エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

本気は、キラリッ‼

2015-07-08 09:05:22 | アイデンティティの根源

 

 日本の家族が、家族同士で、諍いあい、口答えを言いあい、こころ密かに傷つけあい、殺し合うのは、2人の時間が、圧倒的に貧しいからです。忙しさ、せわしなさ=心の貧しさ ですよ。

 Young Man Luther 『青年ルター』p210の第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 それから、本気になることは、信条に基づいて、楯つくことじゃぁ、ありませんよ。つまりね、言葉がハッキリしていることが、信頼していることの証拠だと言うんじゃぁ、ありませんからね。本気とは、すなわち、元気を取り戻すときに、「何のために生きるのか」という価値を意識して、その価値に忠実であることなんですね。ですからね、リビドー、生命力を発揮させる努力を上手に昇華させることなんですね。本気になるのはね、自由な職人気質、すなわち、自分が生かされている手応えを、手塩にかけた仕事の中に、ハッキリと姿を現すんですからね。

 

 

 

 

 本気になることは、大きな声で自説を説くことや、エバッタ態度と勘違いする人がよくあんですね。そういう人は、アベシンちゃんと悪魔の仲間たちに騙されやすい。

 本気はね、むしろ、ささやかな仕事を物静かにやり続けることの中にあります。

 キラリッ と光る光が、必ず見つかりますもんね。

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エリクソンの言葉には、言葉にも、遊びがある

2015-07-08 08:27:20 | エリクソンの発達臨床心理

 

 エリクソンは、日常的に使う言葉を、ライフサイクルの中で使い直すことによって、日ごろ私どもが気付かずに過ごすことが非常におおい、人生の中にある価値や、人生に対する態度を、ハッキリと言葉にすることができました。ものすごい、天才、加藤周一さんくらいの、頭が飛び抜けて良い天才ですね。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、第3章p55の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 一般的に私どもが使う言葉に関して、私は理論的元締めのデイヴィッド・ラパポートを引用することにしましょう。彼は、自我心理学の中に確かな場を私に宛がおうとして、彼の読者に注意するようにと呼びかけました。すなわち、「エリクソンの理論は(フロイトの理論も大概そうですが)、現象面で、特に臨床上、精神分析心理学に見るものの見方に及んでいるのに、その言葉の違いについて体系的に区別をしません。したがって、エリクソンの理論の言葉が概念上、どんな位置づけがあるのは、従来ハッキリしません」(エリクソンの中のラパポート,1959)。小著の読者の皆さんも、ラパポートが言わんとすることが分かることになるでしょう。

 

 

 

 

 

 エリクソンのライフサイクルで使う言葉は、ラパポートが指摘する通り、ハッキリしません。それは、日常生活の心理を取り扱う性質上、言葉遣いを、物理学や化学の言葉のように、ハッキリすることをあえてせず、意識的に ”遊び” を持たせているからなんですね。”遊び”がある方が、日常生活の中にある揺れに、エリクソンの言葉が対応できるからなんですね。

 

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子どもが繰り返しやることには、計り知れない価値がある

2015-07-08 03:20:23 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
あなたは生きていて良いんだよ!
  対等になるには、強い立場のものが弱い立場の人の下に立つとき。理解、understandは、その意味で対等の時でないと、成り立たない。 今日は、p4...
 

 子どもが繰り返しやること。私はセラピストの端くれとして、子どもが繰り返しやることを大事にしています。これは1つの経験則です。子どもが繰り返しやることには、はじめはその意味が分からずとも、その子どもにとって、計り知れないほど大事な意味があることに繰り返し気付かされてきたからです。

 私はもともと知的障害のある子どもの施設の職員でしたから、最初は知的な障害、中でも自閉症の子どもとの関わりの中で、子どもが繰り返してやることが、いかに大事なことなのかを教えられましたね。本当にありがたいと思います。セラピストとしての私の眼を、育ててくれたからですね。と同時に、相手の子どもが育っていくことのお手伝いもできたからです。片方だけが育つ、ということは、実際にないんです。ですから、学校の先生も、家庭のお父さん、お母さんに申し上げたい。「この子は何で育ちが遅いのかしら」、「あの子は進歩がないね」と言いたいときには、その「育ち」、その「進歩」がないのは、眼の前の子ども、と言うよりも、それを言う教員としての自分、親としての自分の方だ、ということを忘れてはなりません。

 ひとつ、自閉症の、当時3年生の男の子が繰り返しやったことに触れておきましょう。その子はもともと、彼が4才の時に知的障害のある子の幼稚園(知的障害児通園施設)で一年間担任をしてきた子どもです。3年生の4月から週に一度週末の午後、その子がいつも遊ぶ遊びを一緒に遊ぶようになりました。その時半年間毎回繰り返したのは、自動販売機遊びでした。それは、百円玉(十円玉の時もありました)を自販機に入れる遊びです。ジュースの自販機ですから、百円玉を入れるのは、ふつうはお目当てのソフトドリンクを買うためですね。この子も、そうする場合も、もちろんあったんですね。しかし、この「自販機遊び」は、入れた百円玉を、返却レバーを押して、取り戻す、という遊びだったんですね。これは、イナイ・イナイ・バーの遊びの一種だったのです。でもね、はじめから、そうと分かったわけではありません。フロイトの「快楽原則の彼岸」(『フロイト全集』第6巻,p150-194)の中に出てくる1歳半の子どもの遊びや、新訳聖書の「ルカによる福音書」第15章に出てくる、「失くした銀貨」「迷える子羊」「放蕩息子」の3つの「失くしたものが見つかる」譬え、そして、エリクソンの「Seeing is Hopeng」(見ることは大きな望みを抱くこと)Toys and Reasons 『おもちゃと叡智』にある、「繰り返し、見失って、見つける相手を、新鮮に価値あるものと認めることが、人生で最初の礼拝です」(p.48)という言葉を繰り返し読む中で、はじめて、事の重大さに眼が開かれたわけですね。この遊びは、その自販機を管理している人に見つかれば、「いたずらは止めてください」、「保護者でしたら、ダメって言うのが常識ですよね」などと、繰り返し言われてきました。その場合は止めにしてもらうこともあったのですが、その「いたずら」の遊びには、根源的信頼感を豊かにする計り知れない意味があったんですね。

 先日も、絵画療法をしている女の子が、繰り返し棚の中に入っては、出る、という遊びをしていたんですね。予定していた絵をなかなか始めなかったのですが、子どもが繰り返しやること=計り知れない価値がある、ということが分かってましたからね、その遊びを続けてもらいました。どんな意味があるかって? それはこの次のお楽しみ、ということにしておきましょうね。

 

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