。
私は、山浦玄嗣さんの教えに倣って、基本的に、αγαπωを「大事にする」と訳すことにしています。
しかし、新約聖書に出てくるこの聖句は、もともとは旧約聖書に出てきます。それは、「レビ記」第19章18節にあります。新共同訳では
「自分自身を愛するように、隣人を愛しなさい」
です。
新共同訳でも、口語訳でも、命令形ですね。私も、命令形で訳してあります。でもね、この元になっいる旧約聖書のヘブライ語の文章は、英語で言えば、must が入っている感じの文章だそうですね。
ですから、ここはね、つぎのように訳しなおすこともできます。
「自分を大事にする程度に、あなたは隣の人を大事にすることになっています」
私は、これが、心理学に唯一ある、例外のない法則であると考えています。心理学は、機械相手ではなくて、人間相手のことですから、例外のない法則はありません。しかし、上記の聖句だけは、例外のない心理学的法則なのです。
我が子を大事にできず、無意識裡に傷つけ続けてしまう母親という、非常に衝撃的な事実は、この法則が分かると、分かり易いと思います。それはこういうことです。
意識的には一生懸命にわが子を大事にしようとしているのに、いつの間にか知らないうちに、無意識的に、わが子を繰り返し傷つけてしまう。それは、どこかで「自分も大事にしてもらいたかったのに、大事にしてもらえて来なかった」という思いが幾重にも心の中の無意識にあるからなんですね。その思いは、その思いに留まらないことが無意識の恐ろしいところなんですね。その思いには、幾重にも、非常に否定的な気持ちがベッタリくっついてんですね。それは、自分が冷たくされたときのことを想像すれば、分かります。一回でしたら、「悲しい」、「寂しい」、「残念」、「不満」程度かもしれません。しかし、そういう思いになることが何度も繰り返されたら、どうでしょうか? その場合は、「激しい怒り」と「殺してしまいたいほどの憎しみ」を抱くことになんですね。その気持ちが、自分ではコントロールの効かない無意識の中に、滓のように、油汚れのように、ベッタリとくっついて、日常生活の中では、きれいにできずにいる訳なんですね。ですから、日々の生活の中に、その「激しい怒り」や「殺してしまいたいくらいの憎しみ」が、ときどは、あるいは、頻繁に出てくるわけですね。子どもに対する、禁止の言葉、命令の言葉、否定の言葉が止まらない時、子どもの事よりも、ついつい仕事に気持ちが行ってしまう時、その自分ではコントロールできない、自分の中の、無意識の暴力に、その人は、さらされている訳ですね。
ここから解放されるためには、カウンセリング・セラピーなどを通して、激しい怒りや憎しみを抱え込んでいる、弱くてみじめな自分を見つめ、受け止め、受け入れていくことによって、そんな弱くてみじめな自分を大事にすることです。そうすると、自ずから、我が子のみならず、困難に出くわした人に対しても、スッと手助けの手を差し伸べることができます。
自分を大事にしている分だけ、人も大事にできますね。